7
幼少期のオスカーは子どもらしくない子どもだった。
彼は生まれ落ちた瞬間からいつか国を背負う人間だと教え込まれており、目に映る人間はすべて国を動かすための道具だと刷り込まれていた。その小さな肩には考えられないほどのプレッシャーがのしかかっており、それ故に彼は誰にも甘えられない子供に育っていた。
実の母である王妃にも、育ててくれた乳母にも、周りにいる大人たちにも、彼は何かを強請ることはしなかったし、願うこともしなかった。あるのはただ、命令だけ。
そんなオスカーの大人びた態度を周りの大人たちは『しっかりしている』と評しながらも、『生意気』と言って憚らなかった。
居丈高で生意気なガキ。
それが幼少期のオスカーを指す言葉だった。
そういった事情から、王宮で彼はいつも孤独だった。
王妃も乳母もしっかりとした彼の態度に口は出さなかったし、いつも命令口調の居丈高な子供に寄りつく人間はいない。また彼自身も自分のなにが悪いのか少しもわからなかったので、彼は年々孤独を深めていた。
そんなとき、彼は生まれて何度目かの社交界で、彼女に出会った。
公爵令嬢、セシリア・シルビィ。
オスカー六歳。セシリア五歳の時である。
彼女はシルビィ公爵家の息女で、見目は相当に綺麗だが、噂では両親にずいぶんと甘やかされている我儘娘だという。
オスカーが半年ほど早く生まれただけで生まれ年は一緒、貴族の格の観点から見ても彼の婚約者は彼女になるのではないかと、まことしやかに囁かれていた。
ハニーブロンドの髪の毛に、サファイヤの瞳。鼻筋は通っていて、薄く小さな唇が白い肌に色味を持たせている。
あと十年もすれば、誰もが振り返るような令嬢になるだろう。
幼いながらにも、オスカーはそう思った。
大人たちが談笑に勤しんでいる間、彼女は一心不乱に食事を口に運んでいた。
川魚のポワレに若鶏のコンフィ。豚肉のルーローに色鮮やかな野菜が入ったテリーヌ。牛肉のプレゼに子山羊のグリエ。ラタトゥイユにサラダ、スープ……
立食形式の食事なのにも関わらず、セシリアはそんなことなどお構いなしといった感じで、次々と食事を選んでは隅のテーブルで食べていた。まるで何日も食事を取ってなかったかのような食べっぷりである。
しかし、それでも公爵令嬢といったところか、彼女の食べ方はとても綺麗で洗練されていた。
社交場は食事を楽しむ場ではなく、貴族同士の交友を深め、持っている情報を交換する場だ。なのになぜ、彼女は誰かと話すことなく一心不乱に食事をとっているのだろう。
彼女に声をかけたのはそんな疑問からだった。
「おい」
「ふぁい?」
フォークを口に入れたまま彼女は振り返る。
その間抜けな表情に、あまり動かない表情筋がピクリと動いた気がした。
「なんでしょうか?」
口に入っていたものを呑み込み、彼女は首を傾けた。
「何をしてるんだ?」
「何って、食事ですが」
「食事をしているのは見ればわかる。なんでそんなにがっついているのかと聞いてるんだ」
疑問に思ったことをそのまま聞けば、セシリアは自分の皿に視線を落とし、ふっと表情を陰らせた。
「これは、やけ食いというやつです」
「やけ食い?」
「最近、自分が死ぬ夢を何度も見るんです。夢だって思うし、思いたいんですけど、どうにもこうにも生々しくて……」
深いため息を吐く彼女の顔は心なしか青白い。
そのまま独り言のように彼女はぼやく。
「いやもう、これがマジだったら人生の終わりというか。終わりに向かって突き進んでいるというか。認めたくないけど、認めざるを得ないほどいろいろはっきりし過ぎているので、もうそろそろ腹を括らないといけないかなぁとは思ってはいるのですが、いかんせん、『認めたくない私』が頭の中で大暴れを起こしておりまして……」
「何を言ってるのかわからないぞ」
「簡単に言うと、将来がお先真っ暗かもしれなくて、やけ食いをしてたんです」
「おい。夢の話はどこ行った」
「夢だったらいいなぁって話です」
会話をしているのに、全く話の内容が読み取れない。
正直、変な奴だな、という感想しかわかなかった。
セシリアはそんなオスカーのことを気にすることなく、ニコリと微笑んだ。
「でも、美味しい食事をいただいてたらだいぶ気が紛れてきました! このテリーヌなんて、最高でしたわ!」
「そんなに美味しかったのか?」
「はい! あ、もしかして、まだ食べておられませんでしたか?」
「食べてはないが……」
「それはもったいないです! 今日は王家主催のパーティなんですから、この機会にたらふく食べておかないと! タダですよ! こんなおいしい食事が、タダ!」
「……公爵家ではあまり食べさせてもらえてないのか?」
公爵家の令嬢があまりにも貧乏性なことを言うので、育児放棄でもされているのではないかと心配になり、そう聞いた。しかし、彼女は笑顔で首を振る。
「そんなことありませんわ。けれど、お金を払わずにこんなに美味しい食事を食べられる機会があるんですから、これを利用しない手はありませんわ! 個人的にはカップラーメンなどもあれば最高ですが、この世界にはないようなので仕方がありません」
「かっぷ、らーめん?」
「……今の言葉は忘れてくださいませ」
セシリアは急に青い顔になる。『カップラーメン』だったり『この世界にはない』だったり、彼女の言っていることはいまいち理解ができないが、話してみた印象は想像していた我儘娘とずいぶんと違う。
むしろ、明るく天真爛漫な印象を受ける。
(天真爛漫な娘が王妃としての資質かどうかと聞かれればいささか疑問だが、まぁ、この調子なら、政務の妨げになるようなことはしないだろう)
六歳とは思えぬ考えで、オスカーはセシリアのことをそう評価する。
噂に違わぬ我儘娘だったら、どうにかして王妃候補から排除してやろうかと考えていたが、どうやらその必要はないらしい。
「とりあえず、食べないと損ですわ。……ということで。はい、どうぞ」
「は?」
突然フォークが差し出され、オスカーは固まった。そのフォークの上には先ほど彼女が絶賛していたテリーヌが乗っている。
もしかしてこれを口で受け取れと言うことなのだろうか。
乳母にもそんな風に甘えたことがないオスカーは、顔を赤らめながら一歩引く。
「し、失礼だぞ! 俺は――」
「美味しいですよ? ほら」
「むぐっ……」
無理やり口に入れられる。そのまま吐き出すのもどうかと思い、そのまま咀嚼して飲み込む。確かにテリーヌは美味しかったが、いつも食べてるそれと何ら変わりない。
けれど……
「美味しいでしょう?」
そう微笑む彼女に顔の筋肉が解れた。
彼女はオスカーを王太子として認識していない。きっとどこかの貴族の嫡子ぐらいに思っているだろう。だからこその言動なのかもしれないが、彼女との気さくな触れ合いに胸が温かくなった。
「まぁな」
屈託のない笑顔に頬が熱くなる。
今まで友人と呼べる人間が周りにいなかった彼にとってセシリアとの触れ合いは、初めて知る子供同士の交流だった。
「ふふふ」
「……どうかしたのか?」
「ソースが付いてますわ」
セシリアは彼の頬についたソースをハンカチで拭う。
「おっちょこちょいですわね。なんだか、ギルみたい」
「お前がつけたんだろう?」
セシリアからハンカチを受け取り、自分で頬を拭いた。
彼女はなおもにやにやとオスカーの方を見ていた。
「なんだ。まだ何かついてるか?」
「いいえ。なんだかさっきから調子が悪そうな顔をしていたので心配してたのですけれど、元気になったようでよかったです。やっぱり美味しいものは人を元気にしてくれますよね!」
「……さっきまでの俺は調子が悪そうだったか?」
「はい。なんだかずっとお腹が痛いのを我慢されているような顔をしていたので、最初はちょっと怖かったです」
「腹が痛いのを我慢って……」
オスカーは別に顔をしかめていたわけではない。いたって普通に彼女に接していただけだ。なのに、それを『腹が痛いのを我慢されているような顔』と言われ、なんだか立つ瀬がなくなってくる。
「今のそのお顔の方が、怖くなくて私は好きですわ」
好きという言葉が脳内を反芻して、急に体温が上がった。
彼はとっさに彼女から借り受けたハンカチへと視線を移した。
そこには不格好なクローバーの刺繍がある。
「これはなんだ?」
「あはは。私が刺したんです。初めてなので、失敗してしまいました」
「……ヘタだな」
「うぐ……」
「でもまぁ、伸びしろがあると思えば、そんなに悪くない」
思った以上に優しい声が出て、オスカー自身が一番びっくりした。
セシリアも驚いたように目を見張っている。
「えっと、さっきのは――」
「オスカー様、こんなところに!」
言い訳を口にしようとした瞬間、大臣に呼ばれた。彼は丸い身体を毬のように跳ねさせながら、こちらに走ってきた。
「どうかしたか?」
「国王様がお呼びです」
「わかった」
「お、オスカー……?」
セシリアの震える声が耳に届き、オスカーは彼女を見る。
彼女は青い顔をしていた。唇は小刻みに震えており、大きな瞳はこれでもかと見開かれている。
「貴方が、オスカー・アベル・プロスペレ……?」
「そうだが?」
やっと気づいたかというような表情でオスカーが頷けば、セシリアは白目を剥き、その場に泡を吹いて倒れてしまった。
オスカーがセシリアに会ったのはそれが最後だった。
借りたままになっていたハンカチを返そうと屋敷に直接行ったことがあったが、体調が悪いからという理由で会わせてはもらえなかった。
その後も何度か理由をつけて屋敷を訪れたが反応は同じ。
病弱という噂が流れ、社交界にも全く現れなくなった。
そして、あれから十二年――
彼の手にはあの時セシリアから受け取ったハンカチと寸分違わぬものが握られていた。
「なんで、このハンカチをアイツが……」
唸るようにそう言い、オスカーは憎々しげに『学園の王子様』と呼ばれる彼を思い出していた。
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