醤油の瓶とソースの瓶

 レストランの中は異様な雰囲気に包まれていた。

 唯の質問にそれまで騒いでいた周囲の女子たちが静まった。まるで、隼人の答えを聞き逃すまいと全員が耳を傾けているようだった。

 隼人は目をつむって考え込んでいる。

「と、突然どうしたんだい唯ちゃん。ナターリア先生ってあのイタリア人の先生だろ。隼人と何か関係あるのかい?」

 聖愛はどうしたものか困ってしまった。ナターリアは隼人のことを陰から見ているだけでも幸せだと言っていたので、ナターリアの気持ちを勝手に伝えてしまうのは心苦しい。しかし、隼人とナターリアの関係がよくわからない聖愛としては、唯の質問に大いに興味がある。

 答えが出たのか、隼人は手のひらを「ぽん」と鳴らした。

「ナターリアのことは好きだな。彼女の発想は面白いし、軽く見えるけど、実は純情だ。日本のことを知りたいという強い意志もある。あんな努力家はそういない」

 隼人の言葉を聞いた女子たちは一斉にため息をついた。ナターリアは顔も美人だし、スタイルも抜群だ。さらに性格まで褒められては太刀打ち出来ないと思ったのだろう。しかし、唯はさらに質問を続けた。

「ゆ、ゆ、ゆ、唯とナターリアせんせーだったら、ど、ど、ど、どっちが好き?」

 唯は不思議なほどどもっている。唯と隼人は幼少の頃からの付き合いである。いきなり現れたナターリアに対抗意識を持っているのかもしれないと聖愛は微笑ましく思った。

 隼人は唯の頭の上に手を乗せた。

「ふむ。唯も面白いし、可愛らしいから好きだ。それに聖愛ととても仲良くしてくれている。でも、それはナターリアとはまったく関係ないことで、比較することはできないよ」

 唯は顔を赤くしたり、複雑そうな顔をしたりしている。よくぞまあ、こんな軽く好きだなんて言葉が出てくるものだと聖愛は呆れ返った。

「じゃ、じゃあ、悠貴さんとナターリアせんせーだったら?」

「ドゴッ」

 唯の渾身の一言に隼人は思いっきり机に頭をぶつけた。体が「ぷるぷる」と震えている。さきほどまでの余裕はどこへいったのやら、悠貴の話が出るとすぐこれである。

 翼がそんな隼人の背中を「ばんばん」と叩いて笑っている。

「ははは、姉貴にはあれだけ振られたんだ。そろそろ違う女の子を考えたほうがいい」

「そ、そうだよ、隼にぃ。それに確かに悠貴さんもナターリアせんせーも素敵だけど、隼にぃにはもう少しふつーの子のほうが似合うと思うんだよね。うんうん」

唯の言っていることも聖愛はわかるが、そもそも隼人の周りに普通の子などいない。聖愛は自分が一番普通だと思っているが、兄の腹をいつも殴っている妹というのも珍しいのかもしれないと自覚はしている。それに、普通の子がはたして隼人についていけるものだろうか。

「普通の子ねえ。ところでお兄ちゃんは悠貴さんの話になると、なんでそんなに焦るわけ? そんなのでよく何回も告白できたよね」

 隼人は悠貴と出会うと無口になる。だが、一緒にいることが嫌ではないように見える。悠貴はまったく気にしている様子はなく、不自然なのは隼人の方だけである。

 聖愛の疑問に答えたのは翼だった。

「高校の頃、隼人はこんなんじゃなかったさ。でも、あれは姉貴の卒業式の日だ。こりずに隼人は高校最後の告白をしたわけだ」

「つ、翼さんやめなさいな」

 隼人は翼の言葉を遮ろうとしたが、翼は気にすることもなく話を続けた。

「それまでの告白を姉貴はさらりとかわしていたわけだが、その日ばかりは違ってね。はっきりと『隼人とは付き合えない。もう告白はしないでほしい』って言ったんだ。そのショックを隼人は引きずっているってわけだ」

 隼人の色恋沙汰を聖愛は大学に入るまで聞いたことがなかったが、翼の話を聞くと、隼人は高校時代、本気で悠貴に恋をしていたようだ。隼人はまだまだ悠貴のことが好きだということは見て伺える。だが、告白を拒否されている現状、隼人の気持ちは宙ぶらりんである。聖愛はさすがに隼人のことが可哀想になってきた。

「ゆ、唯だったら、そこまで言われたら、さすがに諦めるけどなあ」

 唯はこんなに恋愛話が好きだっただろうかと聖愛は頭をひねった。高校のときから、恋愛ごとは切って捨てていた唯も大学生になって興味が湧いたのかも知れない。聖愛にしても、大学に入るまでは恋愛など考えていなかったのだから。

「まあ、恋心ってもんは曖昧すぎてコントロールできないものだからな。諦めろと言われて、はいわかりましたってわけにはいかないのかもしれない」

 翼の意見を聞いて聖愛は驚いた。その言いようは悠貴とまったく同じだったからだ。さすがに姉弟、などと聖愛は思っている余裕はない。翼も早苗への気持ちをずっと大事に持っている。聖愛がそこに割り込んだとして、聖愛のほうを向いてくれる可能性は今の時点ではとても低い。

「そうだ、聖愛は好きな人はいるのか。お兄ちゃんに言ってごらん」

「ゴンッ」

隼人が突然話を振ってきて、今度は聖愛が机に突っ伏した。おそらく、自分の話から逃げるために妹を売ったのだろう。

 聖愛が好きな人は今、隣にいるのである。隼人の一撃は聖愛に大ダメージを与えた。そんな様子を三人は不思議そうに見ている。

「そういえば、まりあ氏、最近また綺麗になったよねー。化粧とかも気合入ってるし」

 興味津々というように唯が聖愛を追い詰める。聖愛は翼と大学で出会うかもしれないと思うと、スキンケアもいつも以上にしっかりするようになったし、ヘアスタイルや化粧にも時間をかけるようになってしまっていた。それを唯には見破られていたらしい。

 聖愛は机に突っ伏したまま、翼のことをちらりと見ると、翼はいつもの笑顔で聖愛のことを見ていた。

「ふむ、確かに聖愛は大学に入ってから垢抜けたな。翼もそう思わないか?」

 聖愛は心臓が跳ね上がるかと思った。隼人に他意はないのだろうが、翼に直接評価されることになってしまった。聖愛にとってチャンスであり、大ピンチ。

 聖愛は翼の言葉を待つ。翼は空中に目をやって、「んー」と言っている。聖愛の今の脈拍を測れば新記録が出ているだろう。

「聖愛ちゃんは前から可愛いと思うけどね。そりゃ、大学生になれば多少は変わるだろうけれど、聖愛ちゃんは元がいいし、性格だっていいから」

 聖愛は天にも昇る思いだった。好きな人から褒められるのがこんなに嬉しいとは。社交辞令ではありませんようにと聖愛は願った。

 隼人は「ふむ」と言ったあと、にやりと笑った。

「聖愛と早苗だとどっちが好きかな?」

「ゴンッ」

 隼人が早苗の名前を出すと、お決まりのように翼が机に突っ伏した。隼人は自分の事を話されたことに対して意趣返しをしたのだろう。一方で先ほどまで舞い上がっていた聖愛の気持ちはしぼんでいった。

「ど、ど、ど、どうして急に早苗ちゃんの名前が出てくるのかわからないなー」

「早苗とはもう長い付き合いだろう。どう思っているのか聞きたいものだ。にこにこ」

 隼人は笑顔を擬態語に出してまで、翼を追い詰めていった。聖愛は翼の答えを聞きたくなかった。翼の答えはきっと決まっている。それをはっきりと言われるのは辛い。

「さ、早苗ちゃんは友達さ。それ以上でもそれ以下でもない。うん、そうだ」

翼は自分が早苗を好きだということをみんなに知られていないと思っているのだろう。隼人と唯は今にも笑いそうな顔をしている。

「ほう、早苗に思うところはないと。じゃあ、聖愛はどうだ? 俺の弟になれるぞ」

「聖愛ちゃんとは、まだ出会ったばかりじゃないか。さっき言ったように素敵な後輩だと思っているよ。お前を兄貴と呼ぶのはかなりの抵抗があるな……」

 聖愛は心が冷たくなっていくのを感じた。聖愛の気持ちを翼は知らないのだから仕方ないが、いくら褒められたとしても、翼にとって聖愛はただの後輩止まりなのかもしれない。

「では、今後仲良くなれば、そういう関係になる可能性があると?」

「やけに食いつくな……。そりゃ、将来なんてどうなるのかわからないさ」

「なるほど」

 隼人は興味深そうに何度も頷いた。

 一方、聖愛は目を見開いていた。翼の言葉は聖愛にわずかな希望を与えたのである。それと同時にうろたえもした。隼人がこれほど翼から聞きたがるのは、聖愛の気持ちを知っているからかもしれない。杏は怪しいが、誰にも知られていないと思っていたのに、よりにもよって兄である隼人に知られているなんて恥ずかしすぎる。

「残念だが聖愛はブラコンだから翼にチャンスはないがな。はっはっは」

聖愛は何回も瞬きをしてしまうほど呆れた。まったくもって、聖愛の取り越し苦労だったようだ。いらついた聖愛はソースの瓶を思いっきり隼人の頭へヒットさせた。とても痛そうだが、心配の声は上がらない。

「しっかし、俺らみんな彼氏も彼女もいないのな。女の子たちなんて、みんな魅力的だと思うのにな」

 翼の言うことは最もだと聖愛も思う。唯は昔から男子に人気があったし、早苗はあの可愛い容姿に爆乳である。こはるは少しキツイがさっぱりとした性格で、美人でお洒落だし、杏は大学デビューして以来、男子からの人気はうなぎのぼり。悠貴にいたっては言わずもがな。

「思い出した! まりあ氏。カラオケのときに好きな人がいるって言ってたよねー」

「そうなのか?」

「へえ、初耳だな」

 唯の暴露に男子二人は興味を持ったようだ。

 カラオケに行ったとき、翔との仲をこはるにからかわれた聖愛はうっかりと好きな人がいると言ってしまったことがある。

「あ、あれはー、その場をごまかすためといいますかー、なんといいますかー」

「怪しい。誰よ? 誰なのさ?」

「ふむ、兄としても知っておかねばなるまい」

「聖愛ちゃん、好きな人いるんだね。青春してるじゃん」

 聖愛は赤くなったり、青くなったり忙しい。翼に伝えてしまえという気持ちもあるが、こんなレストランでご飯食べながらなんて、ムードが無さすぎる。聖愛は意外とロマンチストで、できれば二人きりで夕日の見える公園なんかがいいかなと考えていた。

「そ、そうだなー。好きな人はいないけど、仲のいいメンバーだとは翼先輩が顔も性格も一番いいと思いますよ」

 聖愛は大胆なことを言ってしまったと、顔から蒸気が出そうだった。レストラン内では隼人派と翼派の女子たちが議論を交わし始めた。翼は頭に手をやって「ありがとう」と少し照れているようだった。一方、隼人は絶望したような顔をしている。

「我が妹よ。お兄ちゃんは悲しいぞ。俺はこんなに愛しているのにどうして俺が一番じゃないんだ」

  聖愛は醤油の瓶を隼人の頭にぶん投げた。公衆の面前でなんと恥ずかしいことをいうのだろう。ブラコンとか言っている隼人の方がシスコンである。はっきり言ってキモい。聖愛と隼人のやりとりを見て、唯も翼も笑っていた。恥ずかしい思いはしたが、おかげで聖愛の好きな人の話は有耶無耶になった。

大論争で騒がしくなったレストランの中で聖愛は大きくため息をついた。このままで、翼との関係が近づくことがあるのだろうかと心配になってきたのである。翼よりも隼人との距離が近づいている気もする。

はたして、聖愛と愉快な仲間たちの大学ライフは今後どうなっていくのだろうか。

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