好きにしてもいいんだよ?

乃木宮秤

好きにしてもいいんだよ?

由里ゆり、そろそろ起きろー」

「いやじゃ」

「いやじゃ、って……」


 あまりに端的なその言い方に、和樹かずきは思わず呆れ果てた。

 ベッドの上で布団にくるまっているこの幼馴染を起こすのは、毎度のことながら本当に手間がかかる。彼女はとにかく、起きるまでが長いのだ。

 そして起こす常套手段の「カーテンを開ける」というのも布団がなかなかに厚いせいで効かないことは既にこれまでの経験から分かっていること。

 ならば揺さぶるしかない、と布団に手を置く和樹。柔らかな羽毛とその奥にある背中の感触だって、慣れてしまってはどぎまぎもしない。


「今、背中かなって思ったでしょ?」

「いや、背中じゃなかったら今どんな体勢してんだよ!? ほら起きろ!」

「うおー」


 間抜けな声が布団の中から漏れてくる。

 うおーってなんだうおーって。

 大体はこれで2、3分もすれば諦めて起きるのだが……。


「今日はやけに抵抗するんだな」

「……起きたくない」

 

 はぁ、と白い置物と化した幼馴染の姿を見て、思わずため息を吐く。

 子供の頃はもっとこう、くすぐりまわしたり出来たのだが、今やるのはちょっとなぁ、と頬を掻く。そもそも、そうじゃなくてもこんな完全防御態勢でいられたらくすぐる余地すらないのだが……なんとも見事なまでのくるまり様だった。

 いい感じに丸いシルエット。これはまるで――


「肉団子みた痛った!!」


 突如として肉団子から飛び出た足が寸分違わず和樹の脛を蹴り飛ばした。それと同時に上がる非難の声。


「誰が肉団子だ!」

「間違えた。肉ま痛ぇ!!」

「おぁぁぁぁ……」


 二度目は脛に対して脛で蹴ったが為に痛み分け。一時休戦。

 それでも布団にくるまり続ける由里に、和樹は脛をさすりながら口を尖らす。


「そもそも起こしに来させておいて起きない、ってのはどうなんですかね?」

「起こしに来てって言ってないし」

「あんまりにもあんまりだな!?」

「知りませーん」

「じゃあもう起こしに来ないぞ?」


 当然本気ではない。だが、ここはあえて意地悪な言い方をしてみることで相手の不安を煽り、顔色を伺おうと頭を出したところで取り押さえようという和樹の高度な心理戦である。

 しかし……。


「…………」


 反応がない。

 もぞりとも動かず一言も発しないこと彼女に、和樹の心はざわつき始めた。


「おい、由里」

「…………」

「悪かったよ、もう言わない」

「…………」


 どんどん自分の中の不安が大きくなっていく。

 喉がひりつく。おい、待て。まさか……。

 恐る恐る顔を布団に近づけて、もう一度だけ彼女の名前を口にした。


「由里?」

「絶対来てくれるクセに」

「……っ!」


 ひょっこりと布団から顔だけ出した由里は、目を細めてにやりと笑った。

 それを見てほっと肩を力が抜ける。そして手を彼女の頭にかざして――


「頭がーーー!!!!」


 全力のデコピンをした。


「さすがにそれはひどすぎるでしょ!?」

「お前だってさすがにそれはやりすぎだろ!? 無駄に不安を煽るな!」

「最初に不安にさせたのはそっちじゃん!」

「くっ……」


 ほんとあー言えばこう言うよな!

 とは思いつつも、確かに最初に仕掛けたのはこちらなのでそこは飲み込むしかない。

 一言で言うとずるいのだ。こいつはいつだって。くそっ。


「……悪かったよ」


 とても素直…とは言えないものになってしまったが、それでも由里は微笑を浮かべて「いいよ。ゆるしたげる」とだけ言った。


「……ほら、俺は謝ったぞ」

「デコピンで相殺されてまーす」

「…なんか釈然としないんだよなぁ」

「不満そうだねぇ。それじゃあ……」


 そう言うが早いか、また元の空飛ぶガメラみたいな形態に戻ってしまった。

 なんなんだ……、と首を傾げる和樹であったが、その答えはすぐに返ってくることなる。


「手を繋いでくれたら起きてあげる」

「じゃあ手を出せよ」

「やだ。このまま探って」

「ちょ……」


 さすがにそれは、とためらう和樹。だが――


「そうしないと起きてあげない」


 そう言われると困るって分かって言っているのだこいつは。

 再び呆れ果ててしまったものの、さすがにそろそろ起きてほしいのもまた事実。


「分かったよ」


 意を決して布団の中に手を入れる。すると彼女の体温で暖められたシーツの感触が手に伝わって、なんだかいけないことをしているような気になってしまう。


「ちょ、どこ触ってるの……?」

「ほんとにどこ触ってるか分からないんですけど!?」

「あ、そっちは……」

「え、なに!? ちょ、本当にどこなの!?」


 からかうように嬌声を上げる由里にもう限界だと手を抜こうとする和樹。

 しかしそこで自分の手に絡められる彼女の指先が感じられて、ようやく終わりかとなんとも言葉にしにくい感情が湧いてくる。

 と、そのときだった。


「強引だなぁ和樹は」


 そんな声が聞こえたかと思うと、繋がれた手ごと腕を引っ張られて視界が暗闇の中へ。

 相手の顔も見えない完全な闇。しかし、お互いの息遣いが頬を撫でる感触というものは妙にこそばゆくて、きっと今の自分は恥ずかしいぐらい顔を赤くしているのかもしれなかった。


「和樹ぃ……」


 ぼそりと呼ばれる自分の名。耳元で囁かれているわけでもないのに、やけにはっきりと聞こえる暗闇。


「……なに?」


 リップノイズすら聞こえるほどの距離。自分の声ですら、なんだか別の人間のもののように思えてしまう。

 普段だったら絶対聞こえないような、それこそ唾を飲み込む音が聞こえても一体どちらのものなのか。それすらもう和樹には判別できない。


「このまま、好きにしてもいいんだよ?」


 彼女の声が、匂いが、ゆっくりと頭の中をかき混ぜるように溶けていく。

 本気なのだろう。それこそ、やろうとすれば抵抗も無いほどに。


 だけど。今は。


「あっ」

「目は覚めたか?」


 唐突に差し込む光に、由里は目をしばたたかせた。

 取り払われた布団ともっと別の何かを惜しむ声。


「ダメなの?」

「駄目だ」

「どうして?」

「どうしても」

「嫌いになった?」

「…………」


 黙ってしまった一瞬。由里は不安そうな表情を浮かべるが、それに対しては頭を振った。それよりも大切なことが、今はある。


「俺はこれから先もお前とこうして過ごしていきたいし、色んなところにも行ってみたい。どこか適当にカラオケとか行ったり、遊園地行ったり、買い物したり」

「うん」


 小さく頷く彼女の姿は、昔とは比べ物にならないほど小さく感じた。


「だからさ、こういうのは……お前が元気になってからでいいんだよ」


 和樹はそっと、由里の肩を抱き寄せる。

 すっかり細くなってしまったその身体を。なめらかな患者衣越しに、確かに感じた。


「俺じゃ癌も不安も取り除けないけどさ、でもこれだけは胸を張って言えるから」


 もうお互い分かっているのだ。相手がなんて言うかも。自分がなんて思うかも。

 だけどこれだけは言わなきゃならない。何度でも。忘れないぐらい。


 静かにほほ笑む彼女の目を見て、和樹ははっきりとその言葉を口にした。


「俺はもう、好きになっているんだから」

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