とある夫のモノローグ  KAC4

ゆうすけ

夫が新たな作戦で妻に挑む休日の夕方

 

 土曜日の午後5時45分。

 ある夫婦のマンションのダイニングには、二人が向かい合って座っていた。

 そこはかとない緊張感が漂い始める。

 これはその夫婦が毎週末行っている真剣勝負だった。


「今日もやるの?」

「ああ」


 妻はあきれ顔だった。

 現在夫の8連敗中。

 少しハンデを付けないと、これはもはや対等な勝負とは言えない。それでも懲りずに向かってくる夫に「うちの旦那、もしかしてバカなんじゃない?」という思いが頭をかすめる。しかし夫にそれを言っても無駄なのは重々承知している妻だった。


「しょうがないわね。まったく。それじゃ時間の確認よ」

「17時49分30秒だな」

「OKね。あなたの先攻でいいわ」


 妻は夫に先攻を譲った。それは今の夫が唯一受け入れる妻からの譲歩だった。だいたいこの勝負は先攻して先制する方が有利なことは二人とも分かっていた。


「よし。じゃあ行くぞ」


 夫はいつもと違う静かな口調で語り始めた。



◇◇◇◇◇


 そのころの俺は、人生をさまよっていた、という表現が一番ぴったりくる。


 入社して3年目。おまえも知ってる通りはじめて地方勤務になった。


 まあ大学時代から一人暮らししてたから、住むところが多少変わってもなんとかなるさ、と軽く考えてた。それよりも、おいしい魚、ごく身近にある美しい海と山、暖かい冬。新しい土地で暮らすことに対する期待の方が大きかったんだ。これはホントだぜ? 始めてあの駅に降り立った時はしばらくの間、ここが俺の拠点だ、と思ったよ。いや、ホント冗談抜きでね。


 ところがさ。そう甘くはなかった。

 習慣というか風習の違い、言葉の違い、気候の違い。同じ日本だから大して違いなんかない、そう思ってたよ。正直なところね。でもそれは大きな間違いだったな。

 朝早くから仕事して、仕事が終わったら職場の人と飲みに行って、帰ったら寝る。そんな生活を続けててもさ、街とつながりなんかできやしない。そりゃそうだよな。

 俺は確かにあの街に住んではいた。でも心はあの街には根付いていなかった。気分は旅行者だったんだ。

 うん。今なら分かるさ。でもその時は気が付かなかった。俺の根っこはその街にはなかったんだよ。根無し草と同じさ。


 孤独は、じわじわと俺を蝕んでいった。

 少しずつ、少しずつ。俺自身が気が付かないうちに。


 半年もすると休日の朝が来るのが怖くなってきたんだよ。

 なんでだと思う?

 休日の朝、目が覚めるじゃん?物音ひとつしない自分の部屋。朝からどうしようもない孤独感に浸るのがイヤでさ。街がある程度賑やかになる時間まで寝続けるようになったんだ。

 最初は布団の中でぐだぐだしてるだけだったんだけど、そのうち本当に朝寝坊するようになっていった。11時ぐらいまで寝てるなんて当たり前になったよ。そして起きたら車で出かける。あてもなく。一人で。


 でもそんなことしても本質的には何も解決しないんだよな。おまえも知ってると思うけど、一人で車で出かけるのってさ、基本的に孤独な作業なんだよな。一人で運転してると誰とも喋んないじゃん?


 そんなことやってるうちに俺さ、街との繋がりがどんどん希薄になってっちゃったんだよな。


 街と繋がれない俺は、街に背を向けてさ。拗ねてたんだよな。誰も俺を見てくれない。誰も俺に気づいてくれない。俺なんかここにいなくても誰も気にも留めない。そんな風に思っていたんだよ。実際そうだったんだけどな。


 でさ、その時はこう考えていたんだ。「どうせあと2年ぐらい我慢すればまた本社に戻れる。本社に戻れば友達もいるし、街に馴染みもある」ってね。


 ところが、そこにあれだよ。そう、うちの会社がやったあのエリア分社化。全国を8つに分けてそれぞれ地域ごとに別会社にして、本社は独立した親会社になるっていうアレ。俺は事実上地方に取り残されちゃったんだよ。そりゃ本社には戻れる可能性はあったよ? でもその先にあるのはいずれまたこの街に戻って来るルートだったんだ。


 俺は絶望したね。

 会社にも、仕事にも、上司にも、同僚にも、まったく不満はなかった。

 でも、俺はこの街では暮らせない。この孤独には耐えられない。この街は俺を受け入れてくれない。


 迷ったけどさ、俺は書くことにしたんだ、辞表を。

 その時、俺は……、こう考えたんだ。



―――― 紙とペンと、少しの勇気があれば ……、この孤独から抜け出せる



 その日の帰り、文房具屋に寄ったんだ。コピー用紙に茶封筒でも良かったんだけど、俺、会社に不満があったわけじゃないからさ。こういう時はちゃんと誠意をもって辞表したためよう、そんなこと思ったんだ。

 その文房具屋は会社から俺のマンションの途中にあってさ。正直、こんなところに文房具屋があるなんて気づいてもいなかった。小さいけど小ぎれいなお店でさ。

 店の中に入って俺、店員のお姉さんに声をかけた。俺よりも少し若いぐらいの小柄で目のクリっとした長い髪のお姉さんだった。どっかで見たことあるな、と思いながら。


「あの……、便箋と封筒がほしいんですけど」

「右から2番目の棚にありますよ」

「いや、その、それは分かるんですけど、どんなの選べばいいかなと思って」

「?」

「辞表を……、書こうと思ってるんです。そういうのにはどんな便箋と封筒を選べばいいのか分からなくて……」


 店員さんは驚いたように目を見開いたよ。


「あの……、あの……、〇△商事の方ですよね?会社辞めちゃわれるんですか?」


 なんでこの人、俺のこと知ってるんだ、と思った。そしたらお姉さん、こう言うんだ。


「うち、そちらに文房具納品してるんで、私もたまにお届けに行ってるんです。あなたのこともオフィスにいらっしゃるの見たことあります」


 あ、あのコピー用紙とか届けてくれてる人か、と思ったよ。いつも作業着で髪の毛も帽子に入れてるから分からなかった。


「そうでしたか。いや、会社や仕事に不満はないんですけど……。ちょっとここを離れたくなった、みたいな理由で……」


 人に説明してるとさ、なんかくだらねー理由だな、と情けなく思ったよ。だってさ、要約すると「友達いなくて寂しいから会社辞める」ってことだもん。


 その日、お姉さんに教えてもらった便箋と封筒買って帰って書いたよ。辞表。


 そして次の日、出社してからも随分悩んだんだよね。

 辞表なんて誰にどうやって提出したらいいか分かんないじゃん。係長ってわけにはいかんだろうし、部長に出すのかな? 支店長に直接出した方がいいのかな?

 そんなこと考えて仕事してたらさ、結局昼になっちゃった。


 そしたら昨日の文房具屋のお姉さんがコピー用紙と文具納品に来たんだよ。

 お姉さん、俺を見つけるとほっとした顔して小さく頭下げて。

 しばらくためらった後、俺のデスクに来て言ったのさ。


「あの、辞表は……、出さない方がいいと思います」


 そして俺のデスクのメモ用紙を1枚破って、胸のポケットからペンを出してさ。思い切った様子で何か書いたのさ。


 ――― 紙とペンと、お姉さんの少しの勇気。

 

 そのメモ用紙には、こう書いてあったんだ。


「続けていればいつか必ずいいことありますよ!」



◇◇◇◇◇




「…… そうやって今、俺はここにいる」


 夫は妻の瞳を見た。妻の大きな瞳はわずかに潤んでいるかのように見えた。


「…… みたいな話を最近書いている」

「あなた…… その話って ……」


 夫婦はしばし見つめ合う。

 何秒間かの沈黙の後、妻は口を開いた。


「…… 面白いと思ってるの?」

「んー、イマイチかなあ」

「クソつまんないわよ。あなた、才能ないわね。これっぽちも」

「…… ですよねー。はい。すんません。…… 俺の…… 負けです」


 ふくろう時計が鳴いた。

 妻のターンにまわることなく、今日の勝負は夫の敗北だった。


 夫は観念したようにエプロンを付けてキッチンに向かった。


 今日のメニューはお鍋とあらかじめ決まっている。夫は土鍋をコンロにかけながら考えた。


(まあ、今日はしょうがない。あいつにターンを回したら、パソコンの中身のこと突っ込まれる)


(それだけは死んでも避けなければいけない……)


(今日はお鍋で調理の手間もない。今日は捨てゲームだ。来週こそ、見てろよ)



 どんっ。

 

 夫は背中に衝撃を受けて振り返る。

 エプロンを付けた妻が拳で夫を小突いていた。


「そんな作り話よりも、わたしたちの話をそのまま書いた方がよっぽどましじゃない? それに …… 」


 妻は少し照れた表情で夫の耳元で囁いた。


「変なつまらない作り話に、すこーしだけホントの話をまぜるの、やめてくれない? 恥ずかしくなるから」


 妻は夫をキッチンから押し出して、赤くなったむくれ顔で告げる。


「私がやるわ」


 夫は呆然と妻を見やる。


(何照れてやがるんだ、こいつ。あの話のどこが本当でどこが嘘かなんて、誰にも分かりゃしないのに……)


 妻は包丁を出すとリズミカルに野菜を切り始めた。手元の白菜に視線を落として夫に告げる。


「あなたはもみじおろし作ってて」

「えー!もみじおろしよりは鍋作る方がいいんだけど……」

「うるさい!早くしないとこっちはできちゃうよ!」


 これは、勝ったのか負けたのか。

 夫の気分はいまだ釈然としない。




おわり




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