第6話 「ねえ、泉。」

 〇二階堂 泉


「ねえ、泉。」


「んー?」


 久しぶりに華月と会った。

 合鍵を渡してるものの、あたしはいつも部屋にいる。

 必要ないね。なんて、笑われた。



 もうすぐ二月が終わる。

 結局あたしはあれから、聖にも早乙女にも会っていない。

 …自分の気持ちが、怖い。

 早乙女の事、憎いと思ってたのに…あいつの顔を思い出すと…心があったかくなってしまって…ざわざわする。


 聖は…

 あたし、聖を傷付けた…。



「泉ってさあ…」


「んー。」


 マニキュアを塗りながら、無気力な返事をする。

 今までマニキュアなんてしなかったのに…急にする気になった。

 …たぶん、華月は怪しいって思ってるよね。

 さっきから、あたしの手元ばっか見てるもん。



「キス、したことある?」


 …キス、したことある?


「うっわ!」


 華月の問いかけを頭の中で繰り返して、マニキュアをひっくり返してしまった。


「やっ…だ!これ、落ちないかな!あ〜…失敗だ〜…」


 慣れない事するからよ。

 言われてもないのに、Dで出会った聖の同級生に言われた気がした。


「あ、待って。こすらないで。リムーバーは?」


「ん。」


「このタオル、使っていい?」


「うん。」


 華月は手際よく、お湯に浸したタオルとリムーバーで、あたしの服についたマニキュアを落とし始めた。


「さすがモデル。慣れてるね。」


「失敗に、って聞こえるよ。」


 リムーバーの匂いに、少しだけクラクラする。


「…珍しいね。華月が、そんなこと聞くのって。」


 今までのあたし達の会話って…華月の仕事の話とか、家族の話…

 恋の話なんて、したことなかったな…。


「そ?」


「何で急に?あ、経験したな?こいつぅ〜。」


 華月の頭をくしゃくしゃにして言うと。


「けっ経験なんて言わないでよ。あたしは、泉にしたことある?って聞いてんの。」


 華月は赤くなった。


 …経験…


「…あるよ。」


「あるの?」


 華月が顔を上げて、目が合ってしまった。


「何よ。あたしにはないって思ってた?」


「うん。」


「しっつれいな奴。あたしだって、キスする相手くらい…」


「…泉?」


「…ごめん。」


 どうしたんだろ…あたし。

 キスしたのは、聖。

 キスできなかったのは、早乙女。

 どっちを想って…泣いてんの?

 ああ、やだ。

 涙が止まんない。



「泉…」


「何で泣いてんだろ…おかしいな…」


 泣いてるあたしにどう言葉をかけていいか、華月は悩んだのだろう。

 困ったような顔で、ゴシゴシと手を動かす。

 だけど…


「…華月…」


「えっ?」


「も、いいよ。」


「あ、あー…でも、まだきれいに…」


 あたしは、自分のトレーナーを指差す。


「…プリント剥げちゃった…」


「…バカ。」


 涙を拭いて、笑う。


「あ、そう言えば…これ、あげる。」


 華月が思い出したように、持ってきてた紙袋をあたしに差し出した。


「何?」


「撮影の時にもらったの。化粧品。」


「え〜化粧品?」


「スキンケアだけでも。」


「う〜…うん。ありがと。」


「あ、誕生日、写真集ありがとう。」


 華月の誕生日、あたしは外国の景色の小さな写真集を贈った。

 何となく…早乙女のイメージで買ってしまったという…


「恒例の誕生日会は賑やかだった?」


 桐生院家では、毎年クリスマスと華月の誕生日会を盛大にしている。


「うん。あたしは特に豪華なプレゼントもらった。」


「誕生日も兼ねて、だもんね。」


「卒業だしね。でも聖は勉強道具ばっかでボヤいてたな。」


 ドキッ。


「ク…クリスマスに勉強道具は…嫌だよねえ。」


「あれ、言ってなかったっけ。聖もあたしと誕生日一緒なのよ?」


「……え?」


「あたしと母さんと、聖。三人12月24日生まれ。だから毎年盛大にやるの。」


「……」


 あいつ…あの日、誕生日だったんだ…

 でも、夜…来たよ…ね…


「…誕生日会って、夜通ししたりするの?」


 わざとらしいかなと思ったけど、お茶の用意をするふりをして問いかける。


「まさか。ある程度食べたり飲んだりしたら、後は自由よ。父さん達は遅くまで飲んでたけど、お兄ちゃんはデートに行って帰って来なかったし。」


「…ふうん…」


「…ねえ、泉。」


「ん?」


 あたしがマグカップを出してると、華月はそばまで来て。


「…好きかどうか分からない気持ちって…あると思う?」


 まさに、今のあたしと同じ事を言った。


「あると思う。」


 あたしがキッパリ答えると。


「やっぱそうだよね。」


「うん。」


「好きかって聞かれても、なんて言うか…そこに届いてるのかどうか分からないって言うか…」


「うんうん。」


「だけど…相手の事を想うと…ちょっと、気持ちが…」


「分かる!!」


「っ…」


 あたしの大声に、華月がちょっと引いた。

 あ…ダメだ。

 これじゃ、あたしが恋してるのがバレバレ…

 って…

 あたし…


 恋してるの!?



 * * *


「……」


 久しぶりに…公園を通った。


 明日は卒業式。

 さすがに…父さんには来てもらわないといけないし…挨拶ぐらいしとくかな…って事で。

 あたしは、本当に数ヶ月ぶりに。

 自宅に戻る事にした。



 その公園で…


「あ…」


 向こうも、あたしに気付いた。


 …早乙女。



「泉さん、お久しぶりです。」


「…うん。」


「良かった。いつ会えるかなと思ってたんで。」


「……」


 あたし、目を細くしてしまった。


 会えるかなと思ってた?

 て言うか、会いたいなら連絡しろよ!!

 あたし、あんたに携帯の番号教えてるだろ!?



「足、大丈夫でしたか?」


「…いつの話してんのよ。」


「あ、ははっ。そうですね。」


 早乙女とは…クリスマス前に会って以来…か。

 約二ヶ月ぶり。


「…そう言えば、クリスマスに見た。」


「え?」


 マフラーで口元を隠しながら、早乙女の足元を見る。

 …相変わらず裸足。

 修行僧か、あんたは。


「女の子と、腕組んで。」


 あたしの言葉に、早乙女は少しだけ考え事をするみたいな顔をして。


「ああ、妹です。」


 笑った。


「…妹?」


「はい。この服とか、このバッグとか…全部妹が作ってくれるんで、布地を買いに行ってました。」


 あたしは、早乙女が着てる服を見る。

 何。

 あんたが着てる、その、あんたによく似合う変わった独特の服…妹が作ってんの?

 て言うか…


「妹と腕組むの?」


「え…あ、やっぱそれって、なしですかね。」


「なしで……はっ…」


 あたし…

 あたしも兄ちゃんと腕組む!!


「…妹に、優しいのね。」


「え?あー…ええ。」


 あたし、早乙女の折り畳みの椅子の近くにあるベンチに座る。


「……」


 立ち上がってた早乙女は、少しだけ折り畳みの椅子をベンチに近付けて、座った。


「…なんて言うか…」


「……」


「こういうの言ったら、気持ち悪いって思われるかもしれませんけど…」


「…何。」


「妹、可愛いんですよね。」


「……」


 あたし、少しだけ顔を上げて、早乙女を見る。


「体が弱くて、よく風邪ひくし…気が小さいクセに、正義感が強いから無茶したり…」


「……」


「僕、兄貴と妹がいるんですけど、本当…兄弟っていいなっていつも思います。」


「…そう。」


 自分の爪先を見る。

 あたしだって…兄弟…いいって思ってたよ…


「…泉さん、兄弟は?」


「……兄ちゃんと姉ちゃん。」


 あたしがそう言うと、早乙女が少し笑った気がした。


「…なんで笑うのよ。」


「いえ…兄ちゃんと姉ちゃんって呼んでるのかって思って。」


「悪い?」


「似合ってます。」


「…ふん。」


 少し、無言で時間をやり過ごした。

 卒業式…めんどくさいな…なんて、ちょっと思ってると。


「あ…これ…泉さんにと思って。」


 早乙女が、バッグから何か取り出した。


「…何。」


「卒業、おめでとうございます。」


「……」


 早乙女は、笑顔。


「…これ、渡すのに、ずっと待ってたの?」


「え?あー…まあ、会えれば渡そうかなって。」


「バカじゃない?携帯知ってるクセに。」


「いえ、あれは…」


「…これ何。」


「…泉さんをイメージして、描きました。」


「…描いた?」


 聞くまでもなく、包みを開けた。

 B6サイズのそれは、小さなキャンバス。

 そこには…薄桃色をメインにした…色んな色が…

 四角だったり丸だったり、曲線だったり…



「すみません。僕が描いてるの…抽象画っていって…よく分からないってみんなに言われるんですけど…」


「……」


 分からない。

 分からないけど…

 なぜか、その色使いに、涙が出そうになった。

 あたしが好きな色。

 それから…あたしに似合うって、みんなが言ってくれる色…


「初めて会った時から…泉さんは、僕の中で、こういう人でした。」


 ………ダメだ。


「…泉さん?」


 ポロポロと、あたしの目から涙がこぼれる。


「えっ…あっあの…僕何か…」


「…バカ…」


「え…?」


「…腹立つ…」


「……」


 あたしは、その絵を抱きしめる。

 早乙女が、あたしみたいって描いてくれた…その絵を。


「…ありがと…」


「…いえ…」


 涙を拭いて、立ち上がる。


「…じゃ。」


「…あ…はい…気を付けて…」


 ダメだ。

 もう、早乙女に会っちゃいけない。

 あたし…




 あたし、こいつの事…



 好きだ。



 * * *


 〇早乙女 園


「……」


 膝の手当をして以来…泉さんに会えなかった。

 公園にいても、全然だったし…避けられてるのかな…とも思った。

 でも、携帯はー…相変わらず鳴らす気にならなくて。

 僕は僕らしく。

 うん。

 地味に待っていよう。

 そう思って。

 泉さんをイメージした絵を、B6サイズのキャンバスに描いた。

 …卒業祝いに、渡せないかな。



 だけど、一月は一度も…見かける事すらなかった。

 何となく実家はあそこかな…って見つけたけど。

 その近くを歩いても…会えなかった。


 二月になって、世の中がバレンタインで浮かれてても。

 泉さんは公園に現れなかった。

 ガッカリな気持ちと…

 どこか。

 ほっとした気持ちと。



 だけど。

 一昨日…会えた。

 やっと。

 その時、やっぱり嬉しい気持ちが大きかった。


 ああ、泉さん。

 髪の毛、伸びたなあ。

 …鼻が赤い。

 寒いのかな?


 そうこうしてると、泉さんがベンチに座った。

 僕もすかさず…折り畳みの椅子をベンチに近付けた。

 そこで…僕は、描いた絵をプレゼントした。


 そしたら…


「……」


 思い出すと、胸が締め付けられる。

 泉さん…

 なぜ泣いたんだろう…


 なぜ…



 今日の公園。

 少し暖かい。

 眠いなあ…


 椅子の位置をずらして、木に寄りかかる。

 ちょっと…寝ようかな…



 そのまま、どれぐらいだろう。

 僕は眠ってしまった。

 たぶん、笑いながら眠っていたと思う。

 だって…僕は夢を見たんだ。

 泉さんと手を繋いで、笑い合いながら…散歩する夢だった。

 できる事なら…このままその夢を見ていたいと思った。

 …けど…


「…ぐしっ!!」


 ……ああ。


 くしゃみで目覚めた。

 おまけに、椅子から落ちかけた。

 慌てて地面に手をついて、体勢を立て直す。


「…帰るか…。」


 辺りはもう薄暗くて。

 そりゃ…くしゃみも出るや。

 荷物をまとめて、歩きはじめる。


「……」


 さっき見た夢を思い出して…


 ニヤけながら。



 * * *


 〇二階堂 泉


「はっ…はっ、はっ…」


 あっあたし…

 なっななな何やってんだよー!!


 公園から全速力。

 実家に行こうと思ってたのに…そのまま引き返して、マンションに戻る事にした。



 …公園に行くと、早乙女がいた。

 もう、会っちゃダメだ…って思ったのに。

 絵のお礼…ちゃんと言いたくて…


 早乙女は、寝てた。

 木に寄りかかって…熟睡してた。

 あたしが声かけても、ピクリともしなかった。

 少しだけ、肩を突いても…起きなかった。



「……」


 少しずれたメガネ。

 あたしは、それを手に取って…


 …ああああああ!!

 なんで!!

 なんであたし!!

 早乙女にキスなんてー!!


 …なんでって…

 好き…だからだよ。

 あたし、自分で気付いたじゃん…


 …でも、ダメだよ。

 あいつは…兄ちゃんと…同じ血が流れてる。

 そりゃあ、あたしとの間には…何もないよ。

 恋したって…問題はないよ。

 だけど、あたしがもし…早乙女と恋愛なんかしたら…

 父さんが、辛くなる。

 絶対そうだ。


 母さんが…恋愛した人の息子と、あたし…だなんて。

 母さんだって…父親に生き写しの早乙女とあたしの姿なんて見たら…

 昔を思い出して、なんか…なんか…

 変な気持ちになっちゃうんじゃないかな…



「はあ…は…」


 マンションに近付いて、あたしは走るのを止めた。

 息を整えて…たまには自炊でもするか…なんて、近所のスーパーに入る。


 一人暮らしを始めて、料理なんて…何回したかな。

 食材買っても面倒になって、結局弁当買ったり…

 冷蔵庫で腐らしちゃうのももったいないし、って。

 ご飯だけは炊くけど、惣菜買ったり…レトルト物買ったり…


 …早乙女、料理できる女の方が好きかな…

 …って…

 だから!!

 ダメなんだって!!あたし!!



「…よお。」


「…あ。」


 スーパーのカゴを持って、百面相してたであろうあたしの前に…

 聖。

 もういいって言われて以来…全然会ってなかった。


「……」


「……」


「…腹減った。」


「……え?」


「なんか食わしてくれよ。」


 聖はそう言って、あたしからカゴを奪い取った。


「えっ…え?」


「おまえ、得意料理、何。」


「あ…えー…」


 あたしが目を細めて困ってると。


「…襲ったりしねえから、そんな顔すんなよ。」


 聖はシイタケを手にして言った。


「…そうじゃなくて…」


「なんだよ。」


「…あたし、料理…できない。」


「……マジかよ。」


「……」


 聖は大きく溜息をつくと。


「好き嫌いは?」


 腕組みをして言った。


「え?あ、う…ううん、ない。」


「じゃ、てっとりばやくカレーな。」


「う…うん…」


「飯は?炊ける?」


「うん…」


 そこから聖は色んな食材を手にして、選び方も教えてくれた。

 何…聖、料理なんてできるんだ…って、ちょっと感動。



 …聖を傷付けて…

 なのに、早乙女にキスして浮かれて…

 だけど、やっぱりダメだって落ち込んで…

 聖、タイミング良すぎだよ…。

 こんな時に現れて。

 だけど…あたし…

 やっぱ、あんたの事…


 傷付けちゃうよ…。


 * * *


「…ごちそうさまでした。」


 あたし、本当に感謝の気持ちをこめて手を合わせた。

 聖の作ったカレーは…信じられないぐらい、美味しかった!!



 それは驚くほどの手際の良さだった。

 聖はキッチンに入ると、あたしが使わないままでいるエプロンをして。


「おまえ邪魔。あっちで座ってろ。」


 そう言って…お米研いで炊飯器にセットして。

 あっと言う間に、『料理』を始めた。

 ここでは初めて響く包丁の音。


「家でも料理するの?」


 野菜を切ってる聖の手元を見ながら問いかけると。


「ああ。姉ちゃんがいない日は、母さんと二人で料理してる。」


 聖の言う『姉ちゃん』とは、華月のお母さんだ。

 22歳年上の、お姉さん。


 偉いなあ。

 あたしなんて、早く帰っても…部屋で漫画読んだり、リビングでテレビ見たり…

 少しは手伝えって父さんが言うけど、食器を運ぶぐらいしかしてなかったよ…


 そんなあたしを後目に、聖はカレーを煮込んでる間に、小洒落たサラダまで作った。

 これがまた…美味しくて美味しくて…



 あたし…聖の事傷付けたのに。

 こんな美味しい物作ってくれるなんて。

 って。

 ちょっと何か違うかもだけど、なんか泣きそうになった。



「…今日、何か用事があったの?」


 結局、片付けまで聖が。

 対面キッチンのカウンター越しに問いかけると。


「あー…そうだった。」


 聖は…これまた手際よく洗い物をしながら。


「おまえ、今週末空いてる?」


 目を合わせた。


 …あたし、今日早乙女にキスしておきながら…

 今、ちょっと聖にドキッとした。


「…うん。空いてるけど…何かある?」


「華月とー…他何人かで小旅行に行くんだけど。どうかなと思って。」


「……」


「ん?」


「あ…ああ、うん…って…あたし、行ってもいいの?」


「なんで。」


「いや…なんか…いいのかなって…」


「おまえが良ければ来いよ。」


「…うん…」


 何だろ…

 すごく…新鮮。

 二階堂本家の人間は、外の人の集まりには…あまり顔を出さない。

 学校行事は仕方ないにしてもー…だいたい、家業に関係する人達とだけの付き合いになる事が多い。

 ダメって言われたわけじゃないけど…

 昔から暗黙の了解みたいな所があって。

 だから…こんな誘われ方したのも…


「…あたし、華月に聖と会ってる事言ってない。」


 肝心な事を思い出してそう言うと。


「ああ…俺も言ってない。」


「なのに、急にあたしが行ったら…おかしくない?」


「昨日言った。」


 聖は手元を見ながら。


「泉誘うからって。そしたら、一瞬『え?』て顔はしたけど、何も聞いて来なかった。」


 普通に言った。


「…あの…あの事、話してない…よね?」


「話してねーよ。」


「そか…」


「……」


 聖は何か言いたそうだったけど、洗い物を終えてタオルで手を拭くと。


「おまえ、泊まりイベントとか慣れてないだろ。買い物付き合ってやってもいいぜ?」


 前みたいに、ニッと笑ってそう言った。

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