ダメ✕モテ お兄ちゃん(仮)
さくらねこ
ダメな兄と卒業式
ジリリッ! カチャッ!
目覚まし時計が鳴る間もなく
猫がたくさんプリントされたお気に入りのパジャマを脱いで、これまたお気に入りのピンクの下着姿になると、壁にかかっている服を手に取り、慣れた手付きで着替えを済ませた。
スカートをぱんぱんと叩くと聖愛はぽつりと言った。
「今日が最後だね」
「おはよう、ママ」
聖愛はリズミカルに階段を降りながら、キッチンにいる周子に聞こえるように朝の挨拶をした。周子は「おはよう」と短く返事しながら、フライパンを返した。キッチンから香ばしい匂いが伝わっていく。洗面所で顔を洗って歯磨きを済ますと、聖愛はダイニングに向かった。
「今日はパンケーキ?」
パンケーキは聖愛の大好物である。熱々のパンケーキにはちみつとメイプルシロップをかけて、バターを乗せるのがマリア流である。甘いその味を思い浮かべると聖愛は早くご飯が食べたくなって仕方がなかった。
「今日はいつもにもまして早いのね」
周子はそう言って火を消すと、パンケーキを皿に乗せてダイニングテーブルの上に置いた。テーブルの上にはすでにハムエッグとサラダの乗った皿が置いてある。まるで自分が起きてくるとわかっていたかのようなジャストタイミングに出来た朝ご飯を見て、「ママ、さすがだね」と偉そうに聖愛は言った。
聖愛にとって周子は家事全般を器用にこなし、ボイストレーナーという格好の良い仕事にも就いている自慢の母親だった。スタイルも良いし美人であるし、聖愛にとって言うことなしである。自分にもその遺伝子が伝わっているはずなのだけどもと聖愛は日頃から思っていた。
「早起きは今日までかもしれないよ。明日からは昼まで安眠できるんだもんね」
聖愛が席についてさっそくパンケーキにはちみつをかけながら言うと、周子はにっこりと笑った。
「お兄ちゃんみたいなこと言わないの。そんなこと言ってどうせ早朝に起きるに決まってるわ。」
周子の言葉に悪意を感じて聖愛は頬を膨らませた。
「お兄ちゃんと一緒にしないでよ。あんなのと比べられるなら明日からも早起きしますー。そのお兄様は今日もどうせ遅いんでしょ」
不機嫌な声と裏腹に美味しそうに味付けできたパンケーキを見て聖愛は顔を輝かせた。さっそく頂こうかというとき、リビングのほうから大きな音と声がした。
「痛っ! ん……朝か?」
ソファと机の隙間で仰向けにされた亀のような格好をしながら
「ねえ、ママ。お兄ちゃん、また夜中までゲームしてたの?」
「そんなの知らないわ。本人に聞いてちょうだい」
隼人は母親と妹にそんなことを言われていることも気にしていないようで、二度寝の態勢に入った。
それを見た聖愛はナイフとフォークを置いて、リビングに向かい、隼人を見下ろす位置までくると、隼人の腹を思いっきり踏んだ。「ぐへぇ!」と奇声をあげて、隼人は目玉が飛び出そうな勢いで大きく目を開いた。
「お兄ちゃん、せっかく起きたんだから朝ご飯ぐらい食べなよ」
聖愛はまだ隼人の腹に足を乗せている。隼人は「むにゃむにゃ」と何事かを言いながら、ちらっと聖愛のことを見た。
「今日はお気に入りのピンクか」
隼人の言葉の意図を理解した聖愛はもう一度隼人の腹を踏んだ。一回目よりもより強く、より深く。
隼人は声も出ないのか、腹を抑えてゴロゴロと転がって机に頭をぶつけたりしている。
聖愛は今日二回目のため息をついた。
隼人と聖愛は三歳違いの兄妹である。小学生ぐらいまでは仲良かった二人だが、中学、高校、大学と歳をとるにつれてダメ人間になっていく兄を聖愛は妹ながら情けなく思っていた。
「お兄ちゃん、せっかく起きたんだから朝ごはんぐらい食べろ」
命令形になった朝の挨拶を受けて、隼人はよれよれのTシャツの上からお腹をさすりながら、やっと起き上がった。それを見た周子はもう一つパンケーキを焼き始めた。
「今日も強烈な目覚ましをありがとう、我が妹よ」
我が妹などと呼ぶ兄は絶滅してしまえと聖愛は思った。それに毎日起こしているかのような言い回しも気に入らない。アホな兄は無視するに限ると思いながら、聖愛はテーブルに戻ろうとした。
「聖愛、今日は卒業式か」
ふいに隼人がそう言ったので、聖愛は足を止めた。聖愛は兄に卒業式のことを伝えた記憶がなかった。なので、まさか隼人が自分の卒業式の日を知っているとは思わなかったのである。
「なんで知ってるの?」
聖愛は素直に疑問をぶつけてみた。
「お前が少し寂しそうな顔をしているからだよ」
隼人のキザったらしい言葉が嫌だったが、そんなに寂しそうな顔をしていたのかと聖愛は不安になった。聖愛はたしかに卒業は寂しく感じていたが、そんな日だからこそ最高の日にしようと心に決めていた。
「嘘よ。隼人の卒業式と同じ日だから適当に言っただけよ。きっと」
周子が皿に焼きたてのパンケーキを置きながら言った。
――ムカつく。
聖愛は隼人への嫌悪感をレベルアップさせることにした。
隼人は「バレたか」と小声で言うと、ふらふらと朝食の乗ったテーブルに向かい、自分の席に座った。聖愛もパンケーキが冷める前にと急いで席についた。
「あれ、もう完璧じゃん、センキュー」
隼人はそう言って、パンケーキを食べた。
隼人の前にあるのは聖愛が味付けした冷めたパンケーキである。周子が気を利かせて皿を入れ替えたのであるが、そんなことお構いなしに隼人はパンケーキを食べ始めた。
隼人は聖愛と同じ食べ方が好きである。というよりも、聖愛が隼人の食べ方を真似しているのである。小学校の頃に教えてもらったパンケーキの食べ方を今でも実践している。他の食べ方も色々試してみたが、悔しいけど隼人の味付けが一番美味しかった。
聖愛はもう一度はちみつをパンケーキにかけながら兄に話しかけた。
「お兄ちゃんはまた今日も休講ですってパターンでしょ。留年しても知らないからね」
隼人はコーヒーを飲みながら、「やっぱりブラックだぜ」などと言っていて聖愛の言葉を聞いているのかわからない。聖愛は食事を続けることにした。無駄口を叩いていて卒業式に遅刻なんてことだけは絶対に避けたいと考えていた。
聖愛は大好きなパンケーキを砂糖とミルクたっぷりのカフェオレで流し込んで、食事を終えると、鞄から鏡と化粧道具を取り出した。聖愛も華の高校生。多少は化粧ぐらいする。最初は下手くそだった化粧も卒業を迎える頃には慣れたものだった。
化粧をし終わって、もう一度鏡でチェックしていると、パンケーキを食べ終えた隼人が言ってはいけないことを言った。
「お……いつもより濃いな。気合入ってんじゃん」
まったく、いつもイラつくことを平気で言う。
聖愛はもう一度、お腹へ打撃を加えてやろうかと思ったが、時間切れだ。隼人の顔を睨んで、玄関へ向かった。
背中から「いってら」と言う声が聞こえたが、聖愛は当たり前のように無視した。パンプスを履くとドアを開けて、春の日差しの中へ一歩踏み出した。
聖愛は学校へ行く途中、肩をぽんぽんと叩かれたので反対側を振り向いた。聖愛の予想どおり、同級生の唯が人差し指を伸ばして待っていた。もう絶滅危惧種に認定されているいたずらを避けられて、唯は残念そうな顔をした。
「まりあ氏ったら連れないんだから」
いつも付き合ってあげている身にもなって欲しいと聖愛は思った。
唯は小学校からの聖愛の友達である。聖愛にとっては、性格から行動まで全部お見通しと言ってもいい。唯はいたずら好きのくせにM属性という変わった性格をしている。隼人がいつも主張しているSM相対性理論によれば、グループの中でよりS度の高い人がSになり、よりS度の低い人がMとなるらしいが、聖愛の前で唯はいつもMだった。付け加えるとドMな隼人の前でもMだった。
「おはろ」
「おっはろー」
いつもの朝昼兼用の挨拶を済ませると、唯は笑顔に戻った。
唯は女子男子どちらから見ても、とても可愛い外見をしている。小さな顔にぱっちりお目々、ショートカットがとても似合っていている。胸は少し小さいが、ほどよい大きさのおしりにほどよい太さの足を持つ美少女である。だというのに年齢=彼氏いない歴という聖愛と同じ種族であった。
「ねえねえ、今日は
唯はそう言いながら聖愛の顔を覗き込んだ。
バカ兄の話題を出されて聖愛は不愉快になったが、これは定番の話題である。唯は隼人の寝起き事情を毎日聞くのだ。それほど、隼人は朝起きているのが稀だということだ。
「ソファから落ちて夢見心地だったみたいだよ」
聖愛は少し話を盛って答えると、唯は「ばっかだー」と嬉しそうに笑った。
唯は昔から家に何度も遊びに来ているので隼人と面識がある。面識があるどころか、一緒にゲームをして勝った負けたと言い合っている仲であった。はっきり言って兄妹である聖愛より隼人と仲が良い。
「今日は殺人未遂の罪を犯さなかったの?」
これも定番の話題である。隼人は寝起きが超絶に悪いので、聖愛は起こすのにかなり苦労していた。色々な起こし方をするが、どうしても起きないときは最終手段として『暴力』という道具を使う。人から見える場所は恥ずかしいので、たいてい腹をエルボーか踵落としで狙う。悶絶する隼人を見ると聖愛は少し気分がいい。
「今日はお腹を二回踏んでやったわ」
聖愛はパンツを見られたことは省略して言った。
「げろげろー」と言いながら、唯は目をつむって、お腹を抑えた。そして、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「今年から私たちも隼にぃと同じ大学に行くんだから、隼にぃには先輩としてしっかりしてもらわないとね」
唯が言うとおり、聖愛と唯は新年度から隼人と同じ美城大学に進学する。
別に隼人がいるから選んだわけではない。家から近く、広くて綺麗な大学で聖愛と唯が専攻したい音楽学部があるからである。
聖愛が音楽学部を志望したのは周子の影響が大きい。唯は聖愛が音楽学部を志望すると言ったら、「私もそうする」と乗っかってきた。二人とも小さい頃からピアノを習い、高校ではコーラス部に所属しているので、そういう進路をとってもおかしくない。
学校の校門には大きく『卒業式』と書いた看板が置かれていた。そこを通り抜ける生徒たちは少しそわそわしているように見える。
卒業式が始まる少し前に体育館前に移動した。体育館内にはすでに在校生が座っているであろう。入場を前に聖愛は少し緊張した。そんな聖愛の脇を唯がつっついた。
「きゃっ!」
クラスメイトが聖愛に注目した。聖愛は何でもないよと手を振って、後ろにいる唯を捕まえた。唯は何が嬉しいのか笑いを必死でこらえているようだった。まったく唯のいたずら癖は卒業式を迎えても治らないらしいと聖愛はため息をついた。
「ねえねえ、隼にぃに大学を案内してもらう約束どうなってる?」
唯が言っているのは四月から通う美城大学を隼人に案内してもらうという提案のことだ。聖愛は別にいらないと言ったが、唯がどうしてもと頼むので仕方なく兄にお願いをした。
隼人は話を聞くと、「いいよ」と即答した。滅多にない妹からお願いが嬉しかったのかもしれない。
「お兄ちゃんなら、別に構わないって言ってた。むしろ、案内させてくださいと心の声が聞こえたような気がする」
唯はそれを聞くと、とても喜んだ。
どうせ四月から通う大学なのに、なんで案内がそんなに楽しみなのか聖愛はわからなかった。
そんな無駄なようで大事な時間を過ごしていると、入場の時間になった。
壮大なクラシック音楽とともに在校生の間を歩いていく。私語を発している人は全くいない。自分の席の前に立つと「礼」と司会進行の先生が声を発した。
――体育館ってこんなに広かったんだ。
そう思えるほど、体育館内は人で溢れていた。席に座るとあっという間に式は進んでいく。
「卒業証書授与、卒業生代表、
司会進行の先生がそう言うと、少し間が空いて「……はい」と眠そうな声が体育館に響いた。
卒業証書を代表して受け取るのは学校で一番成績が良かった生徒である。つまり、今壇上に上がろうとしている布団から今起き上がりましたというような雰囲気をまとった眼鏡少女が学年トップの成績を収めたということだ。
聖愛は杏をじっと見つめた。
杏は秀才にもかかわらず、聖愛たちと同じ美城大学に進学することが決まっている。杏曰く「近いから」という理由らしいが、三年間で同じクラスになったことがない聖愛には本心はわからない。
杏が証書を授与されると拍手が起こった。
卒業式を無事終えると、中庭は写真撮影でごった返していた。庭の隅では告白大会も行われているようだ。
終わってしまったなと聖愛は思った。そして、新生活がまた始まる。聖愛は校舎に向かって言った。
「ありがとう、さようなら」
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