入学式と秀才

 ジリリッ! カチャッ!

 目覚ましの音が鳴る間もなく、聖愛まりあはすぐにベッドから起き上がった。昔から朝には強いうえに今日は聖愛にとって特別な日だ。聖愛は猫がたくさんプリントされたお気に入りのパジャマを脱いで、これまたお気に入りの白の下着姿になると、壁にかかっている服を手に取り、まだ慣れない手付きで着替えを済ませた。

 襟元を手で引き締めると、聖愛はぽつりと言った。

「今日はよろしく」


「おはよう、ママ」

 聖愛は慎重に階段を降りながら、キッチンにいる周子しゅうこに聞こえるように朝の挨拶をした。周子は「おはよう」と短く返事しながら、コンロの火加減を調節していた。キッチンからは少し甘い匂いが伝わっていく。洗面所で顔を洗って歯磨きを済ますと、聖愛はダイニングに向かった。

「今日は朝シチュー?」

 八神やがみ家ではたまに朝にシチューを食べる。聖愛はそれが好きだったが、今日は浮かない顔をしていた。服が汚れるかもしれないと思ったのである。

「今日もいつもより早いのね」

 周子はそう言って火を消すと、少し深い皿にシチューを注いでいった。今日はパンとシチューだけなので、テーブルの上にはまだ何も乗っていない。聖愛はパンを取り出して、トースターで焼き始めた。マーガリンとはちみつを取り出した周子を見て、「ママ、わかってるー」と聖愛は偉そうに言った。

「今日からは毎日早起きするつもり。せっかくの新生活だもの」

 シチューをテーブルに運んだ後、聖愛は焼けたパンにマーガリンとはちみつを塗りながら言うと、周子は苦笑した。

隼人はやとに聞かせてあげたいわ。聖愛は休みの間も早起きだったしね」

 周子の言葉に満足して聖愛は胸を反らせた。

「お兄ちゃんと一緒にしないでよ。私はお兄ちゃんと違って大学をサボったりしないしね。で、お兄ちゃんは今日もまた遅いってわけ?」

 不機嫌な声を出しながら、聖愛はシチューをこぼさないように慎重に食べようとした。

「隼人なら、もう出かけたわよ」

 周子の言葉に聖愛は思わずスプーンを落としそうになった。危ない、スーツが汚れるところだった。聖愛は心底ほっとするとともに驚きを隠せない。隼人が聖愛より早起きすることは滅多にない。しかも、出かけているなんてことは、聖愛の記憶の中にもなかった。今日は聖愛にとって特別な日。隼人にとっても特別なのだろうか。

 ――怪しい。

 聖愛は隼人への不信感をレベルアップさせることにした。

 ゆっくりとコーヒーを飲んで食事を終えると、ビジネスバッグの中から鏡と化粧道具を取り出した。聖愛は今日から大学生。高校時代より少し大人っぽさを出そうとメイクに時間をかけた。今日はいらないことを言うやつはいない。

「なんか調子狂うな」

 聖愛はそうつぶやいて、玄関へ向かった。高校で履いていたパンプスより少しヒールの高い靴を履く。周子に向けて「いってきます」と言って、聖愛は春の日差しの中へ一歩踏み出した。


 聖愛が駅につくと、ぴょんぴょんと飛び跳ねている友人を見かけた。まあ、待ち合わせをしていたのだから見かけたというのはおかしいのだが、聖愛はできれば無視したいほど恥ずかしかった。

「まりあ氏! まりあ氏! スーツだよ、スーツ。どう似合う?」

 そう言ってゆいはポーズを決めながらくるくると回っている。まったく猫のような顔をして犬のような行動をする。聖愛はそう思うと唯の頭にチョップをかました。唯は「痛いー」と言いながら、聖愛のことを恨めしそうに見ている。

「あんたはチビだから、スーツは似合わない」

 いじめっ子のようなセリフに唯は「ガガーン」と効果音付きでショックを受けているようだった。

 朝の駅前には結構な人がいる。この駅の周辺には住宅地が多いので通勤ラッシュの時間帯である。スーツを着た男女の社会人がきびきびと駅内へ足を運ぶ。スーツ姿の聖愛は自分も社会人になった気がして、背筋を伸ばした。唯が珍獣でも見るような目をしている。今度は首にチョップを入れてやろうかと聖愛は思ったが、電車の到着時間になったため、唯の手をとって歩きだした。

 満員電車内で潰されそうになりながら、近所の大学で本当に良かったと聖愛は思っていた。小さい唯はすでにどこにいるのかわからない。

 三駅すすんで電車を降りると、聖愛たちと同じような年齢、同じようなどこかぎこちない服装、同じような少しの緊張と大きな期待をもった表情の男女が電車から降りてきた。

『最寄駅』を出ると、その男女たちは同じ方向へ歩きだした。もちろん聖愛たちも同じ方向である。

「ねえねえ、友達いっぱいできるかな」

 唯がどこかの童謡のようなことを言い出した。今日は入学式。いきなり友達を作るのは難しいと聖愛は思っていた。だけれど、大学へ向かっていく人の多さをみると、この中から一人くらいは友達になってもおかしくないなと考えを変えた。

「せっかく大学に入ったんだし、新しい友達できるといいね」

 聖愛は周りの顔を見ながら、他人事のように言った。


 入学会場は有名アーティストのライブでも行えるほど大きかった。会場に入ると、高校の卒業式とは比較にならないほどの多くの人がいる。スーツ、スーツ、スーツの山。いっそのことドレスでも着てきたら目立っただろうなと聖愛は思った。

 席は自由だった。聖愛と唯はせっかくなので少し前のほうの席に座った。すると、聖愛の横に一人の小柄で可愛らしい女の子が座った。長めで少し明るい色のボブカットが卵型の顔によく似合っていた。

 ――どこかで見たことある?

 聖愛はその女の子に見覚えがあるような気がしていた。だが、はっきりとは思い出せない。唯が話しかけてきたので、隣の女の子への興味はすぐに消えた。

 入学式が始まったが、その進行は高校と対して変わらない。ただ、挨拶する人がとにかく多い。つまらないと聖愛は思っていた。隣の席の子はすでに寝ている。お偉方の挨拶が終わって、「新入生挨拶」と司会の人が言った。これだけの人数の中から誰が挨拶をするのだろうか。以前、早苗が入学式で代表挨拶をするのはどこかの学部の入試で一番成績が良かった人だと言っていたことを聖愛は思い出した。つまり、新入生挨拶をするのは新入生でトップクラスの秀才ということだ。

「新入生挨拶、文学部、歴史学科、白坂しらさかあんずさん」

 ――えっ?

 聞き覚えのある名前を聞いて聖愛は眠気が飛んだ。白坂杏。高校の卒業式でも首席として卒業証書を受けとった女の子。瓶底のような眼鏡をかけて、いつも眠たそうな雰囲気が特徴的である。

「ふぁい?」

 隣の席の女の子が寝ぼけた声を出した。さっきまで実際寝ていたのだから仕方ない。聖愛がそう思っていると、女の子は手をあげて、立ち上がった。

「はいはーいです」

 突然の奇行に、(変な子キタァ!)と聖愛は思っていたが、どうやら違ったらしい。その女の子はそのままステージへ向かって歩きだした。高校の卒業式でも見たあの眠そうな雰囲気、聖愛は確信した。

「白坂さん!?」

 聖愛と唯は同時に大きな声をあげた。会場がシーンとなる。聖愛達は注目の的となり、恥ずかしさで顔が真っ赤になった。名前を呼ばれた当の本人はゆっくりと聖愛たちのほうを見て、「そうですー」と手を振って戻ってきた。

「同じ高校の人ですー? 隣に座っていたなんて偶然ですねー」

 突然始まった世間話のような雰囲気に司会進行の人は慌てだした。入学式がストップしたことで会場はざわめきだした。

「私は杏ですです。あなたたちのお名前は?」

 それでも杏はマイペースだった。聖愛たちは雰囲気に飲まれて自己紹介し返した。

「わ、私は八神やがみ聖愛……高校三年のときは三組だった」

「わたしは姫川ひめかわ唯! 十八歳! 高三のときは同じく三組!」

 その流れに乗ったのか、周囲の男子が次から次へと自己紹介を開始した。

「白坂さん! 白坂杏さん! 新入生挨拶して!」

 司会進行の人がたまらずに泣きそうな声で杏のことを呼んだ。杏は自分の役割にやっと気づいたのか「おおぅ」と言ってステージに向かった。マイクの前へ立っても眠そうである。

「みなさん、おはようございますです。今日はとってもいいお天気で良かったですね。私などは満員電車の中でも寝てしまって、寝過ごすところでした。ははは」

 世間話のような入りに会場では小さく笑い声が聞こえる。

「今日から、私たちは大学生なわけなんですが、私、今日から眼鏡をやめてコンタクトにしたですよ。いわゆる大学でびゅーというやつです。そしたら、今朝、駅でナンパされたです。いえーい」

 杏がステージ上でVサインをしていた。新入生たちはあまりにフリーダムな挨拶にどう反応すればいいかわからないようだった。ただ一人を除いて……。

「大学デビュー、いえーい!」

 そう言って唯はVサインを作りながら飛び上がった。それを見て会場は一瞬静かになったが、一人が言い出すと二人。二人が言い出すと四人という具合に増えていき、今では会場全体に「大学デビュー、イェーイ!」「大学デビュー、イェーイ!」という声が響き渡っていた。

 ――なんだこれ。

 冷静な聖愛はこの異常な状況に固まっていた。まるで静かな自分がおかしいように思えてくる。友達できるかどうかなんてレベルではない。一日にして、聖愛と唯、それに杏は新入生の中で有名人となった。ステージ上を見ると、コンタクトになったという杏が会場全体を怪しい笑顔で見つめていた。

「白坂さん! 白坂さん! もういいから降りて!」

 司会進行の人が大汗をかいて、杏に呼びかけていた。杏はそれを見て、ステージを降りかけたが、マイクの前に戻って、一言言った。

「あなたたちは今日から私の友達」

 そう言った杏の無邪気な笑顔は聖愛にとって、とても印象的だった。


 混乱の入学式も無事終わり、会場を出たときだった。会場の周りにはたくさんの人があつまり大声をあげている。

 ――やだ、なにこれ怖い。

 聖愛は単純にそう思った。聖愛はその人の波をかき分けていくと手元にたくさんの紙を渡されていることに気がついた。読んでみると、『来たれ』と派手な様式で書いてある。他の紙も書いてある内容こそ違うが、同じようなものだ。

 ――これがサークル勧誘ってやつ?

 新入生にはサークルの勧誘があるとは聞いていたが、まさか入学式が終わってすぐにこんな大量に勧誘されるとは思っていなかった。聖愛と唯はなんとか前に進もうと必死で歩いた。手元は紙でいっぱいである。そのとき、聖愛の前に太った男が立ちはだかった。

「ね、ねこみみ研究会に入らないかい。君たちならきっと、ねこみみが似合うと、お、思うんだよね。ハアハア……」

 聖愛は青くなった。『ねこみみ研究会』ってなんだ。怪しい響きしかしない。何よりこの男が怪しい。そう思う聖愛に男はどんどん迫ってくる。そのとき、固まっていた聖愛の手を誰かが握って、走り出した。

「きゃああああああああ!」

 聖愛は驚いて大声を出したが、それでもその人は手を離さずにずんずん進んでいく。何がどうなっているのか、入学式からの展開で、聖愛の頭はすでにパニックになっていた。気がつくと少し広い公園のようなところに出た。

「やあ、聖愛ちゃん。大丈夫だったかい」

 手を握っていた人は爽やかにそう言った。聖愛は青ざめた顔で声の主の顔を見た。

つばさ先輩! どうしてここに――」

「よう、隼人。そっちも救出成功したか?」

 聖愛は翼先輩が話しかけた方を見ると、驚いたことに隼人が立っていた。隼人は唯の手を握っている。

「なにやってんのよぉ!」

 聖愛は反射的に隼人の脇腹に渾身の回し蹴りを食らわせた。隼人は「くわぁ!」とエコーを聞かせながら唯の手を離した。

 ――またやってしまった。

 聖愛は冷静になって、今自分は翼の前だということを思い出した。しかも手はまだ握ったままである。聖愛が青くなったり赤くなったりしていると、ユニオンモールのときと同じように翼は爆笑していた。隼人は「マジいたい」と言いながら立つと聖愛と唯の顔を見た。

「大丈夫だったか」

 その言葉の意味がわからずに、唯と顔を見合わせていると、手を離した――聖愛は少し残念に思った――翼が説明してくれた。

「うちの大学の部活やサークルはね、新入生をできるだけ多くゲットしようと、毎年、入学式の後はあの状態なのさ。だから困っているであろう、我が戦友の妹とその友人を助けようと思ってね、朝早くからスタンバってたってわけ」

 なるほど、それで隼人は朝早くでかけたのかと聖愛は納得がいった。そのとき、また気持ち悪い声が聞こえてきた。

「き、君なら、にくきゅう界のトップアイドルになれると、お、思うんだ。に、にくきゅう研究会に……」

 太った男の前で小柄な女の子が歩けずに困っている。

「お兄ちゃん、ちょっとあの子も助けに行ってこい」

 命令形であることに疑問ももたず、隼人は妹の言うとおり、女の子を助けに人混みの中へ消えていった。しばらくすると、隼人は杏の手を握って帰ってきた。杏は「おおぅ」とまったく驚いてなさそうな声をあげている。それを見た聖愛はまたもや反射的に隼人の脇腹に……。


 隼人が復活したころ、やっと場が落ち着いた。

「で、このかわいらしい子も君たちの友達かい?」

 翼は杏の顔を見てにこにこしている。聖愛は困った。友達かと聞かれると高校でも絡んだことはないし、話したのも入学式が初めてである。関係性としてはただの同級生なのだが……なのだが、さきほどの杏の挨拶が聖愛の心に響いて仕方がない。


 ――あなたたちは今日から私の友達。


「……そう、友達なんです!」

 聖愛と唯は杏の手を握ってそう宣言した。

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