紙とペンと魂と

アンドウ イリエ

第1話

看護短大を卒業して最初に担当したのは、オオタニさんという40代の男性だった。


担当といっても、先輩の指示を受けチェックしてもらって…という患者さんには迷惑ナースだ。



オオタニさんは大腿部骨折のみで予後も良く、ひよこナースが担当するにはちょうど良かろうと師長がおおせになったのだ。



あたしは緊張して挨拶したものだけど、すぐにオオタニさんと仲良くなった。



なにしろオオタニさんは退屈している。


内臓は元気なのに寝ていなくてはならない。



検温に行くだけでも嬉しそうだった。



あたしが退勤して私服で歩いていると、深夜のロビーで車椅子のオオタニさんをよく見かけた。



昼間は混雑している受付やソファも薄暗くしんとして別の場所のように見える。



オオタニさんは同じように退屈している患者さんと、しゃべりまくってる。



「詩織ちゃーん!!」


あたしに気づくと、オオタニさんはぎょっとする程大声を出して手を振る。



いつも大急ぎで手を振り返して通用口に逃げるが、やがて他の患者さん達まで「詩織ちゃーん!!」と呼ぶようになった。



先輩や師長に何か言われないかな。



その日も目立たないようにロビーを横切ろうとすると、珍しくオオタニさんは一人でいた。


にぎやかなオオタニさんがポツンとしているのは、寂しそうに見える。



「早くお休みになった方が良いですよ」


声をかけると、オオタニさんは振り返った。


目が光って泣いていたように見えた。


「詩織ちゃんか。昔を思い出して眠れなくて…」


「昔?」


あたしがそばのソファーに座ると、オオタニさんはため息をついた。



「僕は戦場ジャーナリストだったんだ。



去年、引退したけど。



ひどい現場を見てきた。


時々、夜が怖くなるよ」


「戦場におもむくなんて、勇気があるんですね。」


オオタニさんは笑った。



「世界に真実を知らせなきゃって一心だった。


特にこの平和ボケした国にね。


紙とペンと…魂をもって色んな場所で働いたよ」



あたしはうなづいた。


「これから詩織ちゃんだって、病院で働いてたら辛いことが起きると思うよ。


病院だって生と死がいきかう場所だ。


1番大事なのは魂もって働くことだよ。


なんでも適当な気持ちじゃダメだ。


仕事にはガチンコ勝負をかけなきゃいけない。


魂もってれば、誰にも負けない。


辛いことにも。


だけど、こんな夜は…」


オオタニさんは、あたしの手を握った。


「怖くて寂しくなるんだ…」


静かなロビーで2人きり。


あたしは本当のオオタニさんの心にふれたようで、動けなくなっていた。



彼が何を見たのか、あたしには想像しかできないけど。



たくさんのことがオオタニさんを傷つけているのだろう。



はかりしれない出来事が。



あたしはオオタニさんの手を優しく握り返した。



その時、

ぺたぺたとスリッパの音がして、別の患者さんが現れた。


確か虫垂炎で入院した高校生だ。



「先生だけかと思ったら、詩織ちゃんもいるんじゃん」


オオタニさんは慌てたように、車椅子に手をかけた。


「先生って、なに?」


あぁとその患者さんは笑った。


「俺の中学の時の担任なんだわ。


同じ病院で入院ってびっくりでしょ」


「へぇ~」


あたしはオオタニさんの車椅子のハンドルをつかんだ。


「戦場ジャーナリストって?」


オオタニさんはチラッとこちらを見て目をふせた。



「…なーんちゃって」


そして、そのまま高速で車椅子で逃亡していった。


「えっ!?先生どうしたの?」


高校生が追っていく。



ロビーにはあたしだけが残された。



ほんと、この仕事マジで強い魂が必要。


あたしはソファに蹴りをいれてから通用口に向かった。









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