ヤーゴと帚星《ほうきぼし》

凍龍(とうりゅう)

羊皮紙と羽ペンと計算尺

 ヤーゴが王立天文台の門をくぐったのは数えで6つを数えた春のことだった。

 養い親を相次いで病で亡くし、途方に暮れていたところ、いくつかの幸運が重なってたまたま欠員を生じた雑役方の新入りとして天文台に属すことになった。

 とはいえ、その歳では特に際立った才もなく、最初の数年はただただ雑用ばかりに明け暮れた。

 例えばそれは、職員の後について丸めた羊皮紙の束を運んだり、吸い取り紙でインクを押さえたり、夜ごと観測にたずさわる観測手たちのために手持ちランプに油を差したりといった簡単なものばかりだった。

 仕事は単調で、時に理不尽な叱責をうけることもあったが、一日二食、欠かさず支給される食事と藁の寝床を考えれば十分満足だった。

 ところが、ある年の暮れ、食事方に付き従って市場に下りた時のことだった。

 新年に向けた多種多様な食材の仕入れのおり、ちょっとした騒ぎが持ち上がる。

 買い物を任されていたのは厨房付の女中だったが、少しばかり数字に疎く、小賢しい露天商に計算をごまかされそうになった。

 ヤーゴは彼女の裾を引いて今まさに手渡そうとしていた代金を引っ込めさせると、その手から数枚の銅貨を除いて商人の顔を睨む。女中があっけにとられた顔で見つめる中、先に顔を背けたのは露天商の方だった。

 その日は結局ヤーゴがすべての計算を取り仕切り、つつがなく買い物を終えた。

 翌日、計算方で用いる羊皮紙やインクの買い出しの折、ヤーゴは荷物持ちを命じられる。

 長老はヤーゴに財布を手渡し必要な物品を告げると、あとは口をつぐみ、すべてをヤーゴに任せた。

 先日の市場での騒動がどうしたことかこの老人の耳に入ったものらしかった。

 この日もまた、商人とのやりとりにおいて水際だった暗算の才を見せ、長老の興味を引くことになる。

 翌日、天文台の一角にある計算室で臨時に行われた口試において、ヤーゴはすべての問いに対し暗算のみで間髪を入れず答え、その才非凡なるを証明して見せた。

 以後、ヤーゴはそのまま計算室付となり、天体の運行軌道についての計算を専門に行う計算方として、生涯天文台にたずさわることになる。

 ヤーゴの勤める天文台では、常時二千を超える天体についてその軌道を計算し、様々な組み合わせにおける食や合の発生をあらかじめ予測し、王宮に奏上している。

 中でもヤーゴは、赤くまばゆく輝くいくさ星の運行を担当することになった。戦星は運行が極めて早く、またその軌道は天球に張り付くように運行する他の星々とは桁違いに複雑であった。

 さらに、戦星の運行は地上で起こる戦乱を予見すると言われ、いつ、いかなる形で他の天体と相克を生じるかについて知ることは、国の方針を定めるために絶対不可欠であった。

 


 ヤーゴが十二歳を迎えた年、いつものように羊皮紙の束に埋もれ、薄暗い計算室で一心に羽ペンを動かしていたヤーゴの元に、観測手が気になる消息を持ってきた。

 戦星の近くに見慣れない星が現れたというものだった。

 ヤーゴはその晩ただちに観測手と共に夜空を見上げ、戦星に近い象限に、確かに刷毛でひっかいたような白っぽい天体が輝いているのを見た。帚星ほうきぼしであった。

 王国では、帚星は災いを呼ぶと恐れられていた。

 過去帚星の現れた後、流行病の蔓延や、干ばつ、蝗害こうがいなどが国を襲い、時には王朝が傾くことすらあった。

 ヤーゴは顔を曇らせた。急ぎ第一報を台長を通じ王宮に奏上すると同時に、その後数夜をかけて帚星の動きを見定めることにした。

 ほどなく、帚星は間違いなく戦星に迫りつつあることが確かめられた。

 しかし、過去の記録をいくら掘り起こしても、今回の帚星に似た天体は見いだせなかった。

 帚星は普通、数年から数百年の周期で繰り返し夜空に現れる。だが、くだんの星は過去数百年にわたるいずれの観測とも整合が取れなかった。

 つまり、今回の帚星は、王立天文台が設立されるよりさらに古代の帚星の再来であるか、あるいはまったく新しいものであるとしか考えられない。

 これは大いにヤーゴを悩ませた。過去に事例がないということは、その軌道がまったく予期し得ないということを意味する。

 帚星はいよいよ戦星の象限を犯そうとしている。このまま座視しておくことはできなかった。

 ヤーゴは王立大学の数学教授を訪ね、天体の軌道速算法、あるいは天体の軌道をある程度推算する方法について知見を求めた。だが、天文台の持つ知見を超える教えを受けることは出来なかった。

 このまま観測を元に手計算をいくら繰り返しても、軌道の確定には一定の時間がかかる。

 折しもこの年、北方の騎馬国家ユグニスが不穏な動きを見せようとしていた。

 手遅れになる前に速やかに帚星の軌道を定め、王宮に奏上せねばならない。だが、ヤーゴにはその方法がいまだ見いだせなかった。



 その日も、帰りは大変に遅くなった。

 帚星はいよいよその明るさを増し、いまだその存在を知らぬ者の目にも、そろそろ隠しきれなくなりはじめていた。

 いつもなら時に夜空を見上げながら緩やかな坂を下り、のんびりと歩いて宿舎に戻るヤーゴだが、今夜はさすがにそんな気持ちになれなかった。

 ただうなだれて、石畳の目地を数えるように足下ばかりを見ていたヤーゴは、酒場の格子窓からこぼれるランプの明かりが、石畳の目地と複雑に交差する様を見てふと、立ち止まった。

 ランプの輝きが格子窓の隙間を抜けて放射状に広がり、一方緩やかなカーブを描きながら港に下がっていく石畳の規則正しいマス目模様と交わっている。

 立ち止まったまま、そんなありふれた風景をぼんやりと眺めていたヤーゴは、その時突然のように閃いた天啓に、全身に粟粒のような鳥肌を生じさせた。



 これまでヤーゴは、天体の軌道をただ純粋な円であると信じて疑わなかった。

 ただし、帚星においては位置の計算に無視しがたい誤差が生じることがかつてから知られていた。

 もしも帚星の軌道が目の前の石畳に生じている格子模様のように、一方が大きく開いた双曲線であればどうだろう。

 帚星は緩やかなカーブを描きながら天の果てから太陽に極限まで接近し、そこで急激なカーブを描いて再び別の方向に飛び去っていくのだとすれば…。

 ヤーゴは激しく胴震いした。

 過去に類似の帚星がないことは既に確かめている。

 だが、このような軌道であれば、くだんの帚星が再び戻ってくることなどそもそもあり得ない。ただ一度きりの邂逅……。

 ヤーゴはくるりときびすを返すと、天文台に戻るため坂道を猛スピードで駆け上がった。

 これまでの計算方法ではくだんの帚星の軌道を決しきれないことはもはや明らかであった。

 ヤーゴはその後数日を悩みに悩み、あげくに指物職人の助けを得て特製の計算尺を創作した。

 彼が天啓を得た城下の石畳と酒場の格子窓からの漏れ明かりを縮小して定規の上に再現し、副尺を滑らせるようにしてその値を求める。むろんこれまでに例のある道具ではなく、これはまさにヤーゴの独自発明であった。

 ユグニスの侵攻を前に戦星と帚星の邂逅は精密に計測され、その奏上を以て王立軍は危なげなくしたたかに夷狄の騎馬兵を打ち据えることに成功した。



 ヤーゴの工夫による計算尺は瞬く間に市井に広がり、ただ天文運行の計算にとどまらず、後の王国の幾何、数学、そして商業をより一層の高みに導くこととなる。

 しかし、ヤーゴはその才を見込んだ王宮からの度重なる招聘に生涯応じることはなく、爵位に欲を見せることもなく、また恩賞も受けず、ただその一生を一介の天文台計算方として清貧に閉じた。



――――了――――

 

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