大先輩とお弁当

 レッスンを終えて、聖愛は肩を落として学部棟の廊下を歩いていた。結局レッスンは一声も歌うことなく、ナターリアの愚痴と恋愛話で終わってしまった。その恋愛の相手が隼人だというのは驚くべき新情報であるが、また聖愛の周囲が複雑になっていくばかりである。

 ため息をついていると、後ろから声をかけられて聖愛は振り向いた。

「聖愛じゃないか。どうしたんだ、元気がないね」

 現れたのは話題の悠貴であった。大先輩の登場に、聖愛は初めて会ったときのように緊張を隠せない。

 悠貴は白いニットに黒のスキニーパンツ、上からはベージュの薄手のコートを羽織っていて、大人らしさと格好良さが全面に出ている。そのスタイルはナターリアにも負けることはない。

 聖愛が見とれていると、悠貴は困ったような顔をした。

「そんなに見つめられると照れてしまうな」

 聖愛は慌ててしまって、「す、す、す、すみません!」と言いながら胸の前で違うというように手を振った。

「いや、いいんだ。慣れっこだからね。自分で言うのもなんだけれど、私は女の子にはいささか人気があるようでね」

 悠貴は苦笑した。

 悠貴は高校の時も女の子に好意を寄せられることが多かったと早苗から聞いている。もし、女子校にでも通っていたら、百合の花が満開だったところだろう。その気がない聖愛と唯でさえ、初めて会ったときから、すっかり魅了されてしまったのだから。

「その代わり、こんな喋り方をしているせいもあるんだろうけれど、男性のほうからはまったくでね」

 悠貴はおどけたように手を広げ、首を振っている。

 聖愛からすると、悠貴は女性としても一級品である。きっと、大人過ぎる雰囲気が同年代の男性には高嶺の花となっているのだろう。だが、その高嶺の花を摘み取ろうとする輩を聖愛は知っている。

「そんなはずありません。兄は悠貴さんに何度も告白したんでしょう?」

 うっかり口を滑らせた聖愛の一言に、悠貴は驚いたような顔をした後、笑いだした。

「そういえば、そんなこともあったね。もう六年も昔になるか。懐かしいな。こんな私を好きだと言ったのは後にも先にも隼人だけだよ。君の兄は言っては悪いが変人だからね。一般男性と比べることは難しい」

 悠貴から見ても隼人は変わり者に見えるらしい。だが、そう言いながらも悠貴は照れたように微笑んでいる。そこには隼人に対する愛情のようなものがあると聖愛は感じた。それが後輩に対してのものか、男性に向けてのものかは、まだ経験の少ない聖愛にはわからない。

「悠貴さんは兄のことを気に入らなかったんですか?」

「そんなことはないさ。隼人のことは好きだよ。家族以外では唯一好きな男性だと言ってもいいぐらいにね」

「じゃあ、どうして告白を断り続けたんですか?」

「……それは秘密だ」

 隼人は悠貴が好きで、悠貴は隼人が好き。なぜ、それで二人は付き合うことができないのだろうか。聖愛は考えても、考えても答えは出てこない。隼人と悠貴の二人にしかわからないのかもしれない。

「兄は今でも悠貴さんのことが好きかもしれません」

「そうかもしれないね……どうしたものだか、まったく隼人のやつには困らせられてばかりだ」

「私もです」 

 そう言って、二人で笑いあった。

「ところで、聖愛はもうレッスンを受けたのかい?」

 笑いが収まり、話が変わると、聖愛の表情は沈んでいった。そんな聖愛の顔を見て、悠貴は何かを察したのか、聖愛の頭を「ぽんぽん」と軽く叩く。

「ナターリアに当たったんだね。それでレッスンはまったく進まなかったわけだ」

 聖愛は悠貴に頭を触られているだけで、心が穏やかになっていく。悠貴は根っからのお姉さん気質だ。抱きつきたい。聖愛は危ない世界へ入ってしまいそうな自分をなんとか抑え込むので必死だった。

「ご、ごほん。そうなんです。今日はまったくレッスンしてもらえなくて、愚痴と恋愛話しか――」

 聖愛はそこで言葉を止めた。恋愛話とは隼人とナターリア、そして悠貴の話である。聖愛の顔が青くなっていくのを、悠貴は不思議そうに見つめている。そこから、どう話を変えようか聖愛は焦っていたが、なかなか思いつかず、「わわわわ」と手を振りながら意味不明のことを言うことしかできない。

「へえ、ナターリアの愚痴は有名だけど、恋愛話なんて初めてだね。聖愛はよほど気に入られたのかな」

 悠貴はナターリアの恋愛について、その内容まで聞こうとしない。興味がないのかもしれないし、恋愛話は基本秘密が多いので、そのあたりに気を回しているのかもしれない。

 ここで、話を終わらせてしまえば良かった。

「悠貴さんは……悠貴さんは自分が好きな人に他に好きな人がいたとしたらどうしますか?」

 聖愛は思わず、口を開いてしまった。ナターリアは隼人に好きな人がいることを知っていると言っていた。それでも好きな気持ちは変わらず、きっと自分に振り向いてくれると信じているようだった。そのことは聖愛に少し勇気を与えた。聖愛が恋心を抱いている翼は早苗のことが好きだと隼人が言っていた。聖愛とナターリアは恋愛の問題が共通しているのである。そこで、好かれている側の悠貴はどう考えるのか興味を持って、聞きたくなった。

 悠貴は目を見開いた後、考えるように腕組みをした。本気で考えてくれているようで、眉間にシワが寄っている。

「そうだね。そういう経験はないけれど、諦めきれないということはなんとなくわかるよ。好きという気持ちは曖昧すぎてコントロールするのが難しいと思うからね。でも、私のようなドライな人間は諦めてしまうのかもしれない……」

 悠貴の声はとても悲しく聞こえた。悠貴はたまに自分を卑下しているようなことを言う。聖愛はそのたびに、「そんなことはない」と言いたいのだが、悠貴の言葉には何か含むようなところがあって、簡単に否定してはいけないような気がするのだった。

「ナターリアの恋愛は複雑そうだね。彼女は言っていることは軽いけど、本当は純情だ。たまには相談に乗ってあげて欲しい。レッスンは一流だから、心配はいらないよ」

 悠貴とナターリアは付き合いが長いのか、気心が知れた仲らしい。それでも、隼人が悠貴のことを好きだと気づかないのはナターリアの愛嬌だろうか。

 

 大学見学以来の悠貴との貴重な会話を終えると、聖愛は音楽学部棟の前で唯を待った。唯も今日、ナターリアのレッスンを受けているはずである。ナターリアは唯にも愚痴を言っている可能性が高い。

 しばらくすると、唯は元気そうに聖愛に向かって駆けつけた。

「まりあ氏、お待たせー」

「そんなに待ってないよ。ちょっと悠貴さんと話をしていたからね」

「えっ! 悠貴さんと! いいな、いいな」

 唯はそう言いながら、抱きついてくる。子犬を相手にしているようで、とても可愛い。

「唯は元気そうでいいわね。ナターリア先生のレッスンはどうだったの? 楽しそうだけれど」

 聖愛の探りに唯は大きく頷いた。

「すっごい楽しかった。イタリアについて見識が深まったよね。イタリア人はパンツにもアイロンをかけるんだってさー」

 唯は聖愛以上に無駄な時間を過ごしてきたらしい。それでも楽しそうなのは、ナターリアと唯の波長が合うからだろう。

「やっぱりレッスンはしなかったのね」

「まりあ氏もしなかったの? そう言えば、まりあ氏のことベタ褒めしてた」

 どうやら、ナターリアは聖愛に媚びを売って、隼人を落とそうとしているようだ。なんとも浅はかな考えだが、それだけナターリアの本気度が伝わってくる。

「ここだけの話なんだけどね……ナターリア先生はお兄ちゃんのことが好きならしいよ。それで、私にいい顔してるの」

「ええええええええええええええええええええ!」

 思ったとおり唯はとても驚いた。そして「あんな隼にぃのことが好きなんて」と大笑いするはずだ。聖愛はそう思っていたが、唯は驚いてからまったく反応がない。

 聖愛が唯の顔を覗くと、唯は真っ白になっていて、死んだ魚のような目をしていた。聖愛は驚いて、唯の肩を掴んで、「戻ってきなさい!」と前後に振った。首が折れるかというほど振って、やっと唯は正気に戻ったようだ。

「はあ……隼にぃってやっぱりモテるんだね」

「そうみたい。あんなお兄ちゃんがモテるなんて、やっぱり世の中は何かおかしいと思う」

「そんなことない!」

 唯は大声を出すと、下を向いてしまった。聖愛は唯のこんなに力強い声を聞いたことはない。

「そんなことないけど……困るよね」

「そ、そうだよね」

 そう、困る。あんな怠け者の代表みたいな男を彼氏にする女の子は不幸になるに違いない。聖愛は将来の隼人に彼女やお嫁さんができたときのことを考えて、憤慨していた。


 聖愛と唯が学内のレストランに入ると、隼人と翼が昼食をとっていた。四人がけの席に二人で向かい合わせに座っており、その周りの席は女子で溢れかえっていた。みんな隼人と翼の隣の席を狙っているのだろうが、牽制し合っているというところだろうか。

 それまで、元気がなかった唯だが、二人を見ると、目に力が戻ってきたようだ。唯はさっさと隼人の横に座った。周囲の空気が一瞬凍る。だが、聖愛を見ると、仕方がないというように食事を続けていた。翼はいつもの爽やかな笑顔で手を振っている。

「早苗ちゃんはどうしたの?」

 大学で早苗はだいたい隼人たちと一緒にいる。学科も同じだし、ゼミも同じなので不思議ではない。

「聞いてくれよ、聖愛ちゃん。今日、早苗ちゃんが隼人に弁当を作ってきたんだけどね。こいつ食ってすぐに『まずい』って言いやがったんだよ!」

 そう、早苗はたまに隼人に弁当を作ってくる。そして、その味は破壊的である。中学時代から弁当作りを続けているが、早苗の料理スキルはまったく上達することがない。高垣家は、もう早苗に料理を教えるのを諦めたという話も聞く。

「まずいものをまずいと言って何が悪い」

「お前はいつもそう言って……ほら、もっとオブラートに包む感じでだな」

「じゃあ、翼が食えば良かったじゃないか」

 翼は開きかけた口を閉じた。大粒の汗をかいている。翼だって本当ならば、好きな早苗の弁当を食べたいだろう。しかし、早苗の料理は千年の恋も冷めると親御さんに言われたほどである。翼はその狭間で苦しんでいるようだった。

「お兄ちゃん、早苗ちゃんのお弁当残したの?」

「いや、全部食べた」

 隼人は早苗の料理を残したことがない。翼が隼人に強く出られないのはそこであろう。しかし、隼人は全部食べたのに早苗はどうしてしまったのだろうか。

「今日、早苗は自分の弁当も用意していたんだ。普通に美味しいと食っていたが、体が拒否反応を起こしたらしい。倒れてしまって、保健センターで寝込んでる」

 早苗は味音痴である。なので、自分の料理がまずいとはわからないのだろうが、体のほうは正常だったということだ。まったくもって悲しい事実である。

「大事ないならいいんだけど……」

「なんで、隼人が平気なのかがわからない……俺だって、きっとできるはずだ」

 翼は独り言を言いながら頭を抱えていた。

「ねえねえ」

 そこへ、それまで黙っていた唯が隼人に向かって声をかけた。

「隼にぃはナターリアせんせーのこと好き?」

「ん?」

「へ?」

「はい?」

 突然の唯の直球、いや変化球というべき質問に三者三様に間抜けな声を出した。

「隼にぃはナターリアせんせーと知り合いなんでしょ? せんせーのことどう思ってるの?」

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