イタリーと少女漫画
声楽科のオリエンテーションを終え、しばらく経って、聖愛は初めての個人レッスンを受けていた。個人レッスンは週に一回、六十分の貴重な時間である。
しかし、聖愛はその時間を無駄に使ってしまっていた。原因は個人レッスンの講師を担当しているナターリアである。
イタリア歌曲において、若手のホープとして期待されていたナターリアは、何を思ったか来日し、美城大学の講師となった。
ナターリアは背が高く、細い体をしているのに出る所は出ているという、羨ましいスタイルをしていた。ラテン系特有の大きな目に高い鼻、黒い髪は少しウェーブがかかっていている。総じて美人である。
だが、どうしようもない欠点がある。
性格が悪いのだ。
この日も、ナターリアは聖愛のレッスンの時間を使って、イタリアの男性がいかに軽いかを愚痴っていた。
「あのナターリア先生、そろそろレッスンを始めてほしいんですけど……」
聖愛は流石に我慢の限界だった。
ナターリアからはベルカント唱法というイタリア式の発声法を教えてもらうことになっている。母親の周子から名前ぐらいは聞いているが、ベルカントとは『美しい』というような意味があるらしい。今のナターリアからほど遠い言葉だ。
「いいのよ、いいのよ。いきなり初レッスンから真面目にやることはないわ。まずは、先生と生徒のコミュニケーションが大事なのよ。そう思わない?」
たしかにそうだと聖愛も思うが、コミュニケーションというより、ナターリアの独り言を聞いているようなものだ。本当に大丈夫なのだろうかと聖愛は不安になった。
「その顔は私を舐めてるわね。いいわ。少しだけ、実力を見せてあげる」
ナターリアはそう言うと、さきほどまで行儀悪く座っていたピアノの椅子から立ち上がり、背筋を伸ばした。
「
ナターリアは『椿姫』の『乾杯の歌』を歌唱しだした。その声量はレッスン室中に響き、高音になるほど広がりを見せる。聖愛はその声に聞き惚れ、感激した。当然のことであるが、高校のコーラスとはまったく格が違う。
歌い終わったナターリアはドヤ顔をしている。悔しいが認めざるを得ない。聖愛はナターリアに師事することに文句を言わないことにした。
「いい? 日本人は高音になると先細り気味になることが多いけど、ヨーロッパの歌唱は高音になるほど広がっていくわ。そうね、例えるならパンテオンのように厳かに、コロッセオのように力強く広々と発声するのよ」
意味がわからない。聖愛には、とりあえずローマの有名な観光地を並べただけのように思えた。
発声法については追々習っていこうと思った聖愛はまず、ナターリアの言うようにコミュニケーションをとることにした。
「ナターリア先生はなんで日本に来たんですか?」
よくある外国人への質問である。
ナターリアはまたピアノの椅子にあぐらをかいて座った。
目を閉じて、何かを思い出そうとしているように見える。もしかしたら、複雑な理由があるのだろうか。それならば、聞いてはいけないことだったかもしれない。聖愛は話題を変えようか迷った。
「男よ」
聖愛が話しかけるより先にナターリアがつぶやいた一言に聖愛は呆気にとられた。
「イタリーの男どもはどいつもこいつも下心を持っているのよ。それに比べて、日本人は線が細くて、とても紳士的、甘い言葉もイタリー男と違って心に響くわ」
ナターリアはまた愚痴を言いだした。
聖愛はすでに質問したことを後悔していた。イタリア男性の愚痴は先程、嫌になるほど聞かされてきたのである。
ナターリアの独り言はまだまだ続く。
「イタリーの男と付き合ったこともあるけれど、口説かれた日の晩には浮気をしてたわ。信じられないでしょう。日本の男性はシャイだけど、その分、一人の女性を本気で愛しているわ」
聖愛はナターリアの主張に簡単には同意できない。日本の芸能人の不倫沙汰なんてしょっちゅう聞くし、高校の中でも浮気をする男はいた。
「それに、女性を落とす方法も工夫されているわ。壁ドゥーンや顎クィーンなんてキュンキュンしちゃうに決まってる。されたことはないけどね」
壁ドゥーンは壁ドンで顎クィーンは顎クイのことだろう。そんなことをリアルでしている男を聖愛は見たこともないし聞いたこともない。むしろ、壁ドンなんてしている男を見たら引いてしまう。よっぽどのイケメンだけに許される行為だ。
「先生、その情報を誰から聞いたんですか?」
聖愛はナターリアが騙されているのではないかと心配になった。
「そんなの決まってるわ。ジャポネーゼ少女漫画よ」
ズコー。聖愛は盛大にこけそうになった。たしかに少女漫画に出てくる男の子たちはみんな線が細いし、甘い言葉をここぞというときに言う……。
聖愛にとって、少女漫画の話なんて夢のようなものである。漫画に出てくるような男の子なんて存在しないと思っている。
「先生はそれでその……素敵な男性と出会えたんですか?」
聖愛の問いにナターリアはにこりと笑った。その笑顔は先程まで愚痴っていたとは思えないほど魅力的だった。
「ええ、出会えたわよ。日本に来てもなかなか漫画のような男性はいなかったけれど、この大学で働いて良かったわ。理想の男性を見つけたんですもの」
ナターリアはその男性のことを思い浮かべているのか、実に幸せそうである。あぐらをかいた足を揺らしてご機嫌な様子だった。それほどまでにナターリアを夢中にさせる男性とはどういう人なのか聖愛は興味を持った。
「ナターリア先生が気に入ったんだから、素敵な方なんでしょうね。音楽学部の先生ですか?」
ナターリアは足を揺するのを止めて、不機嫌そうな表情をした。
「なんでオヤジなんかを好きにならないといけないのよ。私は年下が好きなの」
「え、先生凄く若いですよね。相手は学生ですか?」
ナターリアはイタリアにいた頃から神童と呼ばれていたらしい。なので、音楽学校も飛び級に飛び級で卒業し、すぐに第一線で活躍していたため、実は聖愛とそれほど歳は違わない。
「
「ええええええええええええ!」
聖愛は口から心臓が飛び出るかと思った。文学部の歴史学科のハヤト……限りなく隼人に近い。だが、まだ同名だという可能性は残っている。
「何をそんなに驚いているの? もしかして、知り合い?」
「そのハヤトって人は名字がヤガミですか?」
「
聖愛はレッスン室の天井を見上げて、頭を抱えた。その様子をナターリアは面白そうに見ている。
聖愛は、今度はしゃがみ込むと、絞り出すように声を出した。
「知り合いも何も私の兄です……」
「
そう言うと、ナターリアは聖愛に思いっきり抱きついて、耳元で囁いた。
「マリアからもハヤトに私がどれだけ素敵か伝えといてね。頼むわよ」
ナターリアは巷で言う、あざとい女というやつだろうか。しかし、隼人がまたもやモテている。この大学はどうなっているのだろう。魔法でもかかっているのではないかと聖愛は勘ぐった。
だが、隼人はずっと悠貴のことを追いかけていたはずである。ナターリアはそのことを知らないのだろうか。
「先生はその、あ、兄と付き合っているんですか?」
聖愛が確認のためにナターリアに聞くと、ナターリアは少女のように顔を赤らめた。さきほどまでの強気なダメ教師とは打って変わって儚げである。
「恋っていうものは、陰から思いを募らせていくものでしょう? 漫画の少女は好きな男性になかなか思いを伝えられなかったもの。心の中で思っているだけで幸せなの。カタオモイってやつね」
聖愛は体中が痒くなった。自分の兄が少女漫画の主役のように語られているのである。恥ずかしいったらなかった。しかも、聖愛が日頃からダメ人間だと思っている隼人のことだからなおさらだ。
もう何も言うまいと思ったが、隼人がモテる謎は解いておきたいと思った。
「なんで、兄を好きになったんですか?」
ナターリアは人差し指でピアノの鍵盤を叩いた。優しい単音がレッスン室に響く。
「少女漫画は結局、作り話。そんなことは私だってわかっているわ。だけど、惹かれずにはいられなかった。大学に所属した当初はハッキリ言ってがっかりしたわね。確かに日本人は優しかったけど、漫画に出てくるような素敵な人はいなかった」
ナターリアはその頃を思い出すかのように、憂いを見せた。その表情は海外の大物女優のように美しい。いや、それ以上かもしれない。
聖愛はなぜ自分の周りには美しく可愛らしい人ばかり集まるのだろうと不思議に思った。卑下しているわけではない。可愛い女性を見ることが聖愛は好きだった。
「私は日本という国を漫画でしか知らなかった。少女漫画ってね、心理描写や情景描写は多彩だけど、文化については描かれていないことが多いの。だから、私は図書館で本を読んで学ぼうと思ったわ。そのとき、ハヤトに声をかけられたの」
隼人のことだ。どうせ、ろくなことは言わなかったに違いないと聖愛は高をくくっていた。
「彼は言ったわ。本なんかで得た知識よりも実際に経験したほうが、君は満足するに違いないって。彼は私の手をとって色んなところに連れて行ってくれたし、文化や歴史について話してくれた。壁ドゥーンなんてなくても十分私の心に響いたわ」
なんということだろう。聖愛にとっても隼人の行動は、まったくもってイケメンであると思える。
なぜ、その行動が家ではまったく出ないのだろう。聖愛は感動の気持ちがだんだん怒りへと変わっていくのを感じた。隼人を殴れないフラストレーションが溜まっていく。
それにしても、外での隼人には聖愛がまったく知らないところが多すぎる。
「だけど、彼には好きな人がいると噂を聞いたの。だから私は気が気じゃないわ。その女を潰して、私が隣に座るのよ……ふふふ」
ナターリアの顔がだんだん邪悪に変わっていく。ナターリアはやっぱり危ない人のようだ。聖愛はレッスン以外ではできるだけ関わらないようにしようと思った。
しかし、隼人が好きな女性といえば、やはり悠貴のことだろう。ナターリアはそんなに近くにライバルがいることを知らないらしい。
聖愛は隼人とナターリアが結婚するところを想像した。今日の会話からしても、ナターリアを姉と呼ぶのは勘弁してほしい。一方、悠貴で想像してみる。完璧だ。
このときばかりは、聖愛は隼人を応援することにしたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます