カラオケとナンパ

 聖愛は疲れ切っていた。いや、聖愛に限らない。声楽科のほとんどが机に顔を突っ伏していた。

 さきほどまで聖愛たちは大学に入って初めての講義を受けていた。講義の内容は音楽理論である。音楽理論とは音楽の構造や手法を理論をもって説明するもので、確立されているものもあれば、哲学的主点から論じられるものもある。音程とはなんぞや。音階とはなんぞや。そんな話しから始まるのである。

 聖愛たちも声楽科に合格した生徒であるので馴染みがないわけではない。しかし、なんとなく使っていた言葉や知識であって、本格的に学ぶのは大学に入ってからが初めてだった。まるで数学を学んだときのようにうなだれている聖愛のところに、こはるがやってきた。

「マリリン、お疲れ様。ほんと私も疲れちゃった。理論なんて知らない。感覚でしょ感覚!」

 それもどうかと聖愛は思ったが、こはるが言いたいこともわかる。初めからこの状態でやっていけるのだろうかと聖愛は不安になった。そんな聖愛の肩をこはるが抱く。こはるの顔はすでに元気を取り戻したようだ。

「ねえ、マリリン。この後カラオケでも行かない? 大学入ってから、ちゃんと遊んでないし。親睦会しよ親睦会。唯も行くでしょ? 杏も呼んで行こうよ」

 こはるは唯にも呼びかけた。そんな唯は可愛い顔が台無しなほど怠けきっていた。さきほどの授業が効いたのだろう、今にも寝そうな唯をこはるが抱き起こし、体をぶんぶんと振った。

「唯、起きろ! 起きなきゃ、あのことを言ってしまうよ!」

「はっ! だめだめだめだめえー!」

 唯はさきほどのだらしなさからは考えられないほど、俊敏な動きで、こはるの口を塞いでいた。聖愛はこはると唯が仲良くなって良かったと思うと同時に、二人だけの秘密があることに少し寂しさを感じていた。

「じゃあ、唯は決まり。マリリンも行くでしょ? そうだ、翔くんも呼ぼう。この前、お世話になったし、もっと親睦を深めなきゃ」

 聖愛は苦笑した。まったく、こはるは強引な性格をしている。だけど、翔への感謝を忘れていない乙女な部分も持ち合わせている。そこがうらやましいと聖愛は思っていた。


 カラオケルームには結構な人数が集まっていた。こはるは杏と翔に加え、声楽科の同期生にも声をかけた。すると、キザな斉藤さいとうくんや、ギャルの大槻おおつきさん、爽やか少年の神谷かみやくんなど数人が参加することになった。それぞれ、ノンアルコールの飲み物を頼むとこはるが乾杯の音頭をとった。

「一番! 大槻歌いまーす!」

 そう言って、金髪ギャルの大槻さんは『東野ひがしのかな』の『とりあえず説教です』通称『とりセツ』というポップで刺激的な恋愛ソングを歌いだした。

 声楽を習っている人はカラオケでもクセが出ると言われているが、最近の若者はそんなことはない。ちゃんと、カラオケ用と声楽用で声を使い分ける。しかし、普通の人とは肺活量と声域、そして音程の正確さが違う。つまり上手いのだ。

 大槻さんの歌を聞いて盛り上がりながらも、それぞれジュースを飲んだり、次の曲を探したり、絡んだり、話をしたりしている。聖愛は少し居心地が悪そうにしている翔に話しかけた。

「翔くん。石尾先輩から唯たちを守ってくれてありがとう。男らしくて格好良かったよ」

 聖愛が隣に座ると、翔はピンと背筋を伸ばして、聖愛の顔とは違う方向を見た。

「ほ、法律家として当然のことをしたまでだよ。あんな男を放っておいてはみんなが迷惑するからね」

 聖愛は生真面目な翔の言葉に笑うとともに、好感を持った。翔は見るからに真面目な男の子である。服装も髪型もダサいわけではないが、気取っていない。イケメンというより、凛々しいという言葉が当てはまる。翔はちらちらと聖愛のほうに目をやるたびに赤くなっている。女の子に慣れていないのかなと聖愛は思った。

「ねえ、翔くんはなんであんなに法律に詳しいの? 法学部だからっていうのはわかるんだけど、私たちまだ一回生じゃない?」

 法律の話になったからか、翔は聖愛の目をやっと見た。

「俺の父さんは検事だったんだ。昔から法律について教えてもらってたんだよ。でも、ある受刑者に逆恨みされてね。刺されて亡くなってしまったんだ。だから、今度は俺が検事になって、犯罪者を裁くんだ。そう思って、一生懸命勉強したんだよ。あ、あんまりいい話じゃなかったね、気にしないでよ」

 聖愛は感心した。お父さんのことを聞いてしまったことへの気まずさはあったが、それよりも翔がしっかりとした夢を持っていることに感動した。聖愛がじっと翔を見つめていると、翔はまたもや目をそらして赤くなった。

「お、俺は新歓コンパで、八神さんが話しかけてくれて、す、凄く嬉しかったよ。大学に入って初めての、その、と、友達ができたんだから」

 そう言って、翔は聖愛の方を見て、にっこりと笑った。聖愛も翔を見て、「聖愛でいいよ」と言って微笑んだ。そのとき、聖愛の背中にこはるが張り付いた。

「あらあら~、こちらいい雰囲気。もしかして、カップル第一号結成?」

 こはるの言葉を聞いて、みんなが聖愛の方を向いた。興味津々という表情で囃し立てる。聖愛はカップルと聞いて、翼の顔が頭に浮かんだ。こはるを引っ剥がして、勢いよく立ち上がると部屋中に響く声で言った。

「違うわよ! 私には好きな人がいるんだから!」

 聖愛の暴露にその場は静かになった。さきほどまで仲良く話していた翔は聖愛を見て、固まっている。聖愛が自分の言ったことを理解したときには遅く、カラオケルームはお祭りモードに突入した。

「誰? 誰、誰、誰? まりあ氏の好きな人って誰?」

「ねえ、マリリンの好きな人この中にいるの? 私たちが知ってる人?」

「やあ、斉藤です。聖愛くん、そんなに僕のことを。なんてったって僕は美し――」

「きゃー!まりあっち、すこ(好き)な男いんの? マジ乙女じゃん、大槻おったったー(テンションあがった)」

 聖愛が質問攻めに合っている間に、杏が隣に座った。杏は聖愛に顔を寄せて、「辛い恋を選びましたですね」と一言言った。それを聞いた聖愛は恥ずかしくなって部屋を飛び出した。真っ赤になった顔を見られないようにしながら聖愛はトイレへ向かった。トイレの鏡に映った自分を見ながら、聖愛はなぜあんなことを言ってしまったのか後悔した。それにしても杏は何者なのだろう……すべてお見通しというあの顔が聖愛は恐ろしい。


 あまりに遅くなっては余計怪しまれるだろうと、聖愛はトイレを出た。部屋への道を急いでいると、反対側から茶髪に目つきの悪い不良系、ロン毛に胸開きのお兄系、坊主にキモ顔の変態系という柄の悪い男たちが歩いてきた。聖愛は目を合わさないように、端のほうを歩いていたが、男たちはニタニタと聖愛を見ていた。

「よう、君。一人でどうしたんだ? 少し目も赤いじゃないか。俺が慰めてやってもいいぜ」

 最初にお兄系の男が聖愛に話しかけた。次に坊主の男が品定めするように聖愛に近づいてきた。

「へへ、結構いいオンナじゃね? 俺、このコ貰っちゃってもいいっすよね」

 坊主の気持ち悪い言葉に聖愛はぞわっと震えた。最後に不良系の男が「一緒に来いよ」と、聖愛の腕を取った。

「いや! やめてください。大声出しますよ!」

 聖愛がそう言っても、男たちは怯まない。きっと自分たちを止める人はいないと思っているのだろう。連れて行かれると何をされてしまうのだろうか。聖愛はこの後のことを考えて怖くなった。

「おい、なにしてんだ。このスカタン共」

 その声が聞こえたのは、聖愛がまさに連れ去られようとしていたときだった。聖愛は腕を振り払うと柄の悪い男たちから逃れて、声の主の背中に隠れた。その背中は広く、堂々としていた。

「おい、お前。もう一回言ってみろや。俺らに喧嘩売るって、どういうことかわかってんのかよ」

 不良系の男がすごむ。しかし、聖愛を守っている男はまったく怯むことがなかった。

「このスカタン共と言ったのだよ。耳をかっぽじって聞け、妹に手を出すやつは宇宙のゴミだ」

 ――妹? 聖愛はその声をもう一度脳内再生してみた。どこかで聞いたことがある。というより、聖愛が長年聞いてきた声だ。

「お兄ちゃん?」

 聖愛がそう言うと、隼人は振り向いて親指を立てた。あまり様にはなっていない。なんで隼人がこんなところにいるのだろうかと聖愛は思ったが、今はそれどころではなかった。隼人はいつも聖愛に痛めつけられている。そんな隼人が三人相手にどうにかできるはずがない。聖愛は隼人が痛めつけられることを想像して、隼人のシャツを強く握った。

「おいおい、お兄ちゃんだって? ははは、兄妹愛ってやつか。格好いいねえ。でも用があるのは妹のほうなんだわ。お兄ちゃんは引っ込んでな――」

 不良系の男はそう言いながら、隼人に殴りかかった。聖愛は目をつむったが、何も起こらない。すると「いてててて!」という声が聞こえてきた。

 聖愛が目をゆっくりと開けると、不良系の男の手を翼が抑え込んでいた。突然の乱入者に柄の悪い男たちは驚いている。

「おいおい、戦友の妹を泣かすとか、結構なことしてくれたねえ。お前らどうなっても知らねーぞ」

 翼がそう言うと、隼人は「ほわぁああああああああ」と叫んで、不良系男子の首に手刀を入れ、一発で気を失わせた。隼人はまたもや叫ぶと、坊主の男の脇腹にローリングソバットを食らわせた。あれは聖愛の得意技だ。坊主の男は腹を抑えて泡を吹いている。お兄系男子が逃げようとしたところに翼が先回りをすると、隼人がこれまた聖愛の得意技である踵落としを脳天へぶちかました。男たちは全員床に倒れた。

「また、つまらぬものを切ってしまった」

「いや、切ってはねーだろ」

 隼人と翼は冗談を言い合っている。聖愛はそんな二人を見て、安心したのか腰が抜けて、床に座り込んでしまった。

 翼が聖愛のそばへ来て、手を差し出した。

「怖い目に合ったね。もう大丈夫。正義の味方ハヤトンとツバサンが来たからね」

 聖愛は「なんです、それ」と涙を拭きながら、笑顔で翼の手をとると、思いっきり翼に抱きついた。体の震えが止まらない。

「怖かった……助けに来てくれてほんとにありがとうございます」

 翼は聖愛の頭をぽんぽんと叩くと、隼人のほうを見た。その目は憧れの対象を見ているような目だった。隼人は今だに「ほわあああ」と言いながらポーズを決めている。

「お礼を言うなら隼人に言いな。高校の頃から決まってるんだよ。ヒーローはハヤトンでツバサンはただの助手だってね」

 そう言われて、聖愛が隼人の顔を見ると、隼人はやっと奇声をやめて、聖愛に近づくと、翼と同じように聖愛の頭の上に手を乗せた。聖愛は小学生の頃を思い出した。

 男子にいじめられていた聖愛を隼人は助けては頭を撫でてくれたものである。

「大丈夫だったか、我が妹よ。安全は我々が確保した」

 そう言って、隼人は優しく聖愛の頭を撫でた。我が妹なんて言う兄は滅んでしまえと聖愛は思いながら「お兄ちゃんってほんとバカだね、ありがとう」と言った。

 なかなか帰ってこない聖愛を心配してか、唯と翔がやってきた。倒れている男たちを見て、二人とも驚いたが、聖愛が無事だったことを聞いて安心したようだ。

「刑法204条 傷害罪の疑いがありますが、正当防衛で無罪です」

 翔がそういうと、聖愛たちは笑った。

 聖愛は視線を感じて振り向いた。隼人と翼が笑顔で聖愛たちのことを見ていた。聖愛はたまには絡まれてみるのもいいかなと思ったのだった。

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