如月さんの反骨心

あだ名を自己申告する者の末路

 8月の容赦ない日差しが如月きさらぎ桜花おうかと小野和明にさんさんと降りかかる。猛烈な暑さだった。鳴き続けるセミの声も、どこか苦しそうに聴こえる。街灯にとりつけたうちわ状の物体が凄まじい音を立て、桜花のセミロングの髪をかきあげた。

 これから、夏休みを利用し、桜花の友人の橋田恵美宅である「お弁当のハッシー」で勉強会を行うのである。




 半月ほどさかのぼる7月の終わり、和明はなぜか桜花と恵美から勉強会のお誘いを受けていた。和明は現代文と古文の成績は良いが、人に教えるほどの自信はない。自信はないが、恋する桜花に誘われるなどという大チャンス、何が何でも行かなくてはならない。二つ返事で了解した。


「わあ、良かった」


 素直に喜んだ恵美を見て、和明は照れながら頭をかく。桜花は無表情のままつぶやいた。


「撒き餌ゲット」


 そして少し離れ、学年トップクラスの成績を誇る佐藤霧江の机の前に仁王立ちし、胸の前で腕を組みながら見下ろした。


「霧江先生、来る8月10日、私どもに勉強を教えてみたらどうですか」

「予備校もあるし、ヒマじゃないんだけど」

「そっかそっか。残念だな小野君も来るのに」


 霧江は座ったまま桜花の肘を取り、手首を良くない方向に向けた。


「それなら最初に言いなさいよ」

「いたたた、手の平を返すなら自分のにして」

「なにその、少し面白いこと言ってやったみたいな顔は」


 人間関係の心の機微にうとい、というより関心が低い桜花でも、霧江が和明に対して特別な思いを抱いていることは、街歩きの時のおエモりの動きで気づいていた。

 関節を極められ悶絶している桜花を遠目に見ながら、恵美が和明に解説する。


「霧江は中学の途中まで合気道やってたから、極める位置が実に的確なのよね」

「あ、そ、そうなんだ。けどお弁当のハッシーって橋田さんの家だったんだね」

「うん、10日はお店休みだし、イートインスペースは割りと広いから」


 技を解いた霧江が、なにやら満面の笑みを浮かべて近づいてきた。


「小野君も勉強会、来てくれるの?」

「大切な時期だから、勉強しないとと思って」

「さすが小野君。あそこで手抑えてうずくまってる発明バカとは大違いだわ」


 霧江はご機嫌なようだった。二人きりではないにせよ、夏休みに小野と会うことができるという喜びにひたっているのである。恵美が霧江の肩に手を置いた。


「良かったね、霧江」


 霧江は置かれた手に手を重ね、顔を赤くして無言でうなずく。もぞもぞしながらその様子を見ていた和明は、別に今言わなくてもいいことを言った。


「そういえば橋田さんって言いづらいから、ハッシーさんって呼んでいい?」

「全然いいよ。小野君は小野君でいいよね」

「ははは、それ以外ないじゃん」


 霧江が勢いよく食いつく。


「じゃ、じゃあ私もサットーとか呼んでもらえれば!」


 和明は首を軽くひねった。


「それだとなんか、ゲットーとかサッチャーみたいじゃない?」

「じゃ、じゃあサトゥとか……」

「うーん、それだと入れ墨入ったサモア系のラガーマンみたいだよ」

「なら霧江先生、名前で呼んでもらえばいいじゃない」


 いつの間にかすぐ横にいた桜花が手をさすりながら口をはさむ。


「それは、僕にはハードルが高すぎるので、無理です。はっきり言って、僕の人生で女子と話すこともあまりなかったので、毎日がアップアップです」

「だって、霧江。残念だね。小野君は霧江のこと名前で呼べないったたた!」

「あんたといると3年のブランク埋められそう」


 霧江が桜花の手を後ろに固めた。悲鳴を上げて弓形になった桜花の身体が和明の眼の前に近づいてきている。思春期の衝動をなんとか抑えじっくりと見ないようにしていたが、和明はこの日の夜、なかなか寝付けなかった。

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