「さくら川」

スーパーちょぼ:インフィニタス♾

『さくら川』

『待ってろよ桜、絶対に助けるからな!』


 夕暮れ時。川沿いの道を一目散に走る一人の男がいた。

 短冊を握りしめながら走っていた男は、上がってきた息を押さえるように肩を上下させながら、疲れを振り払うように風を切って進んだ。


『まったく、こんなの分かるわけねぇだろ。どうか……間に合ってくれ――』


 天を仰ぐように呟くと、男は走りながらさらに強く短冊を握りしめた。

 顔を出したばかりのすすきと桜が春風にふわりと揺れた。

 夕陽に向かって駆ける男の後ろ姿を見守るように、茜色に染まった世界でさざ波のような川原の芒がきらめいた。――



 *


 

『待たねぇかおめーら。その人を放しな』


 時は半日ほど遡る。徳川時代とも呼ばれるこの江戸の時代にその男は生きていた。


『増田さま……! どうしてここに? 助けに来てくださったのですか』

『あたりめーよ』


 火事と喧嘩は江戸の花とはよく言ったもので、この日も江戸の町の真ん中で、先日の小火ぼや騒ぎをめぐってちょっとしたいさかいが起きていた。


『ふっ、誰かと思えば増田か。他人事ひとごとだと思ってずいぶん偉そうに。拙者はこの前のぼやのお詫びに一緒に甘酒茶屋へ行くぐらいの心づけはもらってやってもいいぞと申しておるだけだ』

『てやんでぇ、偉そうなことを言ってるのはおめぇだろ』


 増田は啖呵を切った。


小袖こそでさん嫌がってるじゃねーか。若い女性相手に大人の男が三人がかりなんて江戸っ子の風上にも置けねぇな』

『言いがかりはやめてくれないか増田。そもそも小袖殿のストーカーつきまとい犯が道に忘れてった煙草きせるの灰が原因のあのぼや。拙者の庭の松の木を見てみろ。いまだに痛々しい焦げ跡が残っている。だが拙者も武士、そんなことをねちねちと人様には他言致すまい。だからこそこうしてあの評判の峠の甘酒茶屋に今度一緒に参ろうと誘っておるのだ』

『人様にべらべら喋りながら言う台詞じゃねぇな。それにどうも誘ってるようには見えねぇが?』

『何だと――?』


 増田は腰を落として構えながらそっと脇差に手を伸ばした。

 けれども粗暴な武士は微塵の動揺も見せず、軽くいなすに留めた。


『まぁいい。今日は多目に見てやる。貴様の相手をしてる暇なぞないのでな。でもまぁ長屋はいいよな、火事が起きても隣近所の家を壊せばそれですむんだろう? まぁあんなうさぎ小屋焼けても痛くも痒くもないだろうが。せっせと木場きばから木材でも運んでくるんだな!』

『べらぼうめ、黙って聞いてりゃべらべらと。武士の風上にも置けねぇ』

『笑止! 百姓あがりの武士が戯れ言を申すな。貴様に人が斬れるのか? 子どものチャンバラとは違うんだぞ。金にも名誉にもならぬ戦だけで生きていけるとでも? ははぁ、そうか、さては貴様、拙者が小袖殿と甘酒茶屋に参るのが羨ましいんだろう?』

『てやんでぇ、べらぼうめ!』

『貴様は長屋の井戸で水でも飲んでろ!』

『このすっとこどっこい!』


 増田はついに太刀に手を掛けた。

 だがそれより一歩早く腰に手を回していた粗暴な武士は、すでに鯉口を切っていた。皮肉にもこの男、態度は横柄だが腕だけは確かだったのである。

 このまま斬り合いを始めれば、増田の命はあっけなく散ってしまうだろう。と、そのとき、


『やめな! あんたたち』


 江戸の町に喧嘩の火花が散ろうとしていたそのとき、一人の女性が凛とした声で制した。名は桜。さくらの舞う季節に生まれたから桜とい――




「あれ、マスター何書いてるんですか?」



 時は平成。カフェ『二番煎じ』のマスターがカウンター席でノート型パソコンを叩いていると、春野さくらが巻き髪とミニスカートを揺らしながら後ろから声を掛けた。


「うわ、さくら。来たなら言えって」

「ちゃんと声掛けましたよぉ、でもマスター集中してて全然気づかないんですもん。この前言ってたやつ早速書いてるんですね。カクヨムもう慣れました?」

「まぁまぁかな」


 マスターはノート型パソコンをバチンと締めた。


「歯切れがわるいですね。というかなんで桜さんあんなカッコいい感じなんですか。私の名前使うなら小袖さん役のほうにしてほしかったんですけど」

「まぁ技術的なことは追々やるとしても」

「いまかわされた気がする」

「なんかどうも今回バッドエンドになりそうなんだよね」

「あーそれですか。マスター書きながら決める派ですか?」

「そうそう」

「ハッピーエンドにしたいのに、どうやってもキャラクターが思うように動いてくれない」

「そうそうそう」

「じゃあそのままバッドエンドにしちゃえばいいじゃないですか」

「え、いいの?」

「いいんじゃないですか? さすがに児童向け作品で絶望を描くのはどうかと思いますけど、人生自己責任ですから。マスターが決めることです」

「でもバッドエンド嫌いって人も」

「それはいるでしょうね。もしかしたらけちょんけちょんにされるかもしれません」


 そんなハッキリ言わなくても……! マスターは軽くため息を吐いた。


「そもそもマスターはどういう作品を書きたいんですか? 面白い作品?」

「それはもちろん面白いにこしたことないけど」

「けど?」

「もっとなんというか。万人向けよりは絶望した人向けというか。でもたぶんそういうのは流行らないし、きっと自分で宣伝とかしないと読まれもしないし、賞応募しようにも取る自信ないし」

「それじゃあ聞きますけど。マスターは賞を取れなかった作品や誰にも読まれない作品は存在する価値がないと思いますか? 何も成し遂げられなかった人生や誰にも認められなかった人生は何の価値もないと思いますか?」

「そこまでは言ってないけど」

「同じことですよ。好きに書いたらいいじゃないですか。誰に認められなくても、マスターの思うように書いたらいいじゃないですか」

「好きなように……」

「マスターは美しいものが好きなんでしょう? だったらそう書けばいいじゃないですか。どんなに悲惨な人生でも、どんなに惨めな最期でも。その生き様が美しいと思えたら、一瞬だけでも美しいと思えたら、その美しさはその人が生きていた証になりはしませんか? たった一瞬のきらめきが、今自分が生きている理由になることって、あるでしょう?」


 一息つくと、春野さくらは改めてマスターに尋ねた。


「あなたの描きたいものは何ですか?」


 俺の……俺の描きたいもの……美しい……夢。美しい夢を――。そうか、自分は美しい夢を描きたいのかと、マスターはいまさらになって初めて気づいたのだった。


 仕事の外回り中だと早々に店をあとにした春野さくらのいないカフェの店内は、閉店間近ということもありいつになくひっそりしていた。


 マスターはおもむろにノートパソコンを開くと、再びキーボードに手を置いた。

 確かさっき桜が止めに入るとこまで書いたから、あとは場所を変えて河原で斬り合いと思いきや、そっちのコースはなんだか全然イメージが見えてこない。しかも肝心のお題のペンがまだ登場してなかった。というかこの調子で全部書いたら4000字に収まらない。じゃあ桜が実は呉服屋の小袖に嫉妬していたというのは? ひっそり増田のもとから去ることにして、でも実は短冊ペンで意味深な一首を書き記してあったとか。マスターはぶつぶつ呟きながら、キーボードを叩いた。



 *



『増田の兄ちゃん! さくらが、姉ちゃんがいねえんだよ』


 長屋の一室で昼寝をしていた増田は、桜の弟さとるに肩を揺さぶられて目覚めた。ゆっくり昼寝もできやしねぇと内心毒づいたあと、増田は慌てて飛び起きた。


『さくらがいねぇ?』


 桜はこのところ夜な夜な月を見上げては、おろおろと泣いていたということを、桜のほかに知る者はなかった。

 たださとるが気づいたときには家の中にも長屋周辺にもどこにも姿がなく、普段桜が眠っていたはずの折り畳まれた布団の上に、短冊が置いてあるきりだった。


『兄ちゃんこれ読めるかい?』


 さとるは短冊を差し出した。

 けれども短冊の文字はうねうねと細い線を小筆で走り書きしたものにしか見えず、増田は困惑した。ひらがなのはずなのにどうして読めないのかと。



 " いまはとてあ末乃波ころも着る於り曽

  君を阿者れと思ひ出天計留 "



『あ、これは竹取物語の中に出てくる歌ですよ』


 増田にかわって答えたのは呉服屋の小袖である。途方に暮れた増田とさとるは書道を嗜む小袖ならわかるかもしれないと呉服屋まで聞きに来たのだった。


『竹取物語の……?』

『いまはとて 天の羽衣着るをりぞ 君をあはれと思ひ出でける』


 小袖は内心かな文字が読めないなんて増田様はどこから来たのだろうと思ったが、ぐっとその言葉を飲み込むと、続けて増田に尋ねた。


『桜さんはどういう気持ちでこの歌を書いたと思いますか?』

『それは……』


 小袖は伝えようかどうしようか躊躇っていたものの、ようやく意を決めて増田だけに耳打ちした。


『そんな……!』


 増田は勢いよく木戸を開けると駆け出した。

 

『待ってろよ桜、絶対に助けるからな!』


 夕暮れ時。川沿いの道を一目散に走る一人の男がいた。

 短冊を握りしめながら走っていた男は、上がってきた息を押さえるように肩を上下させながら、疲れを振り払うように風を切って進んだ。


『まったく、こんなの分かるわけねぇだろ。どうか……間に合ってくれ――』


 天を仰ぐように呟くと、男は走りながらさらに強く短冊を握りしめた。

 顔を出したばかりのすすきと桜が春風にふわりと揺れた。

 夕陽に向かって駆ける男の後ろ姿を見守るように、茜色に染まった世界でさざ波のような川原の芒がきらめいた。――




 明け方。まだ朝日が顔を見せぬさくら川に佇む一人の男がいた。俯いて川面を見つめ続ける男の頬をそよ風が優しく撫でて、男はふいに顔を上げた。

 ぼんやりと明るさを増す藍色の空に、はらはらと雪のようなさくらが静かに舞う。

 その一瞬の煌めきを掴もうと男は手を伸ばしたが、手の内には何も残らない。

 春まだ浅いあけぼのの空に紫の雲がたなびいて、さくら色に染まる世界を優しく包んだ。


                  




            by 二番煎じ増田

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