隣の映画好き
深草みどり
隣の映画好き
午後七時五十分。俺、増田和幸(ましたかずゆき)は自宅のリビングで高校の課題をしていた。家には俺一人。映画関係の仕事をしている父親は出張中。母親は小学生の頃に離婚したし、他に兄弟もいない。でも孤独を感じることはなかった。
とんとん、と誰かがリビングのガラス戸をノックした。カーテンの向こうに人影がある。いつものあいつが来たのだ。
ガラス戸に近づいてカーテンを開けると、スウェット姿の女の子が庭に立っていた。隣に住んでいる女子高生、小栗和子(おぐりわこ)だ。小柄で少し幼さが残る顔立ち、学校ではまとめている髪を解いている姿が何ともかわいい。俺がガラス戸の鍵を開けると、ワコが勢いよく挨拶をしてきた。
「こんばんは! 今日もお世話になります」
ワコは俺の許可を待たずにリビングに上がる。風呂上がりなのかシャンプーの香りがした。
「今日の映画、もう選びました?」
「まだだけど」
「じゃあ、私が選びますね」
ワコはフローリングの上を裸足で歩きながらリビングの一角に移動した。そこには俺の父親が集めた千本以上の映画のDVDが並んでいる。ワコはタイトルを見ながら今日の一本を選び始めた。
単なる近所の人だったワコは、同じ高校に通うようになってから頻繁に俺の家に遊びに来るようになった。だいたい平日の夜八時ごろ、お互いの両親がいない日に遊びに来る。そして俺たちは映画を見て、それからある遊びをしていた。
「この前のタイタニックは痛かったですね」
「ワコが動くからバランスを崩してソファから落ちたんだろ?」
「カズ君さんが私のお腹をいやらしく撫でるから。セクハラですよ?」
「そういうシーンなんだよ! ヒロインの腰を抑えて、わー飛んでるみたいっていわせるシーンなの」
「本当は私の体に触りたかっただけなんじゃないんですか?」
図星だったが俺は咳払いでごまかした。
「違う。あれは二十世紀を代表する名シーンなんだ。演技をするなら一度はやっておくべきって……親父がいっていた、気がする」
「はい、はい。そういうことにしてあげます」
俺とワコの遊び、それは映画を見終わった後に印象的なシーンを二人で再現することだった。名目としては、高校で演劇部に入ったワコの練習ということになっている。だが本当のところワコが何を考えているのかは俺にはよくわからない。
五分ほど悩んで、ワコはある映画を選んだ。ケースからDVDを取り出すとリビングの大型の液晶テレビにつながったプレイヤーにディスクを入れ、それからリモコンをもってソファに移動した。
ワコは三人掛けのソファの右端に座り、俺は左端に腰掛ける。恋人でも兄妹でもないので当然だが、俺たちの間には一人分の距離がある。いつか並んで座りたいもんだ。
「それじゃ、始めるよ?」
ワコがリモコンの再生ボタンを押すと、映画の再生が始まりタイトルが表示された。
「『僕のワンダフル・ライフ』?」
「犬好きの先生が勧めてくれたんです。犬がかわいくて、あと昔の有名な映画に出ていた役者も出ているとか」
映画は転生を繰り返す犬の話だった。転生する度に新しい飼い主との素敵な生活が始まる。なるほど、だから「ワン」ダフル・ライフか。
映画は順調に進み、主人公の犬が最初の飼い主の男性と再会して物語は終わった。心がほっこりするいい映画だ。ワコも少し涙ぐみながらクッションを抱いて満足そうにソファに寄りかかっている。
「はあ、いい映画でしたね! 結婚式のシーンとかすごいグッときました。カズ君さんはどこがよかったですか?」
「ベタだけど最後のボールをキャッチするシーンかな」
そんな風に一通り映画の感想をしばらく語りあったあと、ワコはソファから身を起こし楽しそうに俺の方に視線を向けた。
「では、カズ君さん、今日の再現シーンはどこにします?」
再現にはルールがあった。基本的に過度な接触は禁止。濡れ場はダメで『タイタニック』の船首で主人公が女性を支えるシーンくらいならオッケー。セリフも十八禁でなければオッケー。ワコは演劇部で役者をしているので「愛している」とか「大好きだ」といった恥ずかしいセリフを躊躇なくいう。一方の俺は、ただの帰宅部なので体力も演技力もなくいつもたじたじだ。
「先輩、選びましたか?」
ワコはソファから立ち上がるとリビングの中央に歩いていき、芝居掛かった動作で両手を広げた。まさに舞台に上がった役者だ。
俺は下心満載で少しでもワコと接触できるシーンを選びたかったが、生憎と犬と人間の友情を描いた作品なので人間同士のシーンは控えめだった。何とかいい場面はないか。俺は必死に記憶を辿り、あるシーンにたどり着いた。
「……やっぱり最後のシーンだな。主人公が前かがみになって、その背中を踏み台に犬がジャンプしてボールをキャッチするシーン」
「何、私を踏みたいんですか? DVですか?」
軽蔑した表情を向けられ、俺は慌てて両手を振って否定する。
「逆だよ。逆。俺が屈むから、ワコが俺を踏み台にジャンプしてほしいんだ」
「本気ですか?」
「俺は真面目で本気だ。ワコは今まで人間以外の演技ってしたことなかっただろ。犬の真似もいい練習になると思うんだ」
もちろんデタラメだ。俺は演劇のえの字も知らない。
「……家の中で? ここで飛んだり跳ねたりするの?」
「外があるじゃないか。俺の家の庭は広いぞ!」
俺はワコの気が変わらない内に、ソファの上にあったクッションを一つ手に取り庭につづくガラス戸を開けた。
「私、カズ君さんとのお付き合いを考え直すべきかもしれません……」
「さあ、行くぞ!」
俺が洗濯物を干す時に使っているサンダルを履いて外にでると、ワコもしぶしぶついてきた。季節はまだ四月の終わりで、外の風はほんのりと肌寒かったが俺の心は暴走する蒸気機関車のボイラーのように燃え上がっていた。俺は庭の中央に立ち、少し離れたところにワコを立たせる。
「よし、俺はクッションを上に投げてすぐ四つん這いになるから、ワコは俺の背中を踏み台にして空中でクッションをキャッチする。いいな」
「本当にやるんですか?」
「もちろんだ」
年下の女の子に踏まえる、なぜかワクワクが止まらない。
「カズ君さんがいいならいいけど。まあ、じゃあ、始めましょうか」
ワコはサンダルを脱いで裸足になる。目を瞑り意識を集中させ、突然陸上のクラウチングスタートのような姿勢で犬のまねを始めた。
「ワン(準備できたよ)! ワンワン(いつでもいける)!」
さすが演劇部だ。切り替えがはやい。ボール遊びを待ちきれない犬が尻尾を振っているような錯覚に陥る。ちくしょう、めっちゃ可愛い。
「よし、ワコ、取ってこい!」
俺はクッションを空高く放り投げると素早くその場で四つん這いになった。服が土で汚れるが気にしない。ワコに踏まれるためなら泥にだって口づけできる。
「わん!」
ワコは二本足でダッシュし助走をつけると右足で思いっきり俺の背中を踏みつけジャンプしクッションに向けて手を伸ばした。俺の背中に小さくて温かな足が押し付けられる。程よい強さのその感触に俺はちょっぴり嬉しくなった。
ワコが着地する音がして頭を上げると、地面に立つワコと、少し離れたところに落ちたクッションがあった。
「失敗か?」
「カズ君さんの投げたコースが悪かったんですよ。真上じゃなくて斜め前くらいに投げてください」
「わかった。もう一回チャレンジだ」
それから、俺は何度もクッションを投げ、何度もワコに踏まれた。
「もっと上に、高さを出してください」「背中はまっすぐ。踏み切り板になったと思ってください」「だからタイミングが合わないんだってば」、そんなことを繰り返し、俺が四十七回ワコに踏まれた時、ついにクッションの空中キャッチに成功した。
「やった!」
ワコの喜びの声がした。俺は成功ついでに手でも握れればいいなと思い顔を上げた時、家のリビングのガラス戸が開いた。
「お前たち、こんな夜中に外で何をしている?」
そこに俺の親父がいた。スーツ姿のまま、理解できないといった表情で地面に四つん這いになっている俺と、裸足でクッションを持っているワコを見ている。
「お、親父。これはだな」
「おじさんこんばんは。これは劇の練習です。こんど私がやる場面の練習をカズ君さんに手伝ってもらってるんです」
「ん、そうなのか?」
「そうなんです」
ワコが笑顔で断言すると、親父はあっさりと納得した。映画の撮影に関わりすぎて感性がおかしくなっているらしい。
「練習熱心なのはいいが、ほどほどにな」
そういうと親父はリビング奥に消えた。カーテンが閉められたのを確認した後、俺とワコは顔を見合わせた。
「びっくりしたましたね」
「マジで。親父がかえってくるのは明日のはずだったんだけどな。油断していた」
「今度は気をつけましょうね」
今度という単語に俺はドキッとしてしまう。
「カズ君さんを散々踏みつけるのは楽しかったけど、次はもう少し演技ができるシーンにしましょう。今日の映画なら、」
そうワコは言葉を切った。
「パッケージのシーンでもよかったんですよ? それじゃあ、おやすみなさい」
ワコはそういうと、ぱっと踵を巡らせて自分の家に駆けて行った。俺はワコが自分の家に入ったのを確認すると、膝についた土を落としてから家に戻った。父親はシャワーを浴びにでもいったのかリビングに姿はない。
俺は今日見た映画を片付けようと空にケースを手に取った。そこには主人公の犬と飼い主の少年が芝生の上で並んで寝そべっているシーンを背景に映画のタイトルが書かれていた。
「パッケージのシーンってこれか……先にいってほしかったな」
次はどんな映画をワコと見ようか、俺は夢見心地で映画のDVDを棚に戻した。
隣の映画好き 深草みどり @Fukakusa_Midori
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