夏と私とコンクール

柚城佳歩

夏と私とコンクール

窓の外から蝉の大合唱が聴こえる。

奴らは音だけで気温を三度くらい上昇させているんじゃないか。

そんなくだらない事を考えながら、ジャージの裾をパタパタ扇ぎ、気休め程度の生温い風を取り込んだ。


日陰にも関わらず夏の熱気を十二分に感じられる廊下で、手にクラリネットを持ちながら、私は目の前の譜面とにらめっこしていた。


美凉みすず、どこかわからないとこあった?」


そう声を掛けてくれたのは、同じパートのあかり

個人練の時間、自分の練習の傍ら、私の面倒も見てくれている初心者にはありがたい存在だ。


「それは大丈夫なんだけど、ここの部分難しくて」

「あぁ、そこ指が縺れそうになるよね」


燈はちょっと笑ってから、また譜面に何やら書き込んでいる。

全体練習の時も、よく気付いた事などを書き込んでいるようで、既に音符が見えないくらいにたくさんの文字で埋め尽くされている。

対して私の譜面は、ちょこちょこと書き込みはしてあるものの、同じものだとは思えないくらいにほとんど綺麗なままだった。




つい先週夏休みに入ったばかりだと言うのに、どうしてこうも毎日部活の為に学校へ来ているのか。

それはきたる吹奏楽コンクールの地区予選が目前に迫っているからだった。


全日本吹奏楽コンクール。

年に一度開催されている大きな規模のコンクールで、地区予選を勝ち抜けば全国大会へ出場する事が出来る。

私達は、全国大会出場を目標に、日々練習に励んでいた。




中学まではバスケ一筋だった。

身長は決して高い方ではなかったが、強化選手に選ばれるくらいには実力もあった。


そんな私の日常がある日を境に一変した。

膝を故障したのだ。

それまでも怪我なら何度か経験があったし、今回もまた少し休めば練習に戻れると思っていた。


「リハビリをしたとしても、元のように走り回るのは難しい」


そう言った医師の言葉を最初はなかなか信じられなかった。

だけど。今までと違う痛み方と、思ったように動かせない身体に、嫌でも納得せざるを得なくて。

初めこそ一緒にやってきた仲間のサポートをしようとマネージャーをやってもみたけれど、練習や試合を見る度に、どうして私はあっち側にいないんだろうとだんだん悔しさばかり募るようになってきて、遂にマネージャーも辞めてしまった。


高校では帰宅部のつもりでいたのに。

どうして今、こんなところにいるのか。

それは入学式の時に観た先輩達の演奏が、どうしようもなくかっこいいと思っちゃったんだからしょうがない。


何かに突き動かされるように見学に行き、楽器の事などピアノとリコーダーくらいしかわからなかった私を「苗字も倉多くらたでピッタリじゃん!」と独自の理論でクラリネットパートへと誘ってくれたのが燈だった。


制服が可愛くて家からも近いという理由でこの高校を選んだ私と違って、燈は強豪として有名なこの高校の吹奏楽部に入りたくて受験したそうだ。

聞けば小学生の頃からずっとクラリネットをやっているらしく、素人の私が言うのも何だけど、先輩達より燈の方が上手いと思う。




そんな燈はさすがと言うべきか。

55名以内という規定人数の為に行ったコンクールメンバー枠を賭けた部内オーディションで、一年生ながら見事その枠を勝ち取った。


周りの熱意に触発されるように、私も一所懸命練習してオーディションを受けたけれど、メンバーには選ばる事はなく。

去年まで、音楽の授業でやるリコーダーでさえ苦戦してきたのだ。

高校から始めたばかりの私が経験者揃いのメンバーの中に入れるとはとても思っていなかったけれど、落ちた時はやっぱり悔しかった。


「来年は絶対一緒に出ようね」


泣きながら、私よりも悔しがってくれたんじゃないかと思う燈のお蔭で、完全にすっきりと、とまでは言わないが、今は補欠メンバー兼サポート要員としての気持ちを切り替える事も出来た。




そうして迎えた地区予選大会本番。

会場まで一緒に行こうと約束していた燈を駅で待っていると、スマホの着信音が鳴った。発信元は燈だ。


「おはよう、どうしたの?」

「…あのさ、今日なんだけど」

「うん」

「熱、出ちゃって…」

「えっ」

「すごく行きたいんだけど、お母さんがダメって言って聞いてくれないの。だから会場までは一人で行って。ごめんね」

「いいよ私の事は。それよりも自分は大丈夫なの?」


私の問い掛けに少しの間沈黙があった。

やがて、燈は言葉と一緒に苦しさを吐き出すように、ゆっくりと話し始めた。


「…お母さんがね、コンクールなら来年もあるじゃない。また来年出ればいいでしょうって言うの。だけどね、そうじゃないんだよ。そういう事じゃないの」

「…………」


どう返すべきか、すぐには言葉が出てこなかった。

お母さんの気持ちはもちろんわかる。

電話越しの声だけでも調子が悪いのがわかるのに、そんな状態で演奏するなんてとてもじゃないけど無理だろう。


だけどね、違うんだよ。

確かにコンクールは来年もあるけど、このメンバーで一緒に演奏出来るのは今回だけなんだよ。

誰よりもすぐ側で見てきたから、燈の気持ちは痛いくらいにわかった。

今だって、例え這ってでも来たいに違いない。


「本当は私が出たいけど、今の私じゃ行ってもきっとみんなに迷惑掛ける。だから美凉、お願いがあるの」

「…何?」

「私の代わりにステージに立って。私の楽器で、演奏してきて」

「待って、急にそんな事言っても無理だよ!」

「無理じゃない。最初からずっと一緒に見てきた私が保証する。美凉、自分で思ってるよりもずっと、ちゃんと上手くなってるよ」

「でも、オーディション落ちたし…」

「それは人数制限があるからね。もし何人でもOKなんだったら、間違いなく受かってる」


それでも躊躇いが消えない私へ畳み掛けるように燈は続ける。


「私の代わりは絶対に美凉がいい。…お願い。先生と先輩には話しておくから」

「…わかった」


そこまで言われたら頷かない訳にはいかない。

決意を込めた想いが伝わったのか、燈は「ありがとう」と嬉しそうに笑った。




規定人数はあくまで上限であって、それ以下であれば少なくとも構わない。

燈にはああ言ったけど、私が出る事を好ましく思わない人もいるんじゃないかと不安もあったのだけど。


集合場所に着いた時、既に話を聞いたらしい先輩や他の仲間達が、急遽参加が決まった私を快く受け入れてくれたばかりか、励ましの言葉を掛けて緊張を和らげようともしてくれた。


運搬用のトラックから楽器を降ろし、それぞれに楽器を組み立てて準備をする。

私は自分の譜面を見ながら最終確認をしていた。


本番は暗譜だからこの譜面は置いていく。

大丈夫、オーディションに落ちた後も毎日練習してきた曲だ。ちゃんと覚えている。

譜面の余白、いつかの練習の時に燈が書いてくれたメッセージが目に留まった。


“来年は絶対一緒にコンクール出ようね!”


まさか私の方が出る事になるとは思わなかったけど、そうだね。次は絶対に一緒に出よう。


出番が近付き、ステージ袖へ移動する。

前の学校の演奏を聴きながら、燈がいつも大切に吹いてきたクラリネットをそっと握り締めた。

演奏が終わり、拍手と共にアナウンスが入る。

いよいよだ。


コンクールは、課題曲と自由曲の二曲合わせて約十一分。

先程までのざわめきが嘘のように張り詰めた空気の中、指揮者である先生に合わせて楽器を構える。

私達の演奏が始まった。




いつもより周りの音が聴こえる。

夏休みの始め、苦戦していた箇所も、今では滑らかに吹けるようになっていた。

気持ちいい。合奏って、こんなにも楽しいものだったんだ。

初めてのコンクールの緊張感よりも、演奏する楽しさが上回ってきた時。


ピィー…。


口許に変に力が入ってしまったのかもしれない。リードミスをしてしまった。

やばっ―。瞬間的に焦ってしまいそうになる気持ちを堪え、指揮に集中する。

落ち込むのは今じゃない。今出来る最善は、気持ちを切らさず最後まで吹き切ること。


その後はミスらしいミスはなく。

会場の拍手に包まれながら、私達の演奏が終わった。




全ての出場校の演奏が終わり、残すは結果発表のみとなった。

祈るような気持ちで座って発表を待っていると、不意に後ろから肩を叩かれた。


「…燈!」


振り向くとそこには家で寝ているはずの燈が立っていた。


「やっぱりどうしても気になって…。来ちゃった」

「熱は?歩いて大丈夫なの?」

「朝よりは下がったかな。まだ怠さはあるけど、動けない程じゃないよ」


慌てて隣に座らせながら、顔色を窺う。

触れた手は熱いし、目も潤んでいるけれど、今ここに来てくれた事がとても心強かった。

そのまま一緒に結果を待つ。


早く言ってくれ、でもまだ言わないでほしい。

どちらの気持ちも綯い交ぜになって心臓がバクバク鳴っている。


『――高校、………金賞』


私達の学校が読み上げられた。

パチパチパチパチ――。

会場に拍手の音が響く。


「やった!金賞だって!」


隣の燈を振り向くと、複雑そうに笑っていた。

他の部員のみんなも、あまり喜んでいるようには見えない。


「どうしたの?金賞っていいんじゃないの?」

「…うん、その通りなんだけどね。ただの金賞じゃダメなんだよ。“ゴールデン金賞”じゃないと次に行けないの」


私はこの時初めて知ったのだが、参加団体数が多いと、同じ金賞でも次へ行ける高校と行けない高校があるそうだ。

こうして、私達の夏が終わった――。




「まだまだあっついねー」

「ねー」


今年のコンクールは残念ながら終わってしまったけど、部活までが終わったわけではない。

翌日も変わらず部活に来て、新しい曲を練習していた。


毎日必死に走ってドリブルとシュートの練習をしていたあの頃。

膝の怪我がキッカケでバスケを離れた時には、またこんなに必死になれるものと出逢えるなんて思ってもみなかった。

引き合わせてくれた全てのものに感謝の気持ちでいっぱいだ。


「燈、次は絶対一緒に全国行こうね」

「もちろん!」


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夏と私とコンクール 柚城佳歩 @kahon

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