第2話 …さすがに、いないか。

 〇早乙女 園


 …さすがに、いないか。


 彼女とここで初めて会ってから、一年以上が経った。

 その間に僕は美術学校に入学して。

 毎日絵の事ばかりを考えられるのはいいけれど…

 今まで風景画や人物画、主に水彩画を描いていた僕は、学校に通い始めて…新たな作風に出会ってしまった。


 抽象画。


 いや…今まで知らなかったわけではないが、興味はなかった。

 それなのに、熱すぎて理解できない。と噂されるノイ先生の個展を見に行って…やられた。と思った。

 そして、僕の思い描く抽象画に、ノイ先生は何か感じ取ってくれたようで。


「ソノ、君ハ、ゼッタイ、この道にススムベキ!!」


 ハッキリ、そう言ってくれた。



 それからと言うもの…僕の描く絵は180度変わってしまったわけで…

 それに対して家族は茫然としていたけれど、特に何も言わなかった。

 ただ…なかなか公園に来る事が出来なくなった。

 そして…公園に来ても、風景が描けない。

 それは困った。

 まあ…デッサンも続けておけば、何か役に立つかもしれないと思って…来れる時は、いつものベンチの横で絵を描いている…フリをしている事もある。

 だけど、会いたいと思う彼女は現れない。


「…帰るか。」


 道具を片付けて、公園の中を突っ切ろうとして…ふと、足を止める。

 彼女はいつも、階段を下りて行く。

 もしかして…下の住宅街に彼女の家が?


「……」


 かすかな期待を胸に、僕は向きを変えると階段を下りた。

 ここを真っ直ぐ行けば、表通りに出る。

 特に用はないが…昔、父さんがバイトしていたという音楽屋にでも、立ち寄ってみよう。

 さりげなく住宅街に目を向けるも、残念な事に気付く。

 僕は彼女の名前すら知らない。


 * * *


 〇二階堂 泉


「泉?」


「……」


「泉。」


「…えっ、え?何?」


「もう…さっきから上の空よ?」


「…ごめん…」


「何かあったの?」


「…ううん。」


 今日は…学校帰りに、華月と待ち合わせた。

 モデルの仕事も入ってないって言うし。

 あたしも…家に帰りたくなくて…



 先々週…

 学校から帰ると、イトコの紅美が遊びに来てた。

 体が動かしたいとか言って道場で暴れたあと、父さんとリビングでなぜだか我が家のホームビデオを見てた。

 あたしたち兄弟の、小さな頃の映像。

 あたしも一緒になってそれを見て、笑った。


 一本目が終わって、あたしは着替えるために部屋に行った。

 父さんと紅美は二本目を見るだ見ないだ…その、はしゃいだような声は、あたしの部屋まで聞こえた。

 だけど…突然静かになった。

 おいおい、おっさん。

 姪っ子に手出すなよ?なんて変な事考えながら。

 あたしは、忍び足でリビングに降りた。


「…どうしてそう思う?」


 父さんの、低くて真剣な声。


「だって、海くんと…って、声そっくりなんだもん。」


 紅美の手元には、二本目のビデオのパッケージ。


「声が似た他人ってのはたくさんいるぞ?」


「うん。だけど、海くんと…ちゃんは目もそっくり。」


「……」


たまきにい、さっきのビデオ、海くんが作文読む場面だけ、目を閉じて聞いてたよね。」


「それが?」


「空ちゃんと泉ちゃんのは、笑いながら聞いてたのに。」


「……」


「海くんも、自分の父親が違う事、知ってるんじゃない?」


 バクバクバクバクバク。

 心臓が…すごく大きな音をたててる気がした。


 …何?

 兄ちゃん…父さんの子じゃないの…?

 …ちゃん…何ちゃん?

 名前…聞き取れない…

 紅美の知ってる誰かが…兄ちゃんと声が同じって言うの?

 ダメだ…頭が回らない…



「…誰かに話したか?」


「ううん。あたしが勝手に気付いただけだから。」


「そっか…まったく…おまえの洞察力にはまいったな。」


 父さんは紅美の頭をくしゃくしゃっとすると。


しきがまだ、俺にとって『お嬢さん』だった頃の話なんだ。」


 ゆっくりと…つぶやいた。


「まだ高校生だったのと…彼に夢があった事、それと家柄…それで二人は結ばれなかった。」


「……」


「でも、俺は海を自分の子供として育てたし、血が繋がってない事なんて、どうでもいいと思ってる。」


「…うん。それはすごく感じる。」


「ただ…時々、本当に…こんなに立派に成長してくれて、って。言いようがないぐらい嬉しくてたまらなくなるんだ。」


「…さっきの、作文読んでた時とか?」


「ああ。本当に、俺の息子は立派だなって…ははっ親ばかだな。」


「どこの親だって、そうだよ。」


「海も何となくだけど小さい頃から気付いてたみたいだからな…高校生の時に、思い切って言ったんだ。」


「え?血が繋がってないって?」


「いや…早乙女さんが、父親だ、って。」


 ………早乙女。


「海くんはなんて?」


「そっか、やっぱり。って。」


「…気付いてたんだね…」


「早乙女くんにも、海に打ち明けた事を話したよ。織は気にしてたけど…色んな事情で決断したんだし…それぞれの今が幸せなら、事実は事実として受け止めたまま、堂々としていようって。」


「…環兄、すごいね。」


「すごかないさ。」


「ううん。みんな、絶対不安だったと思う。でも、環兄がそうやってどっしり構えててくれるから、早乙女さんも織姉も海くんも、みんなが自分の居場所を確立できてるんだよ。」


「…家族を愛してるからな。」


「…ねえねえ、織姉の事、どうやって口説いたの?」


「は?」


「だって、護衛の身でさあ。普通ご法度じゃないの?」


「……ノーコメント。」


「えっ、もーいいじゃん!!教えてよー!!」



 二人の会話が違う話題になって、あたしは自分の部屋に戻った。


 …兄ちゃんは…

 母さんと、早乙女さんの間にできた子供…

 早乙女…

 えっと…

 確か…陸兄のバンドに…そんな名前の人がいたような…


 あたしは震える手でパソコンを開いて。

 ネットで検索した。

 リビングに行けばCDや雑誌があるけど、今はあそこには行きたくない。


「…ない…」


 そうだった。

 陸兄のバンドは…顔出ししてないんだ…

 CDにも雑誌にも、載ってるのは歌詞とインタビューだけ。


 …でも。

 あのバンドは仲が良くて、しょっちゅう何かが企画されるとか…

 …いつだったかな…

 あたしが小さい頃、渓流に魚釣りに行った記憶が…

 確か、陸兄が連れてってくれたはず…


 あたしは納戸に行って、古いアルバムを開いた。

 あたしが何歳の頃だろう…

 四歳とか…


「……」


 あった。

 全員で写った写真。

 陸兄に抱っこされて、ピースしてるあたし。

 父さんと母さんはいない。

 姉ちゃんも…兄ちゃんも…いない。

 あたしだけ、連れてってもらったんだ…?


「……!!」


 驚いて、アルバムを落としてしまった。

 華月と聖の隣で…しゃがんでる人…

 髪が長くて、丸いメガネ…


 これ…公園にいる絵描き…?


 * * *

 〇早乙女 園


 音楽屋の前を歩いてると、少し先にある『ダリア』から、見た事のある姿。

 あ、華月さんだ。

 兄貴の彼女…と言っていいのかどうなのか。

 僕としては、華月さんと兄貴はすごくお似合いだし、付き合って欲しいんだけど。


「!!」


 驚いて、つい凹型になった外壁に隠れてしまった。

 華月さんに続いて…ダリアから出てきたのは、例の彼女だ!!

 なっなななんで!?

 華月さんの知り合い!?

 もしかして、勝手に年下だと思ってたけど…年上!?

 僕が凹型の外壁に挟まったようなままの状態でやり過ごしていると、二人は目の前を歩いて行った。



「何だか、今日はらしくないね。」


「…そっかな。」


「うん…まあ、そんな日もあるよね。」


「ごめん…」


 初めて…声を聞いた。

 想像していたような、そうでないような、だけどすごく耳に残った。

 二人の後姿を見送って、僕は急いで家に帰るとキャンバスを前にした。


 今日は…元気がなかったようだけど…それでも、初めて声を聞けた。

 僕の中では、蜜柑色…それから、江戸紫…若緑…菜の花色…

 ああ、ダメだ。

 まとまりない…


 でも、今日のインスピレーションを大事にしたい。

 きっと…初恋。

 僕の想う…彼女。

 そして僕は、一晩中。

 延々とキャンバスに色を重ねて行った。




「……」


 できた。

 できた…けど…

 時計を見て。


「…ダメだ。今日は休もう…」


 ベッドに倒れ込む。


「園ー、遅刻するわよー?」


「……」


 無言で起き上って、下に降りる。


「あら、徹夜?」


「うん…」


「課題?」


「ううん。昨日、ちょっといい感じで描けたから…」


 目の前に出された朝食に、手を合わせる。


「今日は提出物あるの?」


「ない…かな。」


 母さんは小さく笑って。


「食べたら部屋上がって寝ちゃいなさい。」


 僕に顔を近付けて言った。


「…え?」


「いいものが描けたなら、今日はいいんじゃない?頭も体も休めて、明日からまた頑張れば?」


「……」


 母さんは僕の頭をポンポンとして。


「学校には、体調不良って連絡しとくから。」


 指で電話のポーズを取って、笑った。


「…ありがと…母さん。」


 僕が抽象画を描き始めて…たぶんガッカリしたはずなのに。

 全力で応援してくれる家族。

 ああ、僕、絶対成功してみせる。


 朝食を終えて食器を洗ってると、母さんが洗濯物を干し終えて戻って来た。


「片付けありがとう。」


「これぐらいしなくちゃ。」


「気を使わなくていいのよ?」


「したいんだよ。」


「そ?ありがと。」


 部屋に上がって、ベッドに横になる。

 そんなに眠くないかなって思ったけど、すぐにまぶたは閉じられた。

 次に目が覚めると…時計は午後4時過ぎ。

 …うわ、8時間も寝た。

 今夜寝れるかな。


 ベッドの上であぐらをかいて、キャンバスに目を向ける。

 …ああ、彼女だ。

 たぶんこれを見ても、みんな模様にしか見えないと思う。

 だけど、僕には…彼女なんだ…。



「おかえり…あら…あらあらあら…」


 階下から、母さんの声が聞こえる。

 …兄貴を出迎えたにしては…声が高い。


「華月ちゃん。まー…久しぶり。きれいになったわね。ポスターとか、いつも見てるわよ。」


 …華月さん!?


「華月さん!」


 兄貴について階段を上がってきた華月さんに、つい抱きついてしまった。


「久しぶりー!すっげ嬉しいー!」


 いや、昨日見かけたけど。


「お…大きくなったね。どうしてうちの学校来なかったの?」


「だって、中・高一緒ったって、校舎全く違うし。それに、高校生になっても一年しか一緒にいられないじゃん。」


「園、いい加減華月から離れろよ。」


「あ、兄貴妬いてやんの。」


「てめっ…」


「うわっ。あはは、華月さん、ごゆっくり。」


 兄貴が投げて来たクッションをかわして、部屋に入る。

 ああ…昨日彼女の声を聞けて…今日また華月さんに会えて。

 ちょっとテンションが高くなってしまった。

 後で…ちょっと色々聞こう。





「華月さん、ちょっといい?」


 兄貴が部屋を出て行った気配を感じて。

 僕は兄貴の部屋に行った。


「ん?うん。」


 華月さん…やっぱきれいだなあ。


「昨日、表通りで見かけたよ。」


 ドアにもたれかかったままで言うと。


「え?そうなの?声かけてくれたら良かったのに。」


 ニッコリ。

 うん…本当、きれいだ。

 変なメガネかけて、三つ編みしてるけど…

 それだから、こうやって顔見て話せる気もする。

 モデルの顔で目の前に立たれたら…ちょっと、どんな顔しちゃうかな…僕。



「うーん…友達と一緒だったみたいだから…」


「ああ、泉ね。」


「泉…さん。」


「うん。少し男っぽい所もあるけど、すごく優しいの。サバサバしてるし、あたしの一番の友達。」


「そっか…」


 どうしよう。

 もっと情報聞き出そうか…



「園ちゃんは何してたの?」


「えっ?あー…ちょっと学校帰りにぶらぶらと…」


「そうなんだ。」


 んー。

 泉さんの事を聞くって…それも怪しいよなあ。

 まあ…名前知れただけでもいっか。

 それに…華月さんの一番の友達っていうぐらいだから…すごくいい人に違いない。



「じゃ、ごゆっくり。」


「うん。ありがとう。」


 部屋に戻って、キャンバスを前にする。

 男っぽい所もあるけど、すごく優しいの。

 華月さんの言葉、頭の中でリピート。

 少し…人を寄せ付けないオーラみたいなのを感じてたけど…いい人なんだ。

 泉さん…か。



 僕はそれから、キャンバスに少しだけ薄桃を足した。

 今夜は眠れないかな、って思ってたけど。

 満足に描けたせいか…存分に眠れてしまった。

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