喫茶店のアンケート

初音

喫茶店のアンケート

 カランカラン、と小気味よい音がしたかと思うと、「いらっしゃいませ!」と聞き慣れない女性の声が聞こえた。


 それが少し引っかかりながらも、男は店内の様子には目もくれずにいつもの席へと座り、メニューを見ずに店主が来るのを待った。


「ご注文は、いつものブレンドでよろしいですか?」


 声をかけてきたのは、先ほどの声の主と同一人物だった。男はようやくその女性を見上げた。


「えっ、新人さん?よく”いつものブレンド”なんてわかりましたね」

「はい、いつも父から聞いていますので」


 男が首を伸ばしてカウンター席の方を見やると、店主のおやじが照れくさそうに微笑みかけた。


「どんな風に話されてるのか気になるな……。まあいいや、そのいつものブレンドでお願いします」

「はいっ、少々お待ちくださいませ」


 娘はお冷やを置くと、スタスタと奥に消えていった。


 ――ここの娘さんか。大学生くらいかな。

 こんな年頃の娘がいるなんて、聞いてなかったぞ。


 もっとも、店主とは「ブレンド。いつものやつで」「はい、ブレンドですね」くらいの会話しかしたことはなかったから、娘がいること、そしてそれを知らなかったことがそんなに特筆すべきことでもないということを男は思い直した。



 ふ、とテーブルの端に目をやると、いつも紙ナプキンが差し込まれている入れ物が二つあり、片方は用途通りに紙ナプキンが入っていたが、もう一つには、葉書大ほどの紙が何枚か入っていた。


 一枚手に取ってみると、こう書いてあった。


 ***


 アンケートにご協力ください。


 当店にまた来たいと思いますか?

 はい・いいえ


 それぞれ、その理由を教えてください


 当店のメニューで好きな物があれば、ご記入ください。


 当店に関するご意見、ご感想などご自由にご記入ください。


 ***


 こんなもの、前からあったかな?と男は小首をかしげた。


 チェーンのファミレスではたまに見かける代物だが、この昭和から取り残されたような喫茶店では、なんとなく違和感があった。


「ブレンド、お待たせしました」


 置かれたコーヒーからは、いつもの香りが漂ってくる。ホカホカとした湯気が、少しくすぐったい。


「これ、前からありましたっけ?」男はアンケート用紙を娘に見せた。


「いえ、まだ置いたばかりで。実は、お恥ずかしい話なんですけど、父はこの店を閉めようとしていて」

「えっ!」

 

 確かに、元々客の多い店ではなかったが、最近はそれに輪をかけて客足が減っている気がした。


「常連さんにはご贔屓にしていただいてますけど、新規のお客さんにも来てもらわないとやっぱり立ちゆかなくて……。ほら、通りの向こうにスノーフロントができたでしょう?あれがトドメみたいになっちゃって」


 スノーフロントというのは、どの町にも必ず一つはあるようなチェーンのカフェである。チェーンだが、オシャレな雰囲気と次々に繰り出される期間限定ドリンクで根強い人気を博している。 


 なるほど、と男は得心した。


「閉める前に、もう少し足掻いてみないかって父に提案したんです。それでまずは今のお客様のご意見を聞こうと。よろしければ、書いてくださいね」


 娘はにこっと笑うと、スタスタと去っていった。


「ここ、なくなっちゃうのか……」


 男はポツリとつぶやいた。


 この店の雰囲気と、コーヒーが好きだった。

 少しくたびれた一人掛けソファも、クッション部分が程よくフィットし、まるで自宅の家具のような安心感さえあった。

 男はここで読書をすることもあったし、ノートに何かを書いていることもあった。


 コーヒーを一口すすり、アンケート用紙を眺める。


 一枚書いてみるか、と思ったが、紙は置いてあるのにペンはなかった。

 仕方なく自分のペンで、と思い、男が鞄の中をごそごそと探すと、一本のボールペンが出てきた。


 男はそのペンで、着々とアンケート用紙を埋めていった。



 次の週、男が喫茶店に入店すると、娘が慌ただしく男の席へやってきた。


「あのっ、この前、アンケート置いてってくれましたよね!?この絵って、お客様が描いたんですか?」


 そう言って、娘はぴらっとアンケート用紙を提示した。


「ええ、まあ、そうですけど……」

「それと、先日お忘れになっていったこのボールペン。『くるみ社創業50周年記念』って書いてありますけど、絵本で有名なあの出版社のくるみ社ですよね?もしかして、社員の方なんですか?」

「くるみ社の人間ではないんですが、ちょっとパーティーに呼ばれる機会があって。そのボールペンは、粗品でもらったものです。忘れたんじゃなくて置いてったんですよ。ここの席、アンケート用紙はあるのにペンがなかったから」


 娘は「あっ」というような顔をして、「すみませんでした。でも、いいんですか?いただいてしまって」と恐縮した。男は、どうぞどうぞと言って、差し出されたペンを受け取らなかった。


「あの、違ってたら申し訳ないんですけど、もしかして『くまさんとうさぎさん』の絵を描いている方ですか?」


 まさかここでその絵本の名前が出てくるとは思わず、さらには職業をぴたりと言い当てられた男はやや狼狽したが、「まあ、恥ずかしながら……」と肯定した。


「やっぱり!この前、親戚の子にあげる絵本を選んでいて、『くまさんとうさぎさん』がとってもかわいい絵だったんでそれにしたんです!アンケートに絵本の『くまさん』が描いてあったからもしかしてと思って!」

「いや、すごい偶然ですね。あの絵本、あんまり売れなかったのに」

「え!そうなんですか?その親戚の子のお母さんは、子供たちの間で大人気で、図書館の本は読まれすぎてボロボロだって言ってましたよ」


 そういうことか、と男は人知れずため息をついた。

 その子供たちの親たちがみんな新品を買ってくれたら、自分の懐はいささか暖かかっただろうに、と。


「それにしても、このほんわかした絵を描いたのが男性だとは思ってませんでした」

「ああ、よく言われます」


 以前は、「男がこういう絵を描いたら悪いかよ」と心の中で悪態をつき斜に構えていたが、最近では半ばどうでもよくなってきていた。

 それよりも、その後の娘の発言の方が男には驚くべきものだった。


「あの、この一週間、考えてみたんですけど、看板を描いてくれませんか?」

「へ?」

「『くまさんとうさぎさん』は子持ちのお母さんの間じゃ有名です。まあ、そのまんま『くまさん』と『うさぎさん』を描くのは版権がどうのとかあるでしょうから、同じタッチで、犬とか、鳥とか、ねずみとか、かわいい動物を描いて欲しいんです。もちろん、お金は払います!」


 男は突然の提案に面くらい、カウンターの向こうにいる店主をちらりと見た。その視線に気づいたのか、店主は男の元へ歩み寄ってきた。


「いつもありがとうございます。すみませんねえ、娘が突拍子もないことを言い出して……。ですがね、私からも一つお願いできませんか」


 聞けば、子連れママたちの口コミ力やネットワークに目をつけ、「空いている店内」「古いがゆったりとしたソファ」を(若干自虐的ではあるが)売り文句に新規顧客として狙おうと計画しているらしい。

 その起爆剤として、男の描くイラストが必要なのだ、と。


 男は悩んだ。

 こういう仕事をしていると、友人知人に「結婚式のウェルカムボード、ちゃちゃっと描いてくれる?」などと言われる事もままあり、彼らは当然のようにタダでそれを頼んでくる。よほど仲の良い友人ならまだしも、大した義理もない知人に頼まれるのは穏やかではなかった。

 だが今回はお金は払うと言ってくれているし、何より喫茶店の存続がかかっている。男も他人事には思えなかった。


 少しの沈黙の後、男は「わかりました」と答えた。


「お代は、コーヒーを一杯サービスしてもらえたら、それで構いません」 

「え!それじゃああんまり安すぎますよ!」店主が慌てたように言った。

「では、五杯分。それでだいたい二千円くらいでしょう。十分ですよ」




 かくして、男の描いたかわいらしいデザインのブラックボードは、イーゼルに立てられ店頭の目立つところに出された。


 思惑は当たり、チェーン店の狭さや騒がしさに辟易した子連れママグループや家族連れで店内は賑わうようになった。



 男は、カラン、とベルの音を立てて入店した。


「いらっしゃいませ!いつものブレンドですね!」


 すっかり勝手知ったる娘は、カウンター席に座る男にコーヒーを差し出した。


「今日で五杯目か。ありがとうございます。サービスしていただいて」男は慇懃に礼を言うと、じっくりとコーヒーの香りを嗅ぎ、口に少し含んだ。


「お礼を言うのはこちらの方です!おかげさまで、営業を続けられそうです!」


 満面の笑みを見せる娘に、男は「よかった」と声をかけた。



「ありがとうございました!またお待ちしています!」


 店主と娘の声を背中に聞きながら、男は店を出た。


「またお待ちしています!」とは言われたが、男はもうこの店には来ないだろうと思った。



「アンケートに書いたんだけどな」



 ――当店に関するご意見、ご感想などご自由にご記入ください。


 ――この店のコーヒーはもちろん、静かで落ち着ける雰囲気が好きです。営業継続のためにこのアンケートがお役に立てれば幸いです。



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