バイトとアヴェ・マリア

 桜の花もほとんどが散り、いよいよ暖かくなってきた日曜日の昼下がり、光差すリビングで聖愛と唯は新しい家族となった猫の茶茶丸と猫じゃらしで遊んでいた。茶茶丸はすっかり元気になり、子猫だが素早い動きを見せている。媚びを売ることなく、猫らしいが、母親とでも思っているのか、聖愛にはとても懐いている。

 階段を降りる音が聖愛の耳に聞こえた。リビングのドアが開くと、いつもどおり、よれよれのTシャツにジャージ姿の隼人があくびをしながら入ってきた。そのとたん、茶茶丸の目がキラリと光り、茶茶丸はお尻を振って狙いをつけると隼人の顔に飛びつき、爪を立てた。

「痛ああああーーーーいん!」と気持ち悪い叫び声をあげて、隼人は茶茶丸を顔から剥がそうと必死になっている。

 茶茶丸を拾って以来、隼人は舐められているのか、しょっちゅう引っかかれたり、飛びつかれたりしている。聖愛が呼べばすぐに止めるのだが、面白いので聖愛はいつも、しばらく放置している。

 なんとか茶茶丸を引き離すことに成功した隼人はソファに座っている周子のところへ行くと、頭をかきながら、ぼそぼそと何かを言っている。周子が首を振ると、隼人は土下座をしだした。何か頼み事をしているらしい。それでも周子は首を縦には振らなかった。

 隼人は泣きそうな顔で聖愛と唯のところへ来ると、「明日、クラブハウスへ集合」とだけ言って、また階段を登っていった。


 月曜日の夕方、聖愛、唯、こはるに涼の声楽科組はクラブハウスを訪れた。サークルの勧誘はますます勢いを増しており、あちこちでビラが配られたり、新歓コンパが開かれたりしていた。その点、極小である『歴史探訪ヒストリエ』は新会員を六人も確保している。一人の会員を犠牲として。

 部屋に入ると、すでに他のメンバーが揃っており「もみあげ危機一髪」で遊んでいた。残り少なくなった毛のどれを抜くか杏が真剣に悩んでいる。全員揃ったことを確認した隼人は大きく頷き、椅子の上に足を乗せた。隼人が何かを提案したり宣言したりするときのお決まりのポーズである。

「やっぱり、旅行に行きたい!」

 そう希望を述べた隼人は誰も返事をしないからか、ポーズを崩さない。杏が毛を抜くと人形が飛び出た。杏は本気で悔しがっている。大笑いをした後、やれやれというように翼が口を開いた。

「おいおい、うちにはそんな会費は無いって。それも新歓とピクニックで結構使ってしまっただろう」

 隼人が作ったサークル『歴史探訪ヒストリエ』は小さく、歴史も実績もないサークルなので、充てがわれる会費も少ないものであった。とてもじゃないが、この人数で旅行になどいけない。

 それでも、何か策があるのか、隼人は右手をまっすぐにあげた。

「みんな、バイトをするなり!」

 隼人の提案は意外とまともなものだった。会費で払えないなら、個人でお金を出せば良い。大学生ならバイトをしていても不思議ではない。実際、翼はユニオンモールでバイトをしている。隼人は翼に詰め寄った。

「翼はバイトで余裕のよっちゃんなんだろう? どうせ使い道なんてないんだ。旅行に行きたいと思わないか?」

「つ、使い道が無いとは言ってないだろう」

 翼はちらりと早苗を見た。

「ほう、それは何かに? お兄さんに言ってごらん」

「気持ち悪いんだよ、この野郎。俺の金だ。何だっていいだろうが」

 詰め寄る隼人を翼は必死で押し返した。聖愛もあまりに焦っている翼を少し不審に思った。

「でも、せぇっかくこぉーんなに人が増えたんだぁ。旅行に行きたぁーいじゃないかぁ」

 隼人は新歓コンパで披露して気に入ったのだろう、ある声優のモノマネ口調でさらに翼に詰め寄った。隼人の意見には同意しているのか、翼はどうしたものかと考えているようだ。

 実は翼はバイトのシフトをだいぶ減らしていた。大学四回生となった翼はゼミに入って忙しくなり、バイトをする時間がなくなってしまったのである。元々そのことを伝えてあったのか、バイト先はシフトを減らすことに文句を言わなかった。

 同じく四回生の隼人や早苗もこれから長期のバイトをすることは厳しいだろう。聖愛たち音楽学部生も他の学部に比べて自由な時間がない。

「ふむ、短期で割のいいバイトを探そう。新会員たちも情報を集めてくれ」


 隼人の宣言から数日後、聖愛たちはバイトを探すも、あまりいい条件のものは見つからなかった。

「バイトないねぇー」

 聖愛と唯はため息をつきながら音楽学部棟を歩いていると、向こうから悠貴が手をあげながら歩いてきた。

「やあ、君たちを探してたんだ。ちょうど良かった」

「私たちをですか?」

「そう、ちょっと頼みたいことがあってね。今度、大学院の発表会があるんだけどね、そのスタッフが足りなくて困ってるんだ。それを君たちに頼もうかと思って」

「そんな大事な仕事、私たちにできますか?」

「受付と舞台の準備ぐらいでいいんだ。無理にとは言わないけど、もちろんバイト代は出るよ」

「バイト代いくらでちゅか!?」

 唯が噛みながら即座に食いついた。悠貴にお金の亡者のように思われたくない聖愛は旅行のことを説明した。

「なるほど、あのサークルも二回目の旅行を計画しているわけだ。翼からは少し聞いていたけど、まだ活動していて安心したよ」

「悠貴さんはサークルのことを知っているんですか」

「ああ、昨年は私も会員だったからね。隼人と翼に誘われたんだ。たった一年だけど面白そうだと思ってね。結局旅行に行ったのは一回きりだったけれど」

 そう言って、悠貴は窓の外を眺めた。サークルでの活動を思い出しているのかもしれないと聖愛は悠貴の横顔を見つめた。その顔はそこらの女優よりよほど美しい。

「バイト代っていくらぐらい貰えますか?」

「そうだな。私が手伝ったときは一日、一万ってところだったと思うよ。発表会は三日ある」

(一日一万ということは、三日で三……)

「「やります!」」

 聖愛と唯の返事を聞いて、悠貴は微笑んだ。


 バイト当日、聖愛たちサークルメンバーは発表会が行われる美城ホールに集まっていた。大幅に人数が足りないということで、全員働かせてもらえることになったのである。聖愛が持ってきた情報に隼人は踊るほど喜んだが、悠貴からの情報だと知ったとたんに固まった。翼がその様子を見て、小突いたりしていたが、金には変えられないということで、隼人も嫌とは言えなかった。

「よく来てくれたね。これだけの人数を確保できるなんてラッキーだったよ。言ってみるもんだね」

 悠貴も聖愛たちと同じくスーツ姿だったが、比にならないほど格好いい。その装いは学生でありながら、キャリアウーマンのようにビシッと決まっている。翼と並ぶとどこかのコレクションのようである。だが、聖愛が目を奪われていたのは隼人の姿だった。隼人のスーツは聖愛の同期生が着ていたスーツよりも襟やポケットが変わっていてお洒落だった。ストライプ柄で細身に見えるスーツがよく似合う。シャツの袖はなんとカフスで留めてある。

 悠貴と翼と隼人、この三人に他のスタッフは目を奪われたのか、遠巻きから頬を赤らめて眺めている人も少なくない。

 聖愛は隼人がまたもモテている現実を認めたくはないが、確かに今日ばかりは格好良く見える。そう、見えるだけだ。いつも言っているように馬子にも衣装なのだと聖愛は自分に言い聞かせた。

 その様子をにこやかに見ていた年配の人が手を叩いてスタッフの注意を促した。

「はい、スタッフのみなさん、今日はご苦労さまです。私はこの発表会のチーフ・ステージマネージャーをすることになりました的場というものです。今日はどうぞ、よろしくお願いしますね」

「はいはーい。ステージマネージャーって何ですか?」

 唯が大きく手をあげて、飛び跳ねている。聖愛もステージマネージャーという言葉に馴染みはないが、音楽学部にいながら知らないとは恥ずかしいと思って聞けなかった。唯の大胆さが羨ましい。

「ふむ。なかなか難しい質問ですね。ステージマネージャーの仕事はたくさんあります。それこそ、演奏以外のほとんどに携わっているかもしれませんね。今回は三日間だけのお仕事なので、それほど大掛かりなものではないですが、みなさんのリーダーだと思ってもらえればよろしいかと」

 的場さんの丁寧さはまるで執事のようだと聖愛は感心した。唯も納得したのか、「なるほろ、なるほろ」と頷いている。

 的場さんの指示で、聖愛たちはまず三日間のスケジュールを確認し、班分けをして、それぞれどの仕事に就くかを決めた。午前中にはさっそくリハーサルが行われるということで、ステージ上の椅子や譜面台の配置を確認したり、運ばれてきた楽器を並べたりといった仕事に奔走した。難しいことはステージマネージャーと経験のある大学院の生徒で行うようで、聖愛たち新人バイト組は主に受付と会場案内、ドア番などを行うことになった。空いた時間はステージを見ても良いとのことで、聖愛は心を踊らせた。

 美城ホールは三千人が入る大ホールである。学生の発表会ということだが、美城大学の音楽学部の実力は日本でも有数である。その上、チケットが安いために毎年満員になるそうだ。


 夕方になると、続々と観客が受付に押し寄せた。招待チケット、前売り券を受け取り、当日チケットを販売、パンフレットを渡し、会場の案内をする。それだけの仕事であるが、何にしても人数が多い。それに若者が来ると、女性は隼人と翼のところで、男性は聖愛たちのところで立ち止まって、なんとか連絡先を聞こうとするので、大渋滞となっていた。たまにセクハラしようとするオヤジに聖愛が裁きを与えたので、数人が意識不明となって運ばれていった。

 やっと客足が途絶えてきたころ、疲労困憊な聖愛たちに意外にも平気そうな早苗が声をかけた。

「聖愛ちゃんたち、こっちは落ち着いたから中で聞いてきたらどうかしら? 私たちは聞くだけになるけど、聖愛ちゃんたちにとってはお勉強になるでしょ? 杏ちゃんも眠たそうだから綺麗な音を聞いてぐっすり寝てね」

 杏は「おおぅ」と言って眠そうに目をこすっている。聖愛たちは早苗の好意を受けて、ホール内へ向かった。

 演奏が途切れるときを待って、ドア番の人に中へ入れてもらうと、先輩だろうか、青いロングドレスを着た背の高く美しい女性が一台のピアノと奏者と共にステージに立っていた。

 ピアノがゆっくりとした音楽を奏でる。その旋律はあまりにも優しく、母親に頭を撫でられるかのように気持ちが良い。誰でも一度は耳にしたことがあるであろう、シューベルトの『アヴェ・マリア』である。周子が聖愛の名前を決めるきっかけとなった曲。聖愛が愛してやまない楽曲であった。

 歌唱が始まるとその響きは優しさに加えて強さのようなものを感じさせる。聖愛は一瞬にして惹き込まれた。隣で息を吐く音が聞こえる。唯にこはる、涼が魅了されたかのようにステージを見つめている。杏は目をつむっているが、音に合わせて体を左右に揺らしていた。将来、聖愛もこの舞台で歌うことになるのだが、そんなことは今は忘れて、音楽を感じようと思った。

 楽曲が終わると大きな拍手が起こった。

「やっぱり、いい曲だな。聖愛の名前がついているだけはある」

 聖愛がびっくりして横を見ると、いつの間にか隼人と翔が隣に立っていた。

「お兄ちゃん、受付をしていたんじゃないの? 翼先輩と早苗ちゃんは?」

「ん……まあ、ほとんど客は入ったみたいだし、二人で十分かと思って」

 聖愛は隼人の意図を理解した。翼は早苗のことが好きである。なので、隼人は翔を連れて、二人を置いてきたのだ。聖愛は心にちくりと棘が刺さったような気がした。ただの一目惚れの恋なのに、なぜ諦めきれないのか。聖愛は涙を止めることができなかった。隼人は聖愛にそっとハンカチを渡した。

「いい歌だったな」

「うん……本当にいい楽曲だった」


 発表会は佳境を迎え、ステージにはオーケストラと合唱隊が並んでいる。指揮者がタクトを振るうと優しいウィンナ・ワルツが鳴り響いた。ヨハン・シュトラウスⅡ世の『美しき青きドナウ』である。聞いていたかったが、聖愛たちにはスタッフとして片付けの仕事に取り掛からなければならない。

 翼と早苗は聖愛たちを優しい笑顔で迎えた。

「聖愛ちゃん、ステージはどうだったかしら?」

 早苗はにこにこと平常運転である。翼も楽しそうに隼人やこはるたちと喋っている。どうやら、二人の間には何もなかったようである。

 翼はとても格好良く紳士で、早苗はとても可愛らしくて優しい。二人はとてもお似合いだと聖愛も思う。それでも、二人が同じ気持ちを持つことには至っていない。聖愛はまだ翼と出会って一ヶ月も経っていない。翼の隣に立つには、早苗のように素敵な女性になるしかないのだ。聖母マリアとまではいかないが、聖愛は強く、優しい女性になりたいとこのとき思ったのである。

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