2‐3

 佳苗と祖父、そして佳苗と父との関係を知ってからの美夜は祖父と父に対して反抗的な態度をとるようになった。もともと父のことは好きではなかったが、さらに嫌悪感が増し、大好きだった祖父も汚らわしい存在に変わってしまった。


年が明けた2008年の正月に祖父の家を訪問した時もろくに口も利かなかった。

佳苗との“あれ”を美夜に見られていたとは思ってもいない祖父は一言も話さない美夜をいぶかしんでいた。


 男はみんな汚い。性欲にまみれた生き物。

祖父も父親も、同級生の男子生徒も男性教師も、みんな汚い。

美夜には周りにいる男すべてがけだものの雄に見えていた。


 高校二年生の学期を終了して学校が春休みに入った3月。関東地方にも桜の開花が発表され、街には新学期や新年度の準備で忙しなく行き交う人で溢れている。


 3月29日土曜日は春の嵐だった。花開いた桜もこの雨で散ってしまうかもしれない。

昼から塾に行っていた美夜は3時に塾を終えて蕨駅前のファミレスで佳苗が来るのを待っていた。

佳苗から29日の土曜日に人と会うから一緒についてきて欲しいと頼まれたのは先週の日曜日だった。誰と会うのか佳苗は教えてくれず、とにかく一緒に来てほしいの一点張りだった。


 佳苗はいつもそうだ。いつも美夜に甘える。

小学五年生の時、佳苗が学校の花瓶を不注意で割ってしまったことがあった。あの時も先生に謝りにいくのにひとりじゃ怖いから一緒について来てと頼まれた。

中学生になっても佳苗は何かあると美夜に付き添いを頼んでくる。


 佳苗が本当は人一倍怖がりで臆病者だと知っている。あの子はひとりじゃ何もできない。


 今日の佳苗からの頼み事を承諾したのは佳苗に勉強を教える目的もあった。佳苗とは高校は別々。進学校に通う美夜とは違って佳苗は成績が良い方ではない。

最近は学校もサボっているらしく、高校三年になる今年は大学受験も控えているから勉強を教えてやってくれと美夜は佳苗の両親に頼まれていた。


佳苗に対して少しだけ優越感を味わえるのは彼女に勉強を教えている時だけ。

勉強では佳苗は圧倒的に美夜に負けている。わざと難しい教え方をして佳苗の困る顔を見るのが愉快だった。

そんな小さな、小さなプライドが美夜を守ってくれていた。


 佳苗とは4時にファミレスで待ち合わせをしていた。塾のテキストをテーブルに広げ、美夜は英語の問題を解きながら佳苗が来るのを待った。

4時を過ぎても佳苗はファミレスに現れない。遅刻癖のある佳苗が時間通りに来ることは稀であるから美夜は気にせずに勉強に励んだ。


 4時15分を過ぎた時、テーブルに置いた美夜の携帯電話のバイブ音が鳴り響いた。佳苗からの電話だった。

もしかしたら遅くなる、今日は会えない、大方そんな連絡だと思った。美夜は通話ボタンを押して声を潜めて電話に出た。


「もしもし佳苗?」

{……み……や……た……すけ……て……}


話し声でざわつくファミレスでは電話から漏れる佳苗の小さな声が聞き取りにくい。それでも、“たすけて”の言葉は聞き取れた。


「え? なに? あんた今どこにいるの?」

{……わら……び……りっ……きょう}


“わらびりっきょう”と聞こえた気がした。佳苗の声はそれっきり聞こえなくなり、かすかに電車が走る音が聞こえる。


「……なんなの、あの子」


 美夜は通話を切り、会計を済ませてファミレスを出た。外に出ると春の嵐は容赦なく美夜に襲いかかってくる。


 赤い傘を差して佳苗が言っていた場所に向かう。“わらびりっきょう”とは蕨駅の近くにある川口蕨陸橋のことだ。

細い道から線路沿いに出た。線路沿いの一角は自転車置き場になっていて、雨に打たれた自転車が主の帰りを待っている。

雨のカーテンの隙間から美夜は佳苗の姿を探した。佳苗らしき人物は見当たらない。


再び佳苗の携帯電話に通話を繋げる。美夜の携帯にコール音が流れると同時に、どこかでメロディが聞こえた。このメロディは佳苗が着信音にしている音だ。

美夜はメロディが聞こえる方向に進んだ。


 ガタンガタン……金網を挟んだ目の前の線路を長い列車が通過していく。線路脇に並ぶ自転車がそこだけドミノ倒しに倒れていた。

倒れた自転車の群れの中に肉付きのいい二本の脚が投げ出されている。携帯電話の着信音は投げ出された脚のすぐ側で鳴っていた。


 降り続く雨が赤い液体と共に道路に流れていく。赤い傘を差す美夜は棒立ちになってその光景を見下ろしていた。


「佳苗……?」


 ドミノ倒しになった自転車の群れに紛れて佐倉佳苗が倒れている。彼女が履いているヒョウ柄のミニスカートはめくれあがり、日に焼けた太ももに雨粒が当たる。

ピンク色のトレーナーを着ている佳苗の腹部には赤い血が滲んでいた。


 佳苗の携帯の着信音は止んでいる。佳苗の様子を察した美夜は無意識に通話終了ボタンを押していた。


「……佳苗……?」


近付いてもう一度名前を呼んでみる。とても生きているようには見えない佳苗の、雨に濡れた右手の人差し指がかすかに動いた。

佳苗の指が動いた瞬間に美夜はビクッと肩を震わせる。


佳苗はまだ、生きていた。


 今すぐ救急車を呼べば助かるかもしれない……頭では理解していた。だけど美夜はどうしても手元の携帯電話で119番の番号を押す気にはなれなかった。


ここで佳苗が死ねば解放される。

やっと、この悪魔から解放される。


美夜の心に棲みついた悪魔が優しい声で囁いた。


 ガタン……ガタン……また列車が線路を通過する。美夜はしばらく佳苗の様子を観察していた。

あの傷にそしてこの雨。佳苗の体温は急激に下がっているだろう。

もう彼女の唇も指も動くことはない。恐る恐る名前を呼び掛けても今度は反応がなかった。


 人が死ぬ瞬間のなんと呆気あっけないこと。

佳苗が死んだ。死ぬ瞬間を美夜は見届けた。


 携帯電話のボタンを押す手の震えが止まらない。

1……1……0、押した直後に繋がった相手に向けて美夜はか細い声で伝えた。


「友達が……死んでいます」


それだけを言うのが精一杯だった。場所は川口蕨陸橋の自転車置き場と伝えて電話を終えた美夜の頬には涙が流れている。


 この涙は悲しいの? 嬉しいの? どちらの涙なの?


 流れた涙を袖で拭い、美夜はふと陸橋の上を見た。どうして陸橋を気にしたのかはわからない。でも誰かに見られている気配を感じた。


 陸橋の階段のちょうど真ん中辺りに黒い傘を差した黒いスーツの男が見える。

美夜の位置からはその人の顔はよく見えない。若いのか中年なのかもわからない。

彼がそこで立ち止まっている理由もわからない。


ほんの一瞬、美夜はその男と目が合った気がした。

遠くでパトカーのサイレンの音がする。警察が到着する前に男は階段を上がり、陸橋の上に消えた。


 佳苗は誰かに殺された。美夜は誰かわからない佳苗を殺害した共犯者に心の底から感謝した。


──佳苗を殺してくれて……ありがとう──

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