第14話 「泉?」

 〇二階堂 泉


「泉?」


 早乙女が来なくて。

 待ちぼうけなのが悲しくて。

 あたしは…聖に電話してしまった。


「どうした?」


 聖はあたしの前に座ると。


「…園の個展、行かなかったのか?」


 小声で聞いて来た。


「…行ったよ。」


「会えたか?あ…コーヒー。」


 遠慮がちにやって来たウエイトレスさんに、コーヒーをオーダーしながら。

 聖はジャケットを脱いだ。


「ううん。個展では会えなくて…昨日電話して、今日、ここで待ち合わせしたんだけど…」


「…まだ来ないのか?」


 聖は周りをキョロキョロ。


「たぶん…もう来ないんだよ。」


「なんで。」


「だって、約束したの、三時なんだよね。」


「……」


 時計は六時を過ぎてる。



 もう帰ればいいものを。

 あたしの足は、なかなか立ち上がろうとしなかった。

 なんで来ないの?

 って思いながらも…

 当然か…って思う自分もいて。

 だけど、引っ込みがつかなくて。


「電話してみろよ。」


 聖はそう言うけど…


「…でも…」


「おまえらしくねーなー。何やってんだ!!こっちは待ってんだぞ!!って言えよ。」


「……」


 キョトンとして、聖を見る。


「なんだよ。おまえ、俺にはそんな感じじゃねーか。」


「そ…そうだけど…」


「園にはそんな事言えないってか?あー、すみませんね。目の前にいるのがどうでもいい奴で。」


 聖はそう言って、唇が尖らせた。


「……」


 あたしは意を決して、バッグから携帯を取り出す。

 小さく深呼吸をして、早乙女の家の番号にかけた。


「……」


「……」


 ドキドキする。

 聖は運ばれて来たコーヒーに口をつけながら、あたしを見てる。


「…出ない。」


 コール10回以上鳴らしても、誰も出ない。

 あたしは諦めて、携帯を切った。


「園、携帯持ってなさそうだもんな。」


「うん…持ってないって…あの頃は言ってた。」


「ちょっと待ってな。」


 聖はそう言うと、自分の携帯を取り出して。


「あ、詩生?久しぶり…今ちょっといいか?」


 早乙女の…兄貴に、電話した。


「園って、携帯持ってるか?あ、そっか…ふうん…いや、ちょっと絵の事で聞きたい事があって…ああ…だな。ははっ。」


 早乙女の兄貴って…華月を裏切ったんだよね…

 そう思うと、そんな奴からの情報なんて要らない。って思ってしまうんだけど。


「ああ、じゃあな。うん。」


 聖は携帯を切ると。


「この時間なら家に居るはずだってさ。やっぱ携帯は持ってないって。」


 首をすくめた。


「…あいつと、今も仲いいの?」


 遠慮がちに問いかけると。


「あいつ?」


「……」


「…ああ、詩生か…」


 聖は背もたれに体を預けて。


「実は、連絡するの超久々。」


 って苦笑いした。


「やっぱさ…華月の事思うと、なんつーか…自然と疎遠になっちまってた。でも、詩生の声聞いて…あいつにも、色々あったんじゃないかって。」


「…色々あったら、他の女に手を出していいの?」


「そうじゃないけどさ。でも…詩生は華月の足の事、自分のせいだって負い目が強すぎて…悩んでたから。」


「……」


「あ、悩んだからって他の女にって…それは俺も納得できないけど…。でも、詩生は生きてても死んでるぐらいの気持ちだと思う。」


「…そりゃあ、それぐらい悩んでもらわないとね。」


「確かにな。でも…」


 聖は背もたれから体を起こして、テーブルに肘をつくと。


「だからって、詩生の人生を台無しにして欲しくないとも思うんだよな。」


 真顔で言った。


「……」


「俺が華月だとしたら、今は見ないフリしてるとしても、いつか向き合った時に…詩生があの日に立ち止まったままだとしたら…俺は嫌だな。」


「…あたしは、成功されてても嫌かも。」


「ははっ。おまえ、らしく過ぎて笑える。」


「だって、あたしを不幸にしておいて、自分だけ成功なんてさ…」


「泉は、自分が不幸にされたって思ったら、幸せになってやるって切り返しはできねーの?」


「……」


 聖の言葉に…胸を刺された気がした。


「だ…だって…」


「華月は、詩生に裏切られたよ。だけど、そのままの自分で居たくなかったから、アメリカに行った。それでも一年じゃ時間が足りなくて…更新した。あいつは、あっちで自分なりに進もうと頑張ってる。だから…詩生にも進んで欲しいって俺は思うよ。」


「……」


 あたしは…ひねくれてるのかもしれない。

 聖の言いたい事は分かる。

 誰にでも過ちはあって、だけど誰にでも人生はある。


「ま、おまえは過ちを許さない仕事してるしな。」


 聖が笑いながら言った。


「…過ちのジャンルが違う。」


「ははっ。なあ、腹減らね?飯食いに行こうぜ。」


「…うん…」


「…連絡してみろよ。今日はたまたま何か予定が入ったんだよ。」


「…そうだね…」


 早乙女は、あたしの番号を知ってるのに。

 それにかけて来ないって事は…


 あたしは、もう…



 要らないんだ。


 * * *


 〇早乙女 園


 ♪♪♪♪


「……」


 鳴り続ける電話を前に、俺は立ち尽くしていた。

 ナンバーディスプレイに表示されてる番号は…泉さんの携帯だ。



 個展が終わって、日曜の夜は関係者との打ち上げ。

 ほぼ朝方まで、延々とお茶だけで付き合った。

 昨日は夕方まで寝てしまって…いつもなら音を迎えに行く月曜日。

 俺が行かなかったもんだから、心配した音が家まで来てくれた。

 …それだけでも、音は可愛いなあ。なんて感激した。


 お茶を入れてると…いきなり音に迫られた。

 抱きついて来て、キスをしそうになって…俺としては、そういう事は結婚してから…って、変な夢を持っている。

 だから、当然拒んだ。

 だけど拒まれる方の気持ちなんて、分かってなかったんだよな…


 音は可愛い顔を鬼の形相に変えて、触るなとまで言った。

 しかも、色んな人と何回もセックスをした。とまで…


 あああああ…


 そりゃあ、絵ばっかり描いて来た俺じゃあ、音は物足りないかもしれないけど。

 でも俺は色んな事を大切にしたいのに。

 口ゲンカとも言い切れない言葉のやりとりの最中で、音に言われた。


『若い頃に痛い想いでもして、できなくなってんじゃないの!?』


 …若い頃って…今でも若いんだけど…



 痛い思いをしたのは…去年の話で。

 まだ、完全には塞がっていない傷。

 色恋なんて、成功してから言いなさいよね。

 大好きな人に、目の前でシャッターを下ろされた。

 …辛かったな…

 って、もう過ぎた事はいいんだ。

 目の前の音を…って。


 ああだこうだ言いまくってる音にキスをして、抱きかかえてリビングで押し倒した。

 そりゃあ…絵を描きながら、悶々としなかったわけじゃない。

 俺だって男だ。

 音の裸も想像したし……

 泉さんのだって…



「まっまま待って…園ちゃん…」


 音の可愛い声。


「もう無理だ…」


「でもっ!!今日は…」


「何…」


「…下着が…可愛くないの…」


 ……ははっ。


 あの時の音の顔を思い出して、つい笑ってしまった。

 色んな人と何回もした。なんて豪語して。

 なのに、そんな事気にするんだ?って、ちょっとおかしかった。


 結局、音はお気に入りの下着に着替えてくる。と。

 誰もいないし…って事で泊まった。


 …音を抱いた。

 女の子の体って、柔らかくて不思議だと思った。



 今日は…

 三時に泉さんと会う約束をしていた。

 俺としても、泉さんにお礼を言いたい気がしたし…何より、もう吹っ切れているかどうか。

 自分でも確かめたかった。


 だけど、俺が誰かと会う約束をしたのを気付いた音は、行かないでくれ、と。

 一緒にいたい、と。

 そんな可愛い事を言われたら、行かないに決まってる。


 ずっと、音と抱き合っていた。

 何度もキスをして、何度もいい気持ちになった。

 …三時に、少しだけ時間が気になったけど…

 音といると、それもすぐに忘れた。



「……」


 やっと電話が切れた。

 時計を見ると、六時二十分。

 …まさか、今まで待ってたなんて…ないよな。



 音が可愛い。

 音を愛しいと思う。

 結婚も決まった。

 何も不満はない。

 …ない、はずなんだけど…。



 この、胸のつかえは何だろう…?



 * * *


「パリ?」


「うん。」


「やったなあ!!園!!」


 なんと、ノイ先生の知り合いが、俺をパリに誘ってくれた。

 とりあえず、半年来てみないか、と。


「あいてて…父さん、痛いって。」


 父さんが、俺の頭をクシャクシャにしながら喜ぶ。


「ああ…良かった。個展を開く事になった時も、個展で絵が売れた時も、これは夢なのか?って本当は思ったけど…」


「パリも夢なのかって思わない?」


「ここまで続けば、もう本当だろ。」


「…ありがと、父さん。」


「何が。」


「俺の事…信じてくれてて。」


「……」


 父さんはいつもの柔らかい笑顔で。


「これからが楽しみだな。」


 そう言ってくれた。


 …楽しみ…か。

 本当は、プレッシャーでもある。

 だけど…それをも楽しまない手はない。

 せっかくスタート地点に立てたんだ。

 いい物はいつ見てもいい。

 そう言われるには、まず認められることが先決。

 10年先も、いい物だと言われるよう…今頑張らないと。



「おーちゃんは知ってるのか?パリ行の事。」


 父さんがお茶を入れながら言った。


「うん。言ったけど…ちょっと不機嫌になった。」


「なんで。」


「クリスマス前に行くからかな。」


「あー…女の子には厳しいかもしれないなあ。」


「うーん…」


 クリスマスか…

 去年は、チョコと買い物に行ったっけ。

 で、チョコと腕組んでるのを、泉さんが『見たわよ』なんて…

 はっ…

 なんで俺はこう…泉さんの事をちょいちょい思い出してしまうんだ。



 音に何の不満もない。

 むしろ、感謝しまくっている。

 音が卒業したら、結婚する予定になってるし…

 だけど…クリスマスみたいなイベントに不在だと、音は他の男にグラつくのかな…



 ♪♪♪


「はい、早乙女です。えっ…?あ、園ですね。代わります。」


 電話を取った父さんが、笑いながら俺に手招きした。


「おまえと間違われた。」


「似てるって言われるもんな…もしもし。」


『もしもしっ!!園ちゃん!?大変!!』


「…えっ…と…」


『あたし、コノ!!』


「ああ、コノちゃん。何が大変?」


『音が具合悪くて死にそう!!』


「えっ?」


 音が…死にそう!?


「なっなななんで!?」


『とにかくすぐ音んち来て!!すぐよ!!』


「わっわかった!!」


 受話器を投げるように置いて、俺は家を飛び出す。

 父さんが何か言ってるような気がしたけど、俺は自転車をとばして音の家に向かった。




「音!!」


 バーン


 インターホンも鳴らさず。

 大きな一枚扉を勢いよく開けると。


「…え?」


 少し目の赤い音が、そこにいた。


「音、平気?大丈夫?」


「え?え…何?」


「コノちゃんから電話があったんだ。音が具合が悪くて死にそうって…」


 音の肩に手をかけて、顔色を見る。

 うん…顔色…良くない…ほどでもない…


「…死にそう…」


 上から下まで、ゆっくり見てみるけど…音、しっかり立ってる…


「……」


「……」


 自転車飛ばして、乱れた髪の毛をかきあげながら、息を整えて。


「…嘘?」


 音に、聞いた。


「…死にそうだよ…」


「え?」


「クリスマス…一緒に居られると思ったのに…」


「…音…」


「園ちゃん、本当にあたしの事好きなの?」


「なっ何今さら…」


「だって、パリの話だって…あたしに何の相談もなく決めちゃって…」


「それは、俺の仕事の話だからと思って。」


 つい、そう言ってしまうと…音はあからさまにムッとした。


「…あたし、許嫁だよね。」


「…うん。」


「結婚するんだよね?あたし達。」


「うん。」


「だったら、園ちゃんの仕事はあたしにも関係あるよね。」


「…うん…」


「なのに、俺の仕事の話だから、って。勝手に決めちゃって良かったわけ?」


 音の早口で低い声を聞いてると、なんだか少しイライラして来た。


「…じゃあ、俺が相談したとして、音は賛成してくれてた?」


「なっ…そんなの、してくれなきゃ分からない!!」


「今の様子だと、丸っきり反対してるよね。」


「それは、話してくれなかったのが悲しいからよ!!」


「それは、ごめん。」


「……」


「でも、俺の夢でもあるから…」


「もう、いい。勝手に行けば。」


「音。」


「なんなのよ…こんなに好きにさせておいて…勝手に…勝手に遠くへ行くとか…」


「音…」


 ゆっくり音を抱きしめる。

 まだ高校生だもんな…いきなり理解してくれって方が無理か…

 俺も、都合良過ぎるよな…

 …だけど。


『こんなに好きにさせておいて』


 …嬉しいな…


「そう言ってくれて…嬉しいよ。俺、頑張るから…」


 音の髪の毛を撫でながらそう言うと。


「バッカじゃないの!?」


 いきなり、音に突き飛ばされた。


「…え?」


「あたしを悲しませてるのに、嬉しいとか…あり得ない!」


「で…でも、いつかは帰って来るし…」


「ああ、あああああ。行けば。園ちゃんが帰ってくる頃には、いい男と結婚してるかもしれないけどね。」


「ど、どうしてそうなるんだよ。」


「もう!嫌い!園ちゃんなんか嫌い!出てって!」


「音。」


「何よもう!園ちゃんなん…」


 強引に腕を取ってキスをする。

 ズルいとは分かってても、こうでもしないと音の言葉は止まらない。

 俺はどうも…まくしたてるように言葉を出されるのが苦手だ。

 ちゃんと相手の気持ちを考えたいと思う反面、言葉が耳に入って来なくなる。

 それってつまり…

 面倒だと思ってるんだろうな…



 音の事、そう思いたくない。



「ごめん…俺だって寂しいよ。」


「…嘘。」


「嘘なもんか。」


「どうせ、園ちゃんは…」


「どうせ?」


「前に好きだった人の事、まだ好きなんでしょ。」


 さすがに…ここまで言われると、俺もムッとする。

 そりゃあ…そりゃあ、確かにまだ…泉さんへの想いは…全部なくなった。とは言い切れないかもしれない。

 だけど今は本当に音の事が好きなのに。


「どうして、そんな事?そんなに俺の事、信用できない?」


「できない。もう、疲れた。」


 音は俺から離れると、階段を上がり始めた。


「音。」


「もう無理。さよなら。」


 …ムカッ。


「お土産、楽しみにしてて。じゃ。」


 さすがの俺も、もう無理だった。

 それだけ言って、音の家を出る。

 意見の食い違いなんて、普通にあるだろ?

 なのに、すぐに無理とか言われると…気分が萎える。

 …だけど、俺が言わせてるんだよな…



 自転車を停めて、一人…しばし反省。

 いわば、音は俺に巻き込まれてるだけだもんな…

 …音の事が好きで大事で…

 だけど、不安にさせるのは…やっぱり俺…どこかで泉さんの事…?



 再び自転車をこぎ始める。


 決めた。




 …泉さんに、会おう。

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