劣情、失策、嫉妬、追想

 和明にとって、生涯初となる女子部屋へのインビテーションは唐突すぎるものだった。だがその咄嗟の出来事に和明の妄想力は機敏に反応、全身の血流をフル回転させる。挙句の果てに軽くのけぞりながら、あ、とか、え、とか、う、とか言い出した。

 あ行をコンプリートさせるつもりか、この童貞王子めと恵美がハラハラしだした時、霧江が勢いよく立ち上がり必然性のない肩のストレッチを始めた。

 桜花はその様子を見て


「この娘、なにやってるんだろう」


 と思う。

 なおも霧江は肩をねじらせつつ、和明と桜花を交互に見ながら


「察しなさい」


 と強く念じた。

 ぎこちない空気にいたたまれなくなった恵美が助け舟を出す。


「ね、ねえ桜花。その時は、霧江と私も一緒に行っていいよね?」

「あ、そうだった! ごめん霧江、気づかなかった! 霧江は小野君だ! 霧江が、お」

「な、な、なにに? あー肩疲れた。肩カチカチだったわ。肩のストレッチしなきゃ。あー肩が気持ちいい。肩っていいわね」

「霧江落ち着いて。小野君と一緒に、桜花の家に行けるって」


 この場で、ハートが刺さった矢印の相関関係を正しく把握しているのは橋田恵美だけだった。

 休業日を迎えたお弁当のハッシーのイートインスペースが、極めて幼いレベルの修羅場に突入しつつあることに気づいている。恵美は状況を俯瞰し整理した。


 1、小野和明は間違いなく如月桜花に恋をしている。

 2、だが桜花は、和明を異性として見ていない。むしろヒトバシラとして見ている感がある。

 3、そんな和明に恋愛感情を抱いているのが、秀才、佐藤霧江。

 4、そして和明が霧江をどう思っているかというと、頭のいいクラスメイト、といったところか。

 5、桜花は、和明に対する霧江の恋心を機械の反応でしか知りえない為、しばしば言動が三文芝居っぽくなる。


 この間にも桜花の小指の歯車は回されている。


 それを横目に見た恵美には、いびつな三角関係の間に挟まっている、何かしらの存在をイメージすることができた。

 空間を支配しているのは、噛み合っていない桜色の歯車だった。ギスギスと悲鳴を上げながら回転している。


 おかげさまで自分の家なのに大変居心地が悪いんですけど、と恵美は内心で愚痴をこぼす。

 恐らくは5番、桜花のポンコツぶりがこのギスギスに最も拍車をかけているとみた。

 恋愛感情が未成熟というか人の心に無関心というか、小学生の頃から桜花はこういう危なっかしい所があったんだよなあ、あの頃の担任の先生にも注意されてたっけ、そういえば先生、離婚したって聞いたけどどうなったのかなあと恵美の記憶は際限なく過去に漂いはじめた。いわゆる現実逃避である。


 劣情に悶え苦しむ和明、

 失策に慌てふためく桜花、

 嫉妬に心を焦がす霧江、

 そして追想に沈んでいく恵美しかこの場所にはいない。

 皆少しずつ発狂している。

 いよいよもって、収集がつかなくなってきていた。

 そして、この状況を収集できる者は残念ながらいないのである。


 どれくらい経っただろうか。ラジオから時報が流れ、英語交じりのDJが昼食時を告げる。


「ランチタイム、今日は南アオヤマのカフェにやってきました。ふわっふわのパンケーキはインスタでも大人気! なんとこのパンケーキ、一流シェフの作った大行列店なのに4000円で食べられるんですよ! 南アオヤマで!」


 パンケーキよりもフワフワでスカスカなトークが、場の雰囲気を切り裂いた。

 呪縛を解かれた格好で恵美が立ち上がる。


「ご飯にしよう。私作る。ヒトバシ……じゃなく小野君、手伝ってくれる?」

「僕、料理できないけど、いいかな」

「大丈夫、持ち上げたり下ろしたりしてもらうだけだから」


 小野君がそこにいるよりはまし、とは言えない。ひとまず小野を、桜花と霧江から遠ざけることが何より重要だ。恵美と和明は厨房で調理を始めた。


 残された桜花と霧江は、どちらともなく顔を合わせたり、俯いたりしている。ため息をつく前に桜花は提案した。


「ねえ霧江、小野君のこと好きなんでしょ?」

「……うん……」

「今度一緒に私の家に来たら、密室に二人きりにしてあげるから許して。さっきは本当にごめん」


 霧江は笑う。桜花が心の底から反省していると知れたからだ。その代償が密室二人きり。霧江は桜花なりの精一杯の誠意を感じた。人の心を度外視した発想に対しての怒りは、もはやない。


「許した。けど密室二人きりはいらないから。アンタ、私達以外にそういうこと言うと、本当に頭おかしいと思われるよ?」

「あー、なんか分かる気がする」

「ぜんっぜん分かってないよ! まあ今はいいわ。それより、おうちと決着をつけるのね?」

「うん、計画を次段階に移行するよ。小野君に断られたら意味ないんだけど」


 恵美と和明が昼食を運んできた。大皿にどっさり乗った揚げたての唐揚げや野菜炒めが瞬く間に消えていく。

 満腹になった時点で、全員の頭から勉強という文字もきれいに消えていた。

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