ある一夜の出来事
豊原森人
ある一夜の出来事
部屋の電気が消えているのを、閉じた瞼の裏で感じ取った瞬間、私は、自分の失策を恥じずにはいられませんでした。夕菜はもうすでに、布団に入って、ふう、と息をつきながらまどろんでいることでしょう。
私と夕菜にとっては、恋人になってから、はじめての二人旅――それも、静かで、穏やかな温泉旅館でのひとときなので、この夜ばかりは、窓から零れる満天の月明かりの中で、彼女に抱かれ、その肌の温もりを感じたいと願っていました。
ちょっと切れ長で鋭い、でもとても穏やかで優しく、明るい夕菜が、いったいどういう風に、私のはじめてを、リードしてくれるのでしょう。
この一年そんなムードが生まれつつ、ついに一度も身体を重ねることが無かったので、私はついこの旅行中、そんなことばかり考えては、ひとり顔を静かに赤らめ、悶えてしまうのです。
すべては、夕食もお風呂もすませ、すでに二人分敷かれた布団の上で、とりとめの無い会話をしつつ、夕菜がふと、飲み物を買いに行った僅かな時間が、いけなかったのです。私は不意に、一瞬の睡魔に差し込まれ、何となく目を閉じている、という体で、まどろんでしまいました。そして寝しなの状態で、夕菜の、どこか苦笑めいた吐息が聞こえたかと思った瞬間、部屋の明かりはパチンと落とされ、そしてそのまま、彼女は眠ってしまったようでした。
私はその後すぐと、目を開き、起き抜けのボンヤリ頭で状況を整理し、そして、なんと惜しいことをしてしまったのだろうと、うっかり眠りの世界に誘われてしまった後悔に人知れず頭を抱えました。こうなると、とてもそんな桃色ムードが生まれるわけはなく――しかし私は、エサをおあずけされた子犬のような心持で、ただ悶々とした心中の劣情を抱えたまま、輾転反側するよりありません。
どこか未練がましい思いが十分に残っているせいか、とても寝付けないまま、寝息に似た、規則的な呼吸でもって、無理に睡魔を生み出すしかないのです……
ああ、やってしまった!
長い睫毛を閉じ、眠ってしまっている八重子を見た瞬間、アタシはそう心の中で悲鳴をあげながら――それでも、彼女を起こしてしまうのは悪いので、すぐに電気を消すと、布団に潜りこんだ。
無事に高校卒業したこと、そして付き合い始めてもうすぐ一年、という節目になることから、色々お互い節約したりバイトしたりしてコツコツ貯めたいくらかのお金で、人生初の二人旅――それも、都会のケンソーとか、そういうのとは全く無縁な、のんびりした山間の温泉街にて、記念旅行をすることにしたのだ。
温泉旅館で一泊。しかも恋人同士、布団も隣同士なので、アタシは正直に言って、この夜は、いろいろな意味で忘れられない一夜になるだろうと踏んでいた。
何といっても、八重子とは、まだキスまでの関係。古い言い方をすれば、まだBにさえ行っていない体たらくなので、あの桜色の、薄い唇から、アタシの名を呼び、ぱちっとした瞳に涙を浮かべながら、月光の元、快感に身を委ねている彼女の姿を想像しただけで、気色の悪いニヤケが抑えられなくなってしまう。
そんな想像上の光景とは、この旅行でもって決別だ! という確固たる意思の元、もちろん八重子をしっかりリードすべく、事前に色々インターネットで調べ、脳内にて予行練習のようなものも重ねていたアタシは、ふと、眠る前のちょっとしたパジャマトークの中で、“飲み物を用意しておき、事後に渡してあげると好感度アップ!”というフレーズを思い出し、今のうちに、スポーツドリンクのようなものを用意しておこうと、まだ開いていた、旅館内の売店に買い求めて行ったのが、間違いだった。
思えば今日だって、電車やらバスやらの移動は疲れただろうし、そりゃ、眠くもなるよね、と、布団の中で考えながら、アタシは後ろ髪を引かれる思いで、ぎゅっと目をつぶる。いくらなんでも、眠っているところにナニを仕掛けるのは間違いなくフェアでないし、かといって、すでに寝息を立てている彼女を無理に起こし、アレをしようと提案するなんてのは、もってのほかだ。
ただ、やはり湧き上がるピンクな思いは、消えるどころかむやみに増殖する一方で、どうにも眠れそうに無かったから、アタシはもう、半ばヤケな気持ちのまま、部屋が暗くなってからきっかり二十分ほど経った頃にガバッと上半身だけ起き上がると、ずりずり、八重子のもとへ這って行く。
どうせ彼女は、ぐっすりオネムだろう。それなら、これくらいは……
ひどく満ち足りない気持ちのままで、十数分か経った頃でした。
突然、ゴソ、と夕菜が起き上がる音が聞こえました。この時私は、夕菜との性的な交わり――彼女との熱烈なまぐわいへの思いを断ち切る意味を込めて、寝返りを打ち、彼女に背を向けた状態で目を閉じ、睡魔を必死に呼び起こしていました。
ところが、ここで予想だにしなかったのは、ゴソゴソと、布団を引き摺るような音が聞こえたと思うと、私の羽毛布団に、何かがしがみつくような感覚を覚えました。
夕菜が、布団ごと私の元へ這って行き――そして私の身体を、布団ごと抱いている!
この行動が、私と同じく、情欲を募らせた彼女の、苦し紛れで不器用な、一種の愛情表現なのでしょうか。
そう一人合点した私でしたが、それをどうにも事実だと信じたくなるほどに、募りに募った彼女への愛情が溢れ、止まらない状態でした。
気づけば私は、寝返りを打って、彼女のほうに向き直って……
ふかふかの布団ごと八重子を抱いてみても、あくまでそれは、八重子を包んでいる布団を掴んでいる、というような状態で、最初に思い描いていた、八重子の体温とか、温もりを感じながらの睡眠なんて、とても取れそうに無かった。無機質な布団の向こうで眠っているであろう彼女の姿を見ると、バルコニーで隔たれたロミオとジュリエットのような連想を起こしてしまい、何とも言えない切なさのまま、アタシは自分の布団に戻ろうと考えていた。
そんな矢先、八重子が突然、モゾモゾとこちら側に寝返りを打ってきて――その黒々しい目が、ぱっちり見開かれているのを見た瞬間、
「あっ、起こしちゃった」
悪いことをしてしまった、という気持ちから、咄嗟にそんな言葉が口をついてきたけど、八重子はひどく悪戯っぽい笑みを浮かべて……
「ううん。ずっと起きてた」
私は、ひどくバツが悪いというか、何か恥ずかしくてたまりませんでした。
ただ、その瞳は、アタシに対して、何か期待するような情が、部屋の窓から零れる月光といっしょに、ゆらゆらと揺れていて……
その燃えるような目を見た私は、内なる愛を、とにかく夕菜に伝えたくて……
思い切って、八重子の唇を奪い去った。
それからの私たちの秘め事は、あの月明かりだけが知っていることでしょう。
ある一夜の出来事 豊原森人 @shintou1920
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