大学見学とモテる兄
卒業式から数日後、聖愛たちは大学見学の日を迎えた。
聖愛が最終手段を取ろうとしたとき、チャイムが鳴った。「はーい」と言いながら、聖愛はモニタ付きインターホンの通話ボタンを押した。モニタには昔なじみの姿が映っている。聖愛は「ちょっと待ってね」と言って、玄関のドアを開けた。
「こんにちは、聖愛ちゃん。ちょっと遅くなっちゃった」
ドアの前に
聖愛は、はて、早苗と何か約束をしていたかしらと思い出すために頭を働かせた。だが、いくら考えても思い出せない。
「あー、これはいつものパターンかな」
早苗はそう言ってため息をついた。早苗がため息をついたということは元凶は必ず隼人である。聖愛はダッシュで隼人の部屋に入ると、そのままの勢いでエルボーを腹に食らわせた。
「げふぅ!」
いつもより加速のついた妹エルボーを食らった隼人は体をくの字に曲げて呼吸困難に陥ったようだ。聖愛はとても気分がいい。そんな妹を涙目で見ながら隼人は必死に訴えた。
「おまっ……げふっ……今のは……げふっ……反則だ……げふっげふっ」
聖愛の中では単に兄を起こしただけである。反則も何もない。結果が全てだった。
それよりも早苗が来た理由を問いたださねばならないと聖愛は隼人ににじり寄った。
早苗は隣の家の幼馴染。隼人と同じ歳で幼稚園も小学校も中学校も高校も大学までもずっと二人は一緒だ。付き合っているのかと言われれば、そうではない。親友かと聞かれれば、もっと近い存在だと思う。
そんななんとも言えない距離感の二人を聖愛はもどかしく思っていた。
「お兄ちゃん、早苗ちゃんが来てるんだけど、何でかな」
聖愛は笑顔で言った。表情とは裏腹に言葉は冷たい。
なんとか呼吸を取り戻した隼人は何を言っているのだというような目で聖愛を見ていたが、理由に思い当たったのか、「おおっ」と言いながら手を叩いた。
「早苗にも大学の案内を頼んだんだよ」
聖愛はその情報を今まで知らなかった。隼人の脳みそはすでに痴呆が始まっているのではないかと心配になった。
聖愛が兄を不憫な目で見ていると、早苗が部屋に入ってきた。早苗も昔から家に遊びに来ていた仲である。玄関でずっと待っているなんてことは無いだろう。
早苗はお腹をさすっている隼人を見て、微笑んだ。
「隼人ちゃん、今日も聖愛ちゃんに起こしてもらえて幸せね」
早苗にそう言われると聖愛は少し照れくさくなった。隼人はまったく気にしていないようだ。
話し声が聞こえたのか、唯が部屋を覗き込んでいた。早苗は唯に気づくと顔を輝かせて、抱きついた。唯は目を白黒させている。
「唯ちゃん! ひさしぶりね。相変わらず可愛いわ」
「あわわわわわ」と言いながら唯はじたばたと暴れた。
ようやく、早苗から解放されると、唯は早苗から慌てて距離をとった。
唯も早苗もよく聖愛の家に遊びに来ているので、もちろん面識はある。早苗は初めて唯を見たとき、唯のかわいさに萌えてしまったのだ。それ以来、今のようなことがしょっちゅうあるため唯は早苗を苦手としているが、嫌っているわけではない。
「ねえ、まだ行かないの?」
大学見学の予定時刻はとっくに過ぎている。楽しみにしている唯がしびれを切らすのも当たり前だった。
聖愛は遅刻の元凶となっている隼人を見ると、隼人は頭をかきながらあくびをしている。隼人は全員から注目されているのを感じたのか、やっと立ち上がり、おもむろに着替えだした。聖愛と早苗は見飽きたというように平気な顔をしていたが、唯だけが真っ赤になって、目を手で覆っていた。
仕方ないので女子組は隼人の部屋から出て、隼人が着替え終わるのを待った。
しばらくすると、細身のビンテージジーンズに小綺麗な黒のジャケットを着た隼人が出てきた。
隼人は高校の男子と比べてもスタイルは悪くない。着飾れば見られないこともないし、馬子にも衣装だと聖愛はいつも思っている。
電車で三駅だけ先の
「わぁ、すっごく広いし、すっごく綺麗。まりあ氏、パンフレットより凄いねっ」
確かにパンフレットに載っていた写真よりたくさんの建物があるし、広く見えると聖愛も学内を眺めた。芝生は綺麗に揃えられており、道はレンガを敷き詰めたようで洒落ていた。
今日は休日であるのに、結構な人が歩いている。中にはモデルのような人から、かばんからポスターが突き出た人まで。
「ねえねえ、早苗ちゃん。なんで、休みなのにこんなに人がいるの?」
聖愛は隼人ではなく早苗に聞いた。そっちのほうがまともな答えが聞けると思ったからだ。唯も同じ疑問をもったのか、早苗の答えを待っているようだ。
「この大学には大きな図書館もあるし、カフェやレストラン、美容室まであるから休日でも利用する人が多いの」
早苗の言葉に聖愛と唯は顔を輝かせた。高校には図書室はあったけど、それほど広いわけではなかったし、食堂もなく、あっても購買ぐらいだった。カフェやレストランが敷地内にあるなんて夢のようである。
はしゃぐ二人を見て、早苗は笑顔で言った。
「お昼時だし、さっそくレストランに行ってみる?」
聖愛と唯は大きく首を縦に振った。
レストランはとても広く、雑誌に載っているようなお店と遜色ないほどで、たくさんの人で賑わっていた。
聖愛と唯が利用方法を早苗から聞いていると、ふいに後ろから声をかけられた。聖愛が振り返ると、おしゃれな格好をした女性たちがこちらを見ている。というより、隼人を見ている。
「隼人君も来てたんだ! よかったら一緒に食べない?」
どうやら、隼人の知り合いのようだが、聖愛は隼人が女の子に声をかけられているという事実にびっくりした。
隼人は聖愛から見てかなりのダメ人間である。成績はまあ悪くはないし、運動神経はちょこっと良かったらしいが、噂になるほどではない。それよりも、生活習慣と性格がとことんダメなのである。
女っ気だって早苗ぐらいしか聖愛には思い浮かばない。友達もちゃんといるのか心配していたぐらいだ。その隼人が女の子を前に笑顔で対応していた。はっきり言ってキモい。
「おっとすまないね君たち、今日は妹たちを案内してるんだ。こっちが妹の聖愛で、この子がその友達の唯。今年からウチに通うことになるから、頼んだぜ!」
隼人がそう言うと、女学生たちは目を輝かせて聖愛にずいっと近づいてきた。
「まりあちゃんって言うんだ。やっぱり隼人君の妹さんだけあって可愛い! 今年からよろしくね」
聖愛は状況を飲み込むことができなかった。隼人の妹だから可愛いという図式が描けなかったのである。つまり、この女学生たちは隼人を格好いいと言っているのだろうか。聖愛にとってはとても信じられないことだ。
聖愛がぼうっとしていると早苗が小声でさらに信じられないことを言った。
「隼人ちゃんってね、大学でかなりモテるのよ」
早苗の言葉に先に反応したのは唯だった。「そうなのっ?」とびっくりしたような声を出した後、恥ずかしくなったのか、しゅんとしたような顔をした。
女学生たちは隼人と談笑していたが、早苗を見ると少し緊張したような顔をした。
「高垣さんも一緒だったんだ。相変わらず仲がいいね」
女学生の言葉に少し棘があるように聖愛は感じた。隼人がモテるということは、この女学生たちも隼人のことが好きなのだろうか。そうだとしたら、一緒にいることが多い早苗のことを面白く思っていないかもしれない。聖愛はそう考えた。
少し雰囲気が重くなった。唯が心配そうな顔で見ている。
「俺じゃあまともに案内できるわけないからね。今日はすまん。今度、ぜひご一緒させてくれ」
隼人が手を合わせてそう言うと、女学生たちは慌てて「謝らなくていいよ、またね」と手を振って、席の方へ歩いて行った。
隼人の爽やかな対応に聖愛は開いた口が塞がらない。そんな馬鹿な馬鹿な馬鹿な……。
レストランで昼食を終えると、図書館や体育館など大学内の施設を周り、最後に音楽学部棟に向かった。その道すがらでも、たびたび隼人は女子学生に声をかけられていた。やれ、ノートをありがとうだの、映画を見に行こうだの隼人と仲良くなりたいオーラをまとった女子学生たちが次から次へと現れる。
「ね、ねえ、お兄ちゃんって……モテるの?」
聖愛は現実を信じることができず、震える声で隼人に疑問を直でぶつけた。隼人はしばらく考えるように唸って聖愛の方を向いた。
「なあ、聖愛。どうだったらモテるってことになるんだ。俺、あんまり考えたことなくてわからないな」
――なにこの余裕。聖愛は少し殺意を覚えた。
あれだけ女の子に話し掛けられて何も感じていないなんて、女の敵である。
早苗は隼人の返答を聞いてくすくすと笑っている。早苗は早苗で女子からの視線をまったく気にしていないようであった。
入試以来の音楽学部棟に着くと、またもや女性に話し掛けられた。しかし、今度は少し雰囲気が違う。
「ん? バカ隼人に早苗じゃないか。なんで音楽学部棟なんかにいるんだい。君たちは文学部だろう」
隼人と早苗に話し掛けた女性は背が高く、とてもスタイルが良い。少し切れ長の目がとても綺麗で、優しそうな顔をしている。
隼人は頭をかきながら、女性と目を合わせようとせずに「えー」とか「あー」とか言っている。はっきり言ってキモい。そんな隼人を見て、早苗はまた、くすくすと笑った。
「今日は隼人ちゃんの妹さんたちを案内しているんです」
早苗がそれだけ言うと、女性には伝わったのか「なるほど」と言って聖愛と唯を交互に見た。
「私は一ノ
突然現れた大先輩に聖愛は緊張を隠せなかった。
聖愛から見て、四歳上の悠貴はとても大人っぽく見えた。
隣の唯は、目を輝かせて悠貴のことを見ている。どうやら、一瞬にして憧れの対象になったようだ。
「私は
唯が勢いよく挨拶したので、聖愛は慌てた。
「
悠貴は二人の元気の良さを優しげな目で見ながら、「はい、よろしく」と短く答えた。
「音楽学部のことなら、私のほうが詳しいし、私が案内してあげよう」
悠貴の提案に聖愛と唯は喜んだ。見るだけだと思っていたのに、現役生に詳しく教えてもらえるのである。
早苗が「助かりますー」と言って、隼人の肩に手を乗せた。隼人はまだ悠貴の顔から目をそらしていたが、観念したように「よろしくお願いします」と頭を下げた。
その様子を聖愛は不思議に思ったが、悠貴が歩きだしたので後ろをついていった。
悠貴はまずは器楽科の部屋を聖愛たちに紹介した。かなりの数のレッスン室があり、各部屋に有名ブランドのグランドピアノが先生と生徒用に二台置いてあった。それを見た唯が「ブルジョアだ!」と叫んでいた。悠貴が弾くショパンの『夜想曲第二番』が部屋に響き渡る。
弦楽器やパーカッションのレッスン室でも悠貴が巧みな演奏を披露した。
声楽科のレッスン室はとても広くグランドピアノが一台置いてある。みんなが知っている歌をと、悠貴が高校の校歌を弾いたので、みんなで歌ってみたりもした。
ホールまでの道を歩いている途中、唯がもじもじしながら悠貴に質問をした。
「一ノ瀬先輩は何を専攻されていらっしゃるのですか?」
唯の言葉に悠貴は軽く笑った。
「悠貴でいいよ。それにそんなに畏まらなくてもいい。これから同じ学部棟で何度も顔を合わせるんだし、もっと気楽に行こうじゃないか」
悠貴の提案に唯は少し照れた様子で「はい、悠貴さん」と言った。
「私は作曲専攻だよ。まあ名前のとおり、作曲について勉強しているね。二人とも習うと思うけど音楽理論をより深く研究したりもする」
どうりで何でもできるわけだ。この人は何もかも格好いい。聖愛は音楽学部に通うのがより楽しみになった。
学部をある程度案内してもらった後、みんなで悠貴にお礼を言って音楽学部棟を後にした。
隼人は悠貴が案内している間、ずっと黙っていたが、悠貴と別れた後、「ふぅー」と一息ついた。聖愛は怪しいと思って隼人をじっと見つめた。
「ねえ、お兄ちゃんは悠貴さんと何かあったの?」
聖愛の言葉を聞いた途端、隼人はむせた。めちゃくちゃキョドッていて怪しさ満開である。早苗は「ふふふ」と笑ってとても楽しそうにしている。
隼人は「な、な、な、な、にゃにも」と言って、指であごを触った。聖愛はそれを見逃さなかった。
「お兄ちゃんは嘘をつくとき格好つけてあごを触るのよ。絶対何かあったんだ」
聖愛が隼人をさらに追い詰めると、唯が小声で質問した。
「
隼人は壮大に咳をした。汗がだらだらと流れている。早苗がもうたまらないというように大笑いした。
まさか本当にあんなに素敵な人と付き合っているんだろうか。悠貴は何か弱みを握られているのではないか。そう思った聖愛は犯罪者を見るような目で隼人を見た。
「あー、もうダメ。笑いが止まらないじゃない。ふふふ、知りたい?」
早苗の質問に聖愛と唯はこくこくと頷いた。
「えっとね、高校の時なんだけど――」
「早苗さん、ね、やめよ?」
慌てる隼人を制して早苗は続きを話しはじめた。
「もう隠すのは無理。高校の時にね……なんと隼人ちゃんは悠貴先輩に何度も告白したのよ」
早苗の言葉に聖愛は驚いて口が開いたままになってしまった。隣の唯も同じ様子だった。
あんな素敵な女性にウチのダメ兄が告白するなんて、死刑モノだと聖愛は思った。唯が焦った様子で「結果はどうだったんですか?」と聞いた。
隼人はますます慌て始めた。早苗は「玉砕」と短く答えた。聖愛はそれを聞いてなんとなく安心した。
大学見学はとても充実していた。
しかし、それよりも隼人がモテるという事実に聖愛は一番驚いていたのである。
それに隼人と悠貴の関係。隼人は今でも悠貴のことが好きなのだろうか。そんなことを聖愛は考えていた。
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