スーツと戦友

 美城みしろ大学の入学式を数日後に控えた夜、ソファーで雑誌を読んでくつろいでいた聖愛まりあ周子しゅうこは言った。

「そういえば、聖愛。あなた入学式に着ていくスーツ持ってないわよね」

 聖愛はそれを聞いて固まった。今まで行事は結婚式から葬式まで全部制服で良かった。フォーマル=スーツという考えが聖愛にはまったくなかったのである。周子に借りようにも、周子は聖愛よりずっと背が高いので、サイズが合わない。

 入学式はあと数日と迫っていた。

「ママ、なんでもっと早く言ってくれないの。急いで買いにいかなきゃいけないじゃない」

 周子はやれやれという顔をした。

 聖愛はすでに十八歳である。免許もとれるし、選挙権だってある。高校の同級生の中にはすでに社会人として働いている人もいるのである。この度のことは完全に聖愛の油断であった。それがわかっていても、受け入れたくはないお年頃であった。

「明日にでも買いに行きなさい。私はしばらく忙しいから付いていってあげられないわよ」

 周子の冷たさに聖愛は「えー」と不満を漏らした。

 明日は出かけるかと諦めたところで、聖愛はふとゆいのことが気になった。唯は聖愛以上に油断している……と聖愛は思う。ここで唯がスーツを用意していたら聖愛は親友に置いていかれたような気分になるのである。早々に確認する必要があると、聖愛は唯に電話をかけた。

「もしもし、唯だぴょん。まりあ氏どうしたー?」

 まったくもって気が抜ける電話の出方だった。だが、いつものことなので聖愛はスルーして、本題に入った。

「唯、もしかしてスーツ持ってたりしないよね?」

 聖愛はわかりやすく質問したつもりだったが、なかなか返事がこない。まさか、唯はスーツを持っていて、聖愛の質問に呆れ返っているのではないだろうか。そんなことを聖愛は考えていた。

 しばらく待っても、何も言ってこないので、電波が悪いのかと聖愛が思った矢先だった。

「まりあ氏どうしよー。唯、スーツなんて持ってないよ。今、お母さんに聞いたら、入学式どうするのって言われたよ。しくしく」

 聖愛は安心した。唯の愚かさ――自分も同じだったのだが――に心底安心した。

 仲間ができて気持ちを持ち直した聖愛は明日スーツを買いに行かないかと唯を誘った。

 唯は「いいよー」と明るい声で答えたが、一つ問題がある。聖愛たちはスーツなど買ったことがない。まあ、買ったことがあればこれほど困ってはいないのだけれど、とにかくスーツ選びに自信がないのだ。周子は無理なようなので、唯の親に頼めないか聞いたが、唯の親は明日から数日実家に帰るらしい。聖愛がどうしようかと悩んでいると、唯がある提案をしてきた。

「ねえねえ、はやにぃに付いてきてもらったらどうかな」

 聖愛は隼人はやとのことを忘れていた。いや忘れていなかったとしても隼人に頼むという選択肢を選ぶはずがない。

 たしかに聖愛から見ても隼人は服のセンスはあるほうだし、スーツも数着持っているようだった。だが、聖愛は隼人のようなダメな兄と一緒に買い物に行くなど、我慢ができないのだ。

「そうだ、お兄ちゃんじゃなくても早苗さなえちゃんがいるじゃない。女の子同士だし、そのほうがいいよ」

 聖愛はもう決めたというように唯に言った。唯は早苗に抱きしめられるところでも想像したのか、「あわわわわ」と震えた声を出している。周子がソファーに座って、とても大事なことを言った。

高垣たかがき家なら昨日から温泉旅行に行ってるわよ。羨ましいわー」

 万事休す。聖愛は泣きそうになった。

 そのとき話題に登った人物があくびをしながらリビングに入ってきた。

 隼人はそのままキッチンに行くと、牛乳をコップに入れて一気に飲み干した。そして盛大にゲップをした。

 ありえない。聖愛は改めて隼人と買い物に行くのはダメだと思った。

「隼人、あなた明日も暇でしょう。聖愛たちがスーツを買いに行くんだけど、付いていってくれない?」

 聖愛が何も言わないので、周子がため息をつきつつ、首だけをキッチンに向けて隼人に頼んだ。

「なんで、暇だって決まってるんだよ」

 隼人まで用事があるのかと聖愛は驚いた。年中お休み状態の隼人はめったに出かけることがない。なので、この間の大学でのモテっぷりはきっとまやかしに違いないと聖愛は思っている。

「じゃあ、何か用事でもあるの?」

 そう周子が確かめると、隼人はしばらく考えるようにして「……ないな」と短く答えた。聖愛は自分の驚きを返して欲しいと願った。そして、じっと電話口で聞いていた唯が「隼にぃキタァ!」と気合を入れていた。

「スーツか……」

 隼人はそう言うと、電話で誰かと話し始めた。

「うん……ちょっと店見に行こうと思ってるんだけど、うん……そう、明日いるんだな、了解」

 聖愛が隼人にも電話するような友達がいることに感心していると、隼人が意外なことを言った。

「ユニオンモールに知り合いがバイトしてる店があるんだ。たぶん安くしてもらえるから、俺が買ってやるよ。入学祝いだ」

 聖愛はおろか周子まで固まった。あの兄が、あの貧乏性の兄がスーツを買ってやるだって? 駄菓子屋に行くわけじゃないんだぞ。聖愛はそうツッコミたかった。

 隼人は何やら楽しそうに鼻歌を歌いながら、TVを見始めた。

「ねえねえ! 結局どうなったの?」

 ずっと黙っている聖愛にしびれを切らしたのか、唯が一人騒いでいた。


 次の日の十時、聖愛、唯、隼人の三人はユニオンモールに向かって電車に乗っていた。春の陽気と電車の揺れで聖愛は眠気を感じていた。というか、隼人と唯は爆睡している。今日、隼人は珍しく一人で起きてきて、スーツを買いに行くことも覚えていた。

 いつもそうだったら苦労しないのにと聖愛は思いながら隼人の横顔を見ていると、隼人は首をふらふらとしながら、聖愛の肩に顔が乗っかりそうになった。その瞬間、聖愛は隼人の足を思いっきり踏んだ。「うぎっ」と言いながら隼人は目を覚ましたが何が起こったのかわからないというように左右を見ている。聖愛は駅に着くまで寝たふりをした。

 

 ユニオンモールは大型商業施設である。様々な有名ブランドのテナントが入り、大型スーパーやおもちゃ屋、ゲームセンターからシネマホールまである。ここにくれば、何でも揃うというわけで、今日も大変な賑わいを見せていた。

 ――そっか、春休みか。

 聖愛は当たり前のことを思った。

 高校を卒業してしまって、まだ大学に入学していない聖愛たちは、とても中途半端な存在だなと思った。聖愛も唯もバイトはしていない。つまり、ニートである。Нетニェット! と叫びたいところだが、事実なので仕方ない。

 今日は久しぶりにユニオンモールに来たので、必要なものは全部揃えようと聖愛は気持ちを切り替えた。唯も久しぶりに来たのか、色んな店に目移りしている。

「ここだ」

 隼人が足を止めると、そこはフォーマル服の専門店のようだった。看板にはBelle Tailleurと書かれている。格好良い。だが読めない。聖愛が雰囲気に流されていると、店からスーツ姿の男性が出てきた。

「よう、来たな。期末テスト以来だから久しぶりじゃないか。どうせ毎日寝てばっかなんだろ、お前は」

 スーツの男性は隼人に向かって気軽に話しかけた。昨日の話からすると、この人が隼人の知り合いで、ここでバイトをしている人だろうか。聖愛はそう考えながらスーツの男性を観察した。背が高くて足も長い。細身のグレースーツがとても似合っていた。

「俺は毎日、夢の世界探訪をしているだけだ。そんなことより、この二人が美城大に今度入学するんだ。入学式に着ていくスーツをお前の隠された審美眼でズバっと解決してくれないか」

 隼人がスーツの男性にそう言うと、男性はパッと顔を輝かせて、聖愛と唯の方を見た。その顔は、目は切れ長で鼻は高く、髪型もおしゃれだった。はっきり言えばイケメンである。聖愛はイケメンに見とれてしまっていた。一方、唯は聖愛の後ろに隠れてしまった。

「いらっしゃいませ、お二人さん。俺はここのスタッフの一ノ瀬いちのせつばさだ。翼でいいぞ」

 聖愛は話しかけられて、あたふたしてしまった。唯にいたっては、完全に聖愛に任せるつもりのようだ。こんなに格好いい人、今まで見たことない。聖愛はそう心をときめかせていた。何も言わない二人が緊張していると思ったのか、翼は少し距離を置くと、また隼人の方を向いた。

「隼人、この二人もしかして音楽学部の子か? じゃあ、この二人のうち一人はお前の妹なのか?」

 聖愛はなんでこの人は私たちが音楽学部だと知っているのだろうと思った。

「一ノ瀬翼……一ノ瀬……一ノ瀬……? あっ――」

 聖愛が気づいたとわかったのか翼はにこにこと笑っている。

「もしかして悠貴ゆうきさんのご家族ですか?」

 よく見ると悠貴と似たところがある。何より二人とも格好が良い。聖愛はなるほどと納得した。悠貴の名前が出たからか、唯も顔を出して、翼を観察している。そんな様子を見て、翼はにこにこと笑って「弟だ」と言った。


 店先でじっとしていても仕方がないと思ったのか、翼は三人を店内へ案内した。

「入学式のスーツだったね。オーダーメイドはもう間に合わないから既成品だけど我慢してね。まあ、好みがなければそれほど考えることもないんだけれど、色は黒を基本としたほうがいいね。音楽学部ってことならビジネスよりフォーマルに重点を置いたスーツのほうがいいかな。こっちにあるから見てみなよ」

 聖愛と唯は言われるがまま、翼に付いていった。そこにはたくさんのスーツがハンガーにかけられていた。マネキンに着せられているものもある。あまりの数にどうすれば良いかわからずにいると、翼が一人の女性スタッフを連れてきた。

「まずは、採寸しないとね」

 なるほど、翼は男性なので聖愛たちに触れないように女性スタッフを呼んでくれたのだろう、結構紳士的だ。聖愛は翼に好印象を持った。まずは聖愛が測ってもらうことになった。

「バスト86と……」

 女性スタッフがそう言って専門の用紙に書き込んでいると、隼人が「ほう、結構あるな」とつぶやいた。そのつぶやきを聖愛は逃さず、反射的に隼人の腹に正拳突きを入れた。隼人は「ぬおっ……」と言いながら、腹を抑えてしゃがみこんで涙を流した。その様子に店内は静まり返った。

 ――やってしまった。

 聖愛はここが家ではないことを思い出し、恥ずかしくて赤くなった。少しの時間が経っただろうか、含み笑いが聞こえてきた。

「……くくくっ。隼人、お前妹に泣かされてやんの。あははっ、かっこわるー」

 翼は思いっきり笑いだした。女の子が男の腹をグーで殴ったのである。普通ならドン引きするところだ。実際女性スタッフは引いている。だが翼はたまらないというように笑い声を必死で抑えている。

 聖愛は面白いのは翼のほうだと思った。

 唯の採寸も終えて――隼人は店の外に出てもらった――デザインを選ぶことになった。

「そうだな、君たちは座って楽器を扱ったりするのかな? それならパンツスタイルをオススメするね」

 聖愛は自分たちは声楽専攻だと伝えた。

「へえ、じゃあドレスを着たりもするのかな。パーティドレスが必要になったら、是非、この店で頼んでくれないかい。オーダーメイドもしているよ。そうだ、これなんて就職活動にも使えるデザインなんだけどね……」

 よく喋る人だと聖愛は思った。アパレルのスタッフはそういうものかもしれないが、翼の言葉は爽やかで音の数が多くても嫌じゃない。本当にお客様のことを考えて話している。そういう雰囲気が翼からは感じられた。

 聖愛と唯は二人ともオーソドックスなパンツスタイルを選んだ。シャツで多少個性を出せるということで、それぞれ違うデザインのシャツを買った。翼が言うように声楽科の発表会などではドレスが必要になるかもしれないので、写真を見せてもらったりもした。

「翼先輩はいつから兄の友達なんですか?」

 買い物が終わって談笑をしているとき、聖愛は翼に聞いてみた。

「んー、友達じゃない、親友でもないな……そうだ、戦友だよ俺たちは。一緒の学校になったのは高校からだけどね、こいつ俺の姉貴が好きだとか言い出して、面白いやつだと思ったよ。姉貴を落とすための作戦を何度も一緒に考えたさ。結果は全敗だったけどな。あっはっは」

 早苗が言っていたとおり、隼人は悠貴に猛アタックしていたようだ。それが原因で友達になるというのも変わった話だと聖愛は思った。


 十二時を回った頃、唯の「お腹すいた」という言葉によって、ごはんを食べに行くことになった。かなり割引してくれた翼にお礼を言うと、翼はモール内に美味しいお店があると教えてくれた。

 翼が教えてくれたお店はイタリアン専門店で内装もお洒落でメニューも豊富、もちろん味も美味しくて、聖愛と唯は大満足だった。

 ――本当にいい人だな。

 聖愛は翼に惹かれつつあった。

「それにしても隼にぃに戦友がいたなんて、びっくりした! いっつも家にいるから、早苗さんしか友達いないのかと思ってた」

 ペペロンチーノをたいらげた唯が口を紙ナプキンで拭きながら言った。唯が言ったことに聖愛も賛同する。

「何が戦友だ。まだまだあいつに俺の背中は任せられない。いらないことまでべらべらと話おってからに、悪友で十分だ。」

 また悠貴さんの話を持ち出されたことを隼人なりに恥ずかしがっているようだ。

「だいたい、あいつだって早苗のことをおっかけてるんだ。いい勝負じゃないか」

 ――えっ。


 聖愛の遅い初恋はあっという間に終わりを迎えようとしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る