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ヴルーヘル学院には『王子様』がいる。
文武両道、眉目秀麗、勇猛果敢、気宇壮大。
彼が歩いた後には、新芽が芽吹き、
彼が微笑めば、嵐の中でも太陽が顔を出す。
彼が甘く囁けば、誰もがみな腰砕けになり、
彼が触れた者は、得も言われぬ至福の喜びを感じるとされている。
学院の生徒、特に女生徒の間では、彼に声をかけてもらうことは最大の幸運とされていた。
そして今日もまた、幸運な者がまた一人……
「ねぇ、落としたよ」
耳に残るような甘ったるい声に振り向けば、そこには美の女神・アフロディーテも真っ青になるぐらいの美しい男性がいる。
「あ、セシル様!」
その姿に女生徒は驚いた。そして頬を染め、瞳を潤ませる。
彼は彼女が落としただろうハンカチを彼女の手に握らせる。その仕草はまるで両手で彼女の手を握りしめているようだ。
「ありがとうございます――!!」
「気を付けてね。君の涙を汚れたハンカチで拭うわけにはいかないから」
彼の親指が頬に触れ、目尻に溜まった涙を拭う。
その瞬間、どこからともなく黄色い声が上がり、女生徒はハンカチを握りしめたまま卒倒した。
『王子様』の名前は、セシル・アドミナ。
..◆◇◆
「なんか最近、ますます『王子様』っぷりに拍車がかかってるよね」
人のいないガラス張りの温室で、ギルバートはそう口にした。隣には昼食のサンドイッチの最後のひとかけを口に放り込む『王子様』の姿がある。
「え? そう?」
「あれに関して言えば、勝手にしたらいいとは思ってるけどさ。あまりやりすぎると後で絶対に困ると思う。第一、目立ちたくなくて男装してるのにすっごい目立ってるじゃん。なんなの? 馬鹿なの?」
「うぅ……」
ギルバートの辛らつな言葉に、彼もとい彼女は胸を押さえた。
彼女の本当の名前は、セシリア・シルビィ。シルビィ公爵家に生まれた一人娘だ。
そして、現代日本から乙女ゲーム『ヴルーヘル学院の神子姫3』と酷似したこの世界に生れ落ちてしまった、いわゆる転生者である。
この国には人々を『障り』から守る『神子』と呼ばれる存在がおり、神子の力が弱まる時期に差し掛かると『選定の儀』と呼ばれる次代の神子を定める儀式が催される。『ヴルーヘル学院の神子姫3』は、その『選定の儀』を舞台にした、神子候補たちを守る騎士との恋愛を楽しむゲームである。
この物語でのセシリア・シルビィは恋敵役の悪役令嬢であり、どのルートでも絶対に死ぬという業を背負わされたキャラクターだった。彼女はそ死の運命を変えるため、こうして男装し、セシルという別人になりきっているのである。
現在は家庭訪問がかかった定期試験を終え、結果が出るまでの小休止期間を過ごしていた。
「それで、こっからどうするの? 方針としては相変わらずリーンと騎士をくっつける感じでいいの?」
「うーん。それがねぇ……」
唯一の協力者であるギルバートの問いに、セシリアは渋い顔をした。
リーンというのは『ヴルーヘル学院の神子姫3』のヒロイン、いわゆる乙女ゲームの主人公キャラクターである。しかし何の因果か、彼女も転生者だった。しかもその正体が、セシリアの前世『神崎ひよの』の親友『如月一華』だったのだから驚きである。
そして実は、セシリアはリーンに神子になることを断られてしまっていた。彼女曰く、
『私が神子になったら、ヒューイ君と恋人同士のままでいられないじゃない! それは嫌! 絶対に嫌!』
とのことらしい。確かに神子になれば、リーンはヒューイと一緒になることはできない。なぜなら彼は騎士ではないからだ。
(でも、なんとかならないものかなぁ……)
友人の恋も応援したいが、自身の命も大切なセシリアである。
しかもリーンは、一度貰ったジェイドの宝具を彼に返してしまっていた。このままでは、ギルバートの宝具を持ってしまっているセシリアが神子に選ばれるのは必至。そうなれば、セシリアは協会に洗礼を受けに行く道中、盗賊に襲われて死んでしまう。しかもゲームとは違いセシリアは男装しているのだ。それがどう悪い方向に転ぶかはわからない。
『セシリアが神子になっても大丈夫よ! 死なない、死なない! ……多分ね!』
能天気な前世からの親友の言葉が蘇る。セシリアが苦笑いを浮かべていると、ギルバートが心配そうな顔で覗き込んできた。
「どうしたの?」
「えっとねぇ……」
どう説明したものかと迷う。彼女が転生者で、かつての自分の親友だったことは、彼女の意向で秘密になっていた。もちろん、ギルバートにも秘密である。本当ならばギルバートには話してしまいたかったが、本人がやめろというのだから仕方がないだろう。セシリアは、言葉を濁す。
「リーンが神子になるのは今後ちょっと難しそうで……」
「そうなの?」
「うん。ほらリーンってば、なぜかヒューイといい感じでしょう? それで、他の人と恋愛する気はないみたいなのよね!」
「じゃぁ、どうするの」
「うーん……」
どうしよう。それがセシリアの素直な感想だった。なにかいい案でもないかと頭を捻るが、セシリアのない頭ではなにも浮かんでこない。
「それならさ、三人目を探してみたらどう?」
しばらく黙ったのち、ギルバートはそう言ってきた。セシリアは彼を見つめて目を瞬かせる。
「三人目の神子候補。要は姉さんが神子にならなければいいわけでしょ? それなら、生きてるかもしれない神子候補にすべてを投げたら? それでいろいろ丸く収まるんじゃない?」
「それだ!」
思わずギルバートを指さす。
セシリアの知る『ヴルーヘル学院の神子姫3』と、この世界とはいくつかの相違点があった。それは隣に座るギルバートやオスカーの性格から始まり、それぞれのキャラクターの関係性や、イベントの起こり方にまで多岐に及んだ。中でも不可解な相違点が二つ。一つはキラーという神子候補を殺す殺人鬼が現れないこと。そしてもう一つが、アザレアの痣を持つ三番目の神子候補が死んでないことだった。ゲームではアザレアの痣を持つ神子候補はプロローグの序盤、まだ物語が始まる前にキラーに殺されてしまっている。しかし、現実では神子の痣を持つ者が殺されたという噂は聞かない。新聞にもそういう物騒な話は書かれていない。また、いつまでたってもキラーが現れないことから、アザレアの痣を持つ神子は生きているのではないかという話になっていた。
「神子候補として名乗り出れないのは、何か名乗り出れない事情があるのかもしれないし、探してみても損はないんじゃない?」
「そうよね! ギル最高! 頭いい!!」
ぱぁっと満面の笑顔を浮かべ、セシリアはギルバートに抱き着く。そして、まるで褒めるように頭を撫でた。
「頭のいい弟をもって、お姉ちゃんは幸せです!」
「あー、はいはい」
ギルバートはやる気のなさそうな声を出す。そんな彼の態度に、セシリアは首を捻った。
「あれ? ギル、私が抱き着いても嫌がらなくなったね? もしかして反抗期終わったの?」
「そもそも反抗期じゃないし」
「え、そうだったの? 私てっきり思春期特有の照れとかそういうものだと思ってた!」
「思春期特有のものだったのかもしれないけど、姉さん考えているような可愛らしい感情ではないよ」
「うん。よくわからない!」
「……だろうね」
ふぅっと息を吐き出す。その顔は少し哀愁を感じさせた。
「俺はもうこういうの、役得だと思うことにしたから」
「役得?」
「姉さん、殿下にはこういうこと絶対にしないでしょ?」
「しないけど、どうしてそこにオスカーが出てくるの?」
「なんでだろうね」
今度はちょっと嬉しそうだ。最近のギルバートはちょっと良くわからない。わかるのは表情やしぐさに少し余裕が出てきたことぐらいだ。セシリアはそんな彼の変化を、『大人になってきてるんだなぁ』と解釈していた。昔から大人びている彼だが、こうなってくると自分の手を離れるようで少し寂しくもある。
「ま、もういろいろと吹っ切れたってことだよ」
セシリアはよくわからないまま頷くしかなかった。
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