第8話 独身・・・

ボクが自分の恋を自覚してから数日後、新しい月に変わる。

そして月が変わって早々に弁護士から連絡が入っていた。どうやら離婚の調停がうまくいったようだ。この時からボクは晴れて独身となったのである。

甲子園デートは独身になって初めてのトライアルとなる。約束は阪神梅田駅中央改札前午後六時三十分。

ボクは会社の仕事を早めに終えると、早足で待ち合わせ場所へ向かっていた。ミホは以外にも早めに到着しており、今や今かとボクの到着を待ちわびていた。

やがて姿を見せるボクの姿を見つけて手を振ってみせる。

「おーい、ここやで。」

「早かったなあ、めっちゃ待った?」

「ええねん。今日はミホ暇やったし、買い物とかもちょっとして来たし。」

ミホの右手には小さな買い物袋が握られている。

「邪魔になりそうやからコインロッカーにでも入れておく?」

「ううん、大丈夫や。それよりも甲子園でなんか買うたら、この袋に入れられるし。」

この日の試合開始時間は午後六時三十分。試合はすでに始まっている。急いで電車に乗って甲子園を目指す二人。

「今日は阪神とどこの試合?」

少し興味深げに尋ねる。

「阪神対中日や。ボクはどっちのファンでもないからどっちも応戦せえへんで。その代わり、純粋に野球見られるし。ミホは阪神ファン?」

「ううん、あんまり詳しくないねん。シンちゃんはどこのファンなん?」

「ボクは昔の阪急ファン。今は特にこだわって見てないわ。そうやな、しいて言うならミホのファンかな。」

「うふふ、ミホは野球チームちゃうし。」

そんな会話を電車の中でしながらも、もちろん手をつないでいる。そして思い出したかのようにミホに話し始める。

「こんな所で言うことちゃうかもしれんけど、ボクの離婚が成立して、無事に独身になったで。もう不倫なこと無いから安心してな。」

ミホは困ったような顔をして首をかしげながら、

「何を安心するん?逆にシンちゃんが危険人物になるってことちゃうん。」

言われてみればそうかもしれない。ボクにとっての不倫と言う外壁がなくなったことにより、ミホにとっては警戒しなければならない要因が増えたに過ぎない。

「そうか、気づかんかった。でも今までと変わりない付き合いでええで。店にもちゃんと行ったげる。」

「でも少しドキドキすんねんなこれからは。」

そんなセリフを言われて逆にドキドキするのはボクの方だ。

「大丈夫や。今日も無事に帰してあげるさかい。普通に野球を楽しみに行こ。」

「そう言いながら、ミホの手を握ってるのはなんで?」

「アカン?イヤ?」

「別にええで。なんやったらもっとくっついてあげよか?」

「電車の中やから、それは遠慮しとくわ。今度またお店でな。」

「うふふ、シンちゃん照れたらカワイイな。」

確かに照れくさい。握っている手がドンドン汗ばんでくるのがわかる。ボクの手のひらは犬の鼻のようにいつも濡れている。ちょっと緊張しだすとボクの手のひらはさらに洪水を起こしたかのように汗があふれ出す。

「ちょっとドキドキしたから、手のひらがビチョビチョになってしまうわ。」

ボクはポッケからハンケチをだして、手のひらを拭う。

「えらいなシンちゃん。男の人でハンケチ持ってる人あんまりおらんで。」

「そんなことないやろ、みんな持ってるんちゃうん。」

「ミホの会社の男の人、みんなトイレの後は手も洗わんと出てきてるか、ペッペッてしたはるで。シンちゃん店でもトイレの後、自分のハンケチで拭いてたの見たことあるし。女の人は清潔な男の人が好きやねんで。そんなところに惹かれんねんで。」

ボクは子供のころからハンケチをずっと携帯している。母親の教育が良かったのだろう、それについては確かに他の女性からも示唆されたことがあった。

「良かった、安心してもらって。」

「それとこれとは別やで。今日からは危険人物なんやで、シンちゃんは。」

そんな会話を交わしているうちに駅に到着する。すでに試合は始まっているが、今から突撃する人も少なくない。おそらくは仕事終わりの人たちがなだれ込むタイミングが今頃なのだろう。人込みの中をしっかりと手をつなぎながら改札を出て、いざ甲子園へ向かう。

すでに優勝チームも決まっており、半ば消化試合的な意味合いも含んでいる時期となっているため、この時間帯でも内野席がとれた。

イニングはすでに三回表。中日の攻撃が始まるところだった。

「まずはビールかな。それとフライドチキン。シートにつく前にビールセットだけは確保して行こう。次の売り子さんがいつ来るかわからんし。」

スタンドに寄ってビールを両手に、ミホがチキンとポテトを抱えてボクの後からついてくる。少し外野寄りの三塁側だが。それでも周囲の客はほとんど阪神ファンだった。それが甲子園なのである。

しかし、流石に十月にもなると少し心地よい風が吹いている。いわゆるハマ風と呼ばれているやつか。

「やっぱり涼しいな、十月やし。ビールではちょっと寒いかもよ。」

「大丈夫やで。上に羽織るもん持ってきてるし。それに寒なったらシンちゃんが抱いてくれたらええねやろ。」

「こらこら、今日から危険人物になる男にそんなこと言うたらアカン。」

野球観戦もさることながら、ミホとの会話も楽しまなければデートの意味がない。

「とりあえず手えつなぎながら野球見よか。」

「ええ?デートみたいやん。」

「ええ?デートちゃうの?」

「うふふ、そうやな。デートやな。」

ミホよりは少し野球に詳しいボクは、それぞれの場面においての簡単な解説をするとともに、ルールなどについても必要に応じて説明した。試合はシーソーゲームの末、阪神の逆転勝ちで沸きあがる歓声が球場全体を弾けさせた。

「ルールとかはわからんけど、ライブ感があってええなあ。また連れて来てな。」

「今度はドーム球場にしよか。ほんなら雨が降っても傘はいらんし。」

今宵も雨が降ったわけではなかったが、野球観戦をしていて雨に降られるのはたまらないからね。

今夜の試合終了時間は、白熱したシーソーゲームのおかげで午後九時三十分を回っていた。木曜日という平日でもあり、あまり遅くまで彼女を拘束するには憚れる時間帯に届こうとしている。

「めっちゃ遅くなったな。梅田までは送ってあげるな。」

「うふふ、また手をつないでやろ?」

なんていうほどロマンチックな帰路にはならない。白熱したままの熱狂的な虎ファンたちが梅田行きの電車にわんさか乗り込んでくる。途中で帰るファンがいなかったこともあり、駅の改札口はもみくちゃ状態だ。

「どうする?この猛烈な混雑に突入する?それとももう少し人がいなくなるまで待つ?」

「どっか喫茶店とかあるかな。マクドでもええで。こんなぎょうさんな人だかりの中に突っ込んで行くのはちょっと嫌かな。」

駅前なので、ちょっとした飲食店ならいくらでもありそうだ。但し、のんべ専用の店が多いとは思うけどね。

そう言いながらも駅の裏路地で手頃な喫茶店が見つかったので入ってみる。昔ながらの雰囲気を醸し出す感じのいい店だ。昭和生まれのボクにとっては何だか懐かしい趣でもある。

二人で向かいの席でホットコーヒー。ビールを何杯かお代わりした後の体に一息入れるにはいい頃合のカフェインだ。

「ボクが学生やったころは、喫茶店といえばみんなこんな雰囲気やったなあ。テレビゲームとかが置いてあって、みんな夢中になってたなあ。」

「シンちゃんもゲームしてたん?」

「ボクはあんまりせんかったなあ。ゲームよりも読書に夢中やったし。」

「ホンマに?何の本読んでたん?」

「エロ本に決まってるやん。」

一瞬、キョトンとした表情を見せたミホ。でもすぐにニッコリ笑って、

「ホンマは何の本読んでたん?ミホに教えて。」

「ホンマはな、シャーロックホームズの本ばっかり読んでてん。何回も何べんも。」

「へえ、でもそれって誰?」

今の若い人たちはもう知らないんだろうな。あの有名な映画があったことも。そう思いながボクとミホとの年齢差と生きてきた時代背景の違いを思い知らされる。

「ところで、お腹すいてない?ここも軽食ぐらいならあるかも。」

甲子園ではビールを飲みながらチキンやポテトをつまんでいたし、折角だからとカレーもシェアして食べたけど。

「全然平気やで。それに夜はあんまり食べん方がいいし。」

「それもそやな。」

少し薄暗い証明の店内で見るミホの顔は、いつもの店で見る顔の状態に近い。だからボクは少なからずエッチな雰囲気に誘われてしまう。

「なんか『エロナイ』の雰囲気に似てない?隣に座りたい気がしてきたんやけど。」

「アカンで、ここはあのお店やないから。次はいつ来てくれるん?」

「そやな。ミホがブログを書いたときかな。」

筆不精のミホにブログの更新をしてもらうのも一苦労である。更新が多くなったところでボクの懐具合や人気客ランキングが良好になるわけでもないけどね。

小一時間が経過する頃、時計の針は午後十時三十分を示そうとしていた。

「そろそろ行かへん?もう人だかりも少しは解消してると思うし。」

「うん。」

ボクたちはボチボチ人波が減った駅に向かい、それでもまだ空いているとは言い難い電車に乗って梅田駅を目指した。

梅田に到着すると、ボクは淀川の南側を走る電車に、ミホは淀川の北側を走る電車に乗って帰路につく。

「またね。今日は楽しかった。またデートしてな。」

「うん。シンちゃんやったらいつでもええで。でもお店にも来てな。」

ミホはそう言って別れ際にボクのほっぺにキスをしてくれた。別れ際のほっぺのキスは二回目だ。頬に柔らかな余韻を残して今日も無事に見送る。さらには一時間前の喫茶店で見た薄暗い明かりの下のミホの表情がずっと脳裏に残ったまま。

ほんのりと淡い気持ちが今日もボクの後ろ髪を引いていた。



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