怪談八:    

29. 東中女子とは畢竟、誰かを救えば自分も救えると本気で思った者達のことである




 何か冷たいものに抱かれていた。


 頭から一直線に落下していったはずなのに、血の気が引く感覚も、頬を裂くような外気の鋭利えいりさも無い。


 静かだ。

 蛇の蠢動しゅんどうも、スマホの鳴動めいどうも聞こえない。

 穏やかだ。寒くはあるが、平穏で気安さがある。


 目を開けると、周りは闇に包まれていた。

 抱かれているせいじゃない。光などここには最初から無いのだろう。

 相手の輪郭だけがこの世界の全てだった。


 もぞもぞ身震いしていると、つむじの辺りに吐息が掛かる。


「よかった、無事で」


 かすれた、弱弱しい声。


「マナちゃん」


 ほっと安心した反面、試みが失敗したことを悟る。


「残念でした。ミハルちゃんならこうするだろうから、見張ってたの」


 言葉はいつものような見下す感じ。

 だけど言いぶりは本当に疲れた様子で、背中に回されていた腕の力が抜けていくのを感じた。

 腕はそのまま、だらりと落ちていく。

 そうすると、上も下も無いこの空間に一人で浮かんでいるような気持ちだ。


「ここは、ハルカちゃんの跡? それともマナラクの中?」


「どっちでもあるかな。まあもう空間なんてマナにとって大した意味は無いよ」


 そう言われると一層彼女が遠く思われて、心細い。


「でも本当に危ないところだった。ハルカがゴミトコ達に夢中になってなけりゃ、気付かれてたね」


「ありがとう……でも、やっぱハルカちゃんの方がエラいの?」


 ぷっ、とマナちゃんは少し吹き出した。


「エラいって。違うよ、役割分担。マナはマタイ塚のを制御するのに精いっぱいだから、力とマナの体の管理は任せてあるの。もうただでさえヘトヘトなのに、ミハルちゃんのことにまで手を回したもんだから、死にそうだよ」


「ご、ごめん」


「ま、いいのいいの。ずっと真っ暗で飽き飽きしてたから、いい刺激になったよ。もうちょっと待っててね、タイミングを見計らって家に帰してあげるから」


「帰す……蛇に連れてかれた人も帰してあげるの?」


「そっちはしばらくは難しいかな。愛奈落の怖さに逆らわないようにしないといけないから」


 悪びれず言う彼女は小憎こにくたらしかったけど、相変わらず嫌いになれない。彼女から悪意を感じることはいっぱいあったけど、心の底にある信念や直向ひたむきさみたいなものもいつも感じていたからだ。


 少しの間また静かになる。

 急に訪れたこの一時。

 聞かなければならないことや、すべきことがたくさんあるとは思う。

 けど、マナちゃんと対峙たいじしていると、そういうものはグズグズにけて形にならなかった。


「ねえ、聞いていいかな」


 あまつさえ、彼女の方から質問されてしまう。


「いいよ」


 でも、それでもいい気がして、見えているかはわからないけど頷いた。


「どう、マナとハルカで作った、は?」


 ふっと、前方からの気流が鼻にかかる。

 マナちゃんが胸を張ったんじゃないかな。

 きっと彼女は誇らしげに言いたいつもりなのだろう。


「去年、ハルカがいなくなっちゃってから、ずっと考えていた。マナはどうすればよかったのか。弱くて愚かなマナ達がどうすれば恐怖に屈せず、間違わず、正しいことができるのか。答えはハルカが教えてくれた。LINEに届いたあの子のメッセージは福音ふくいん


 自信満々な語りぶり。


「以来、ソコツネクラスタを作り、らの情報を集め、本物のを見つける日を待ち続けた。であるならばそれは何でもよかった、幾らくだらなくても、ショボいものでも。マナが怖ろしくしてあげるのだから、その為の練習なのだから。そして、シバタの授業中、奇跡のようには現れた。後は知っての通り、マナは成し遂げた」


 でも、疲れ切っていて、いつもの“圧”が無くて。


「ミハルちゃんのことは、みんなのことは、これからマナが守る。誰よりも何よりも怖いものになって、クラスも部活も、他の怖いものは全部マナが倒す。みんなはマナだけを怖がって、平和に暮らす。完璧な計画でしょ。ハルカはあんなことになっちゃったんだもの、マナはこれぐらいのことしなくちゃ、ね。ねえ、そう思わない、ミハルちゃん?」


 隠し切れない不安があって。


「ねえ、そうだよね。みんなは楽しくしているよね? ハルカはちゃんとみんなを導いているよね? マナが誰よりも怖くなれば、全部上手く行くんだよね? そうでしょ、ねえ」


 どこか縋るような怯えるような、そんな光を湛えた瞳がこちらを見ている気がした。


「ミハル、教えて。私が怖い?」




 ボクは。




「怖い、怖いよ」


 ボクは彼女より小さい身体で、なるべく彼女を包み込むよう必死に抱き締める。


「君がいなくなるのが怖い。優しい君が何か知らない力で変わり果ててしまうのが怖い。君の大切な命が傷付けられ、失われてしまうのが怖い」


 ボクの体はガタガタ震えていた。

 寒さじゃなくて、怖さじゃなくて、マナちゃんが震えているせいで。



 同じ。

 マナちゃんもボクと同じだったんだ。


 弱くて愚か。

 罪悪感に身を焼かれ、でも、自分を諦めきれなくて。

 醜くもがき、諍い、誰かをモノのように利用し、利用され、それでも。

 それでも、大事なものを守りたかった。


 どうしてもっと早く気付いてあげられなかったんだろう。

 ボクはバカだ、あんなに傍にいたのに。

 本当のことは、真実は、ここにあったのに!



「そんなことが聞きたいんじゃないの……」


 泣き出しそうな彼女の背中をさする。

 彼女の身体は今にも折れそうなほど痩せ細っていた。


「わかってる、でも、やっとわかったんだ、本当のことが」


 みんなを守りたくて、一人ぼっちで校舎から飛び降りた。

 そうしないといけないと思っていた、一人で何とかしなくちゃ、と。


 でも、本当は違った。

 ボクは一人じゃなかった。



 暗闇の中で二人で抱き合う今この時、彼女のことが愛おしい。


「ボクも同じだよ、みんなを守りたい。でも、ボクは君も守りたい。みんなの中にはマナちゃんもいなくちゃダメなんだ!」


 彼女は悲し気に首を振る。


「でも、もう全部終わっちゃったんだよ? 私がやらないで誰がみんなを恐怖から守れるの?」


「大丈夫だよ。今度こそボクは間違えない。今やっと手にしたこの真実を――」


 彼女はボクの手をそっとすり抜けた。

 そして、いつもの調子を装い、冷たく告げる。


「貴方にできることはもうないの。もう全部忘れて帰って、もう、時間だから」



 目の前が白く発光した――。







 次に目を開けるとベッドの上にいた。

 起き上って辺りを見回すと、自分の部屋。


 ふわあ、と欠伸が出る。


 ボクはパジャマを着て、布団を被りスヤスヤ寝ていたようだ。

 そういう風にマナちゃんが世界をいじったんだろう。


 スマホを見ると二十時十五分。

 無論窓の外は真っ暗。

 星月ほしつきは蛇達のせいでよく見えない。

 つまり、ゴミさん達はまだマナラクを退治できていないということ。

 二人とも無事だといいのだけど……。


 なんて、考えている暇も今は惜しい。


 胸の中にはまださっきまでかき抱いていた愛おしさが満ちている。

 頭の中には彼女の最後の言葉が蘇った。


『貴方にできることはもうないの』






 ある。






 ボクはベッドを出て、電気のスイッチを点けた。

 パジャマを脱ぐ。

 制服類やコートもちゃんと室内に揃っていた。


 蛇は学習机の上にいたが、ボクと目が合った途端逃げ出す。

 散々のたうち回った末、机の裏に入り込んだ。


 スラックスを穿き、ワイシャツを着ようとすると、生地が背中に当たって


 思わず鏡を見ると、背中の刺し傷がまだカサブタを赤々と主張していた。

 忘れてた、何か貼った方がいいかな、とか悩んでいると。


「ミハル、いつまで寝てるの?」


 不意にドアが開き、お母さんが現れた。


「夕食は一緒に食べるって決まりでしょう、十五分も待たされてナツが怒って……」


 と、言いながら家事と育児で自分も目蓋が重そう。

 だけど、彼女はボクを見てその目を見開いた。


「ミハル?」


 わなわなと声を震わせながら、こちらにやってくる。


「ミハル、あなた、どうしたの、その傷は?」


「え、これ?」


 『男子に刺された』と答える間もなく、お母さんはボクの頭を両手でくるむようにし、顔を覗き込んできた。


「それに、そんなに痩せて、そんなに顔をして……」


 参ったな、忙しいのに。


「いつから……?」


 シャツのボタンを留めながら適当に答える。


「最近、ちょっと大変で」


「だから何があったのか、ちゃんと教えて!」


「ごめんね、お母さん、今忙しいんだ。ボク、行かなくちゃ」


 お母さんから離れ、ブレザーを羽織った。


「ボク? あなた、いつから自分をボクなんて……」


 お母さんの言葉は尻すぼみに終わる。

 距離を取ってこちらをキョロキョロ眺め出したので、愛想笑いを浮かべてみせた。

 彼女はギョッとして固まる。


「そんな目をする子じゃ……無かったじゃない……」


 ボクはコートとスマホを掴み、そのまま彼女の横を通り過ぎて、部屋を出た。


 それから階段を下りる時になってようやく、お母さんはボクの背中に声を掛けてくる。


「待って! どこに行くの、ミハル!」


 そう何度も叫ぶけど、お母さんも蛇も追ってはこない。

 玄関で靴を履いていると、騒ぎに気付いたナツヤがとことこやってくる。


「ミハル、めし!」


 振り向いてよく見ると、パジャマの胸元がオレンジ色に染まっていた。

 ジュースこぼしたな、しょうがないやつ。


 ナツヤはボクをしげしげ眺めてから、また大きく口を開けた。


「ミハル、めしだ! あれだぞ、ちゃんと食べないと体があれだ!」


じゃない」


「え?」


 弟はキョトンとして首を傾げる。


とかじゃなくて、ちゃんと言葉にした方がいいよ」


 そう言って、ボクはドアを開けて外に出た。




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