お返しの『ねこふんじゃった』
葵月詞菜
第1話 お返しの『ねこふんじゃった』
今週は音楽室の掃除当番が回って来た。
音楽室は普段選択授業もしくは音楽関係の部活動しか使用する機会がない。
一段高くなった舞台に、グランドピアノ。部屋の壁には数々の作曲家たちの顔写真――というか似顔絵?――が飾られ、後ろの棚には譜面が溢れ返っている。今は鍵がかけられているが、隣の準備室にはギターや打楽器が保管されている。
小さい頃から音楽が身近にあった矢㮈にとっては、音楽室は落ち着く場所だった。
掃除が終わって音楽科目の担当教員の合格をもらうと、他のクラスメイトたちは即座に音楽室を去って行ったが、矢㮈は何となくそこに留まっていた。
いつもならここを練習場所にしているオケ部の部員がやってくる頃だったが、今日はなぜか姿が見えない。他の場所に集まっているのか、学外に出ているのか。
(ラッキー)
それを良いことに、矢㮈は口元に笑みを浮かべてグランドピアノに近付いた。
ピアノというものは見ていたら弾きたくなる。そういうものではないだろうか。
「何一人で笑ってんだ。気持ち悪い」
「!」
矢㮈ははっとして振り返った。まだ一人、音楽室に残っていた生徒がいた。
同じクラスの
「気持ち悪いって何よ!」
「そのままだろ。ピアノ見て不気味に微笑むお前、正直怖いぞ」
高瀬は相変わらずの口の悪さで遠慮なく言い放つ。矢㮈は眉間に皺を寄せながらも頑張って笑みを返した。
「そういうあんたこそ何で残ってんのよ」
「――で、何を弾くつもりだったんだ?」
高瀬は質問には答えずにさらなる質問で返してきた。矢㮈は溜め息を吐いて、顔から笑みを引っ込めた。今さらながら、別にこいつの前で無理に笑顔を作る必要はないと思い出す。
「別に特に何を、というのは考えてなかったけど」
言いながら、ピアノのクロスを上げて蓋を開く。綺麗に磨かれた白と黒の鍵盤が姿を現した。
「お前の得意な『ねこふんじゃった』でも弾いてくれるのか?」
ニヤリと笑う高瀬が憎らしい。以前、まだ矢㮈が彼と出会って間もない頃、この音楽室で遊びで弾いたことがあった。
そして、矢㮈が久しぶりにしてはなかなか弾けたのではと満足した直後、高瀬が圧倒的な上手さで、まるでクラシックの曲を聴くかのような『ねこふんじゃった』を披露したのだ。
あれは今思い出しても衝撃的だった。当然、彼のピアノのファンになってしまった。
しかし彼自身はあまり進んでピアノを弾きたがらない。その代わり、いつもキーボードを入れた黒いケースを持ち歩いていた。
色々あって、今ではキーボードを弾く高瀬とは音楽仲間である。
「……リクエストがあるなら、今日は一曲弾いてやってもいいぞ」
「え?」
まさかの彼の申し出に矢㮈はきょとんとしてしまった。全く予想もしていなかった展開だ。あの高瀬が――いつも矢㮈の前ではキーボードさえ弾き渋る彼が、自らピアノを弾いてくれると言うなんて。
「え、どうしたの? 何かあった? これは現実? どうしよう、今日これから雨降る?」
「……失礼なやつだな、お前は」
高瀬の眉間に皺が寄り、見るからに不機嫌な顔になる。それを見て矢㮈は少なからずほっとした。大丈夫、いつも通りの高瀬である。
「お前今また失礼なこと思っただろ」
「……いや、別に?」
何とか笑いで誤魔化して顔の前でパタパタと手を振った。高瀬は暫くこちらを睨んでいたが、やがて諦めるように息を吐いた。そんな彼にやはり気になって尋ねた。
「でも、本当にどうしたの?」
「どうしたも何も……今日はホワイトデーだろ」
「は?」
またポカンとする矢㮈の前で、高瀬はイラついたように髪をかきあげた。
「義理チョコのお礼。菓子の方が良いならそれも結構だが、お前が喜ぶのはこっちだろうと思って提案しただけだ」
ホワイトデー。そういえば今日は三月十四日だった。そして、先月の二月十四日に彼にもチョコレートを渡していたことを思い出す。
「その顔、すっかり忘れてたって顔だな」
「……まあ、そうだけど。でも、まさかあんたがお返しを考えてくれてるとは思わなかった」
高瀬は変なところで律義だ。
「本当に良いの? 良いの?」
「俺の気が変わらないうちに早く答えろ。何なら後ろの棚から譜面を持って来ても良い」
矢㮈に対して口と態度は悪いが、根は真面目で特に音楽のことになるとさらに真剣になる。
彼の気が変わっては大変だ、と矢㮈は束の間逡巡し、一つ頷いた。
素直な意見を言うとリクエストはいっぱいあるのだが、それでも今聴きたいと思った曲を口に出す。
「じゃあ『ねこふんじゃった』で」
「……了解」
高瀬がピアノの前の椅子を調節して腰かける。ピンと伸びた背筋と、自然に鍵盤に下ろした腕から指先までのフォームが綺麗だ。
一拍の静寂の後、高瀬は音を紡ぎ始めた。滑らかな旋律。絶妙な音の強弱。曲独特のリズミカルな音の連なりが胸を躍らせる。
(ああ、これだ)
矢㮈が弾くと、頭の中ではしっぽを踏まれたねこたちがニャーニャーと抗議の声を上げるのだが、彼が弾くと楽し気にじゃれ合っているねこたちの様子が思い浮かぶ。
(……やっぱり、こいつのピアノはすごいよなあ)
あっという間の時間だった。最後の音の余韻に、暫くぼうっとしたままになる。
気付くと高瀬は鍵盤の蓋を閉じてすでに椅子から立ち上がっていた。
「はい、終わり。――っていつまでぼけっとしてるんだ」
「……うん、さすがだなと思って」
素直に言葉にすると、高瀬は少し驚いたように瞬く。
だがいつも憎まれ口ばかりの彼も、この時は小さく「それはどうも」と返した。
その時、音楽室の扉がギィと音を立てて開いた。音楽科担当の教員が戻ってきたのだろうかと思ってそちらを見ると、そこにはひょっこり顔を覗かせた一人の男子生徒がいた。
焦げ茶の髪をあちこちに跳ねさせた彼はにっこりと笑って、
「見事な演奏だったね、也梛」
「お前、盗み聞きしてたのか。
高瀬は苦虫を噛み潰したような顔になる。
諷杝はとことこと音楽室に入って来て、矢㮈に向かって微笑む。
「矢㮈ちゃん、良かったね。ホワイトデーのお返しにピアノだなんて、也梛にしては出血大サービスだよ」
「うん、本当にそうだよね」
彼は一学年上の、高瀬のルームメイトだ。そして、矢㮈と高瀬の音楽仲間でもある。元々はそれぞれ諷杝に惹かれて出会ったという経緯がある。
「それと、これは僕からのお返し」
「わあ!」
諷杝が背中に回していた手を矢㮈の前に出す。かわいらしい西洋のお伽噺をモチーフにした小さな紙袋だったが、中を覗くとプラスチックの容器に入った苺大福が見えた。
横から一緒に覗き込んだ高瀬が呆れたように言う。
「諷杝、この紙袋と中身の差は何だ?」
「かわいいでしょ。紙袋だけでもかわいらしくしようと」
「お前にしては気を遣ったんだろうが、それにしてもこれはない」
「でも矢㮈ちゃんが喜んでくれればそれでいいよ」
矢㮈は黙って苺大福を見つめた。苺大福――もっと言うと、和菓子の類が彼女は大好きだった。家が洋菓子店故か、無性に和菓子に対して憧れがあるのだ。
「ありがとう諷杝!」
「いえいえ、どういたしまして。じゃあいつもの場所に行きますか」
諷杝はふわりと笑って踵を返す。いつもの場所とは、矢㮈たちが集まって音楽を奏でている場所だ。
諷杝はギターを。高瀬はキーボードを。そして、矢㮈はバイオリンを。
ピアノのクロスをきちんとかけ直したのを確認し、高瀬の後に続いて音楽室を出る。
胸には大事に抱えた苺大福が入ったかわいらしい紙袋。
「あいつがホワイトデーを覚えてて良かったな。本命に何も返されなかったらさすがにお前もへこむだろ――お返しの内容はともかくとして」
前を行く諷杝を眺めながら高瀬がこそりと矢㮈に言う。
矢㮈は微かに頬を赤くしながら、それでも嬉しさを隠しきれずに頷く。
「――でも、高瀬のお返しも嬉しかったよ。ありがとう」
「そーですか」
高瀬は珍しくふっと微笑み、少し足を速めて諷杝を追う。
その後をのんびりと歩きながら、矢㮈はまた小さく笑った。
高瀬とは普段何かと言い合ってばかりいるような関係だが、それでも矢㮈は高瀬のピアノを、彼は矢㮈のバイオリンを評価して一緒に音楽を奏でている。
そんな彼が、矢㮈のためにわざわざピアノを弾いてくれたことが純粋に嬉しかった。
(後であたしもバイオリンで一曲お礼をしよう)
高瀬が矢㮈を最も評価しているのは自分のバイオリンだ。特別技量があるわけでも何でもない。だが、矢㮈が曲を奏でると、高瀬は真剣に耳を澄ませてくれるのだ。
矢㮈は一刻も早くバイオリンを弾きたくなって、つい小走りになって彼らを追いかけた。
「笠木、走るな。お前は絶対転ぶ」
「うるさい」
横を駆け抜けた矢㮈に、すかさず高瀬の忠告が耳に届いた。
お返しの『ねこふんじゃった』 葵月詞菜 @kotosa3
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