2. 東中の画像漁ってたら女子が冬場スラックスでビビった


「先生、なんかモロズミさんトイレ行ったらサッパリしたそーです」


 教室に戻ったマナちゃんの第一声。

 そこかしこからプッと吹き出す音、何人かは振り向いてボクのサッパリ顔を確認。


 死にた。


「あ、そ」


 シバタは当然の権利のように板書しながら返事。


 教室は数秒で落ち着きを取り戻した。

 みんなはそれぞれの課題に取り組む。


 カツカツ、チョークの音が、時折、キキャー、不快にきしむ。


 ボクは戸口で立ち尽くすまま。

 マナちゃんはボクより一歩前で軽く足首をコキコキ。


「あの……」


 なるべく小声でささやく。


「戻らないの?」


 へへ。


 彼女はくぐもった声で笑い、右足を浮かした状態で停止する。


「そーだね」


 そう答え、そして、



 急に走り出し、勢いのまま踏み込んでジャンプ。

 着地点は太った男子の背中。


「ぶへほっ」


 うめき声、衝撃しょうげきで屈む男子。その肩に足をかけマナちゃんは机の上へ。この時、初めて彼女の靴がテニスシューズに変わっていたことに気付く。

 机と椅子が揺れて大きな音が出たから、みんながこちらを向いた。


「ははは」


 彼女は驚くみんなにひらひら手を振る。

 歩き出す。


「よ、よ、ほっ」


 大股で左隣の机。また左。ジャンプ、一列前へ。

 ノートを踏みしめ、筆箱を蹴飛ばし、縦横無尽に。


 机上きじょうの人が教室を渡る。


「え、で、次にこの角度と角度を、思い出して……」


 信じ難いことにシバタはまだ板書していた。

 『授業ゴミを提供する代わりに生徒の態度には目をつむる』、そういう暗黙のルールだけど。でも、今はそんな場合じゃないよ!


 みんなも大騒ぎはしない。ノートに靴跡をつけられた子たちはムッとしてマナちゃんを睨むけど、文句は言わない。そういう子は全員、あの……物静かで声を上げられないから。子の机には決して近寄らず、友達のそばに行ったら微笑ほほえみかけ、彼女は順調に教室の前へと進む。


 これは無意味な奇行じゃない。マナちゃんは決まったルートを辿り、に行こうとしている。それがわかるから、みんな事の成り行きを見守っているのだ。


 ザアン、パラパラ。

 筆箱が着地の風圧で落下、ペンが漏れ出て飛び散る。その中の一本がマナちゃんのスラックスの裾に跳ね返って、持ち主のちびっちゃい男子の目元に当たり「キャン」とかわめく。

 誰かが、ふっ、と吐息に似た声を漏らした。


「犬かよ」


 と、マナちゃんがあざければ、教室のあちこちから、ふっ。結局、鳴いたやつまで苦笑する。

 ここにあの子を止める者はいない。



「だ、ダメだよ、マナちゃん」



 だから、気付くと足が動き彼女を追っていた。

 これはよくないことだ。それに予感がするのだ、悪い……とても悪い。


 まあ注意する声はの鳴くようだったけど。


「何が?」


 彼女はのほほんとボクを見下ろす。


「授業中だよ!」


「うーん、聞こえない」


 彼女は耳に手をあておどけたが、その時ついにシバタが振り向いた。


「何してるんだ」


 数学教師はチョークと老いで全体的に灰白く、ごま塩ひげの口元があきれた感じでへの字にひん曲がっていた。


「降りられなくなっちゃって」


「そんなわけないだろ」


 彼はバッサリ切り捨て、右手の甲で眼鏡を直し、チョークを下にす。


「早く降りなさい」


 彼女は答えないで急にしゃがみ、周りにだけ聞こえる声で言う。


に突っ込んだらどうなるか、気にならない?」


 そして、ポカンとするボクらには目もくれず、立ち上がった。

 ボクの肩を足場に隣の二列へ飛び移る。

 そこはほとんど教室の真ん中だ。


「床にクソでかいゴミが落ちてて。私、潔癖けっぺきなんです」


「ふざけるのはやめなさい」


 シバタが声を荒らげる。

 しかし彼女が答えないので、苛立いらだちをつのらせた彼は歩き出した。


「フジモリ」


「はい」


 教室の中心で、二人は少しの間にらみ合う。


「降りなさい」


「嫌です。ゴミが」


「どこにある? 誰か、見たのか」


 シバタが呼びかけても答える者はいない。

 彼が大仰おおぎょうに教室を見回しマナちゃんに背を向けた時、彼女はすっとうでを上げ、シバタの背中を指さした。


 これ。


 くちびるがそう動いて、クラスの何人かが吹き出す。


「おい!」


「別に何も」


 とかとぼけても、シバタが信じるわけない。あぶらくもったレンズ越しでもまなじりが吊り上がったのがよくわかる。


「いい加減にしろ!」


 ついにマナちゃんの腕に手を掛けようとしたけど、ヒラリとかわされる。


「先生、暴れないでください」


「こ、この」


 手が二回三回と伸びるうち、けるマナちゃんの動作が大きくなっていく。腕だけだったのが肩や腰をひねるようになり、ついには半回転を繰り返しフォークダンスみたいになる。


 それに合わせるようにシバタもエスカレートし、両手を広げ大きく身を乗り出すやいなや彼女は身をひるがえしジャンプ。

 体勢を崩した中年男性は机に体をしたたかに打ち付けた。

 

「げーキモッ」


「うぐ、あ、悪い……」



 眼前の女子にうめきつつ謝る姿に、生徒達は爆笑ばくしょうした。



「ミハル」


 不意に名を呼ばれて気分の悪くなる光景からようやく目をはなす。


 声の主は女子で、ボクが立つ場所から斜め後ろの席にいた。

 髪を一つ結びにし、一見すると冷たそうな顔をしている。

 ユキだ。


「もう戻りな」


「うん……」


 ボクの幼馴染おさななじみ騒動そうどうには冷めた様子だけど、ボクはまださっきの言葉が気にかかって、したがう気になれなかった。

 

 ……ゴミをゴミ箱に。


「先生も机に上がったら見えますよ」


「フジモリ!」


 シバタは鋭く叱ったつもりだろうけど、あの醜態しゅうたいの後では形無し。

 しかも本当に机に上がった。


 同じ高さなら体格の分有利と思ったのかもしれないが、何にしても冷静じゃない。

 彼はおっかなびっくりの足取りで、時折机をガタつかせながらも懸命けんめいに生徒の後を追う。


 一方のマナちゃんは相変わらず軽快で、強気の子のそばを避けつつ逆にシバタをその子達の机に追いやってみせる。

 そういう子達はもうこの状況を楽しんでいて、シバタの足が載った瞬間それとなく揺らしたりしてリアクションを笑う。


 元々シバタの授業は不評で、特に勉強熱心な子達からはものすごく嫌われていたけど、マナちゃんにあおられて不満と嗜虐しぎゃく心がごちゃ混ぜのまま一気に爆発してしまったのだ。


 異常な熱狂の中、また彼女が悪戯いたずらっぽく笑って先生を揶揄からかう。頭に来た彼はまんまとある机にいざなわれる。


 そこは窓から一列目、後ろから二番目。

 ソコツネさんの机にシバタの足が乗った瞬間、生徒達は黙った。


「あ……」


 シバタも机の主と目が合い、横向きのまま硬直する。


 ソコツネさんというのはこのクラスにいる本物の怪談のことで、東中トーチュー最大のアンタッチャブルだ。


「……いただき」


 静寂せいじゃくやぶったのはマナちゃんで、そっとソコツネさんの前の席に忍び寄りシバタの眼鏡をうばった。

 

「か、返せ、ぐあっ!」


 とバランスを崩した教師が机から滑り落ちると、教室に盛り上がりが戻る。


 マナちゃんはまた教室の真ん中に戻り、視力を失ったシバタはもう芋虫のようにのろのろと彼女を見上げた。


「フジモリ……返せ!」


 彼女は眼鏡のフレームをギュッと握りしめ、ストーブの方に放り投げた。



 あっ。



 眼鏡は紙屑よりシャープな軌道きどうを描き、異次元の穴に飲み込まれて消える。みんなが眼鏡が消えたことに気付くより先に、彼女は何でもないようにシバタに告げた。



「天井にめりこみました」


「ふ、ふざ……嘘だろ!」


「本当です、ホントホント。強肩きょうけんなんで」


 シバタはクソ、と教師らしからぬ悪態をついて教室の前方、ストーブの近くに行き、近くの生徒の机を掴んでがなる。

 

「どの辺りだ!?」



 



「その辺でーす」


 ようやくその意味が分かった。


「ユキ……机貸して」


「え?」


 答えを聞く前にボクはユキの机に上る。


「何してんの!?」


「先生をと、止めなくちゃ」


 混乱するユキに、ボクも何とか自分の考えを言葉にしてまとめる。


「意味わかんないし、別に机に上る必要無いじゃん!」


「い、良いから!」


 短い足で何とか机に上り切り、膝を伸ばす。

 乾いた喉に唾を何とか流し込み、大声を出す。




「先生!」




 続きを言おうとして。




「そこに……」




 続きを言おうとして。



 ボクはみんながボクを見ているのを見た。


 突然のことに驚き、場がしらけたとウザそうに、みんながボクを見ていた。


 顔を上げると、マナちゃんが“圧”のある笑顔を一瞬ボクに向ける。

 それから背を向け、役目は終えたとばかりに机から――飛び降りた。



「うぐぅ……」


「ミハル!?」


 耐えきれず、その場にしゃがみ込んでしまう。




 ボクは……ちょっと、臆病なんだ……。




 結局シバタはボクに気付かなかった。

 マナちゃんに言われるまま机に上り、天井に触れようと手を伸ばす。


 次の瞬間、悲鳴がとどろいた。




「ぎやぎゃあああああぁぁぁぁぁああああああああああ!!!!」




 みんなに見えたのはシバタの手が一秒かそこら消えたぐらいで、数秒後には床に転がっていたことだろう。





 でも教室後ろのゴミ箱を見ていたボクだけは、理解した。

 ゴミ箱から伸びたシバタの腕が、ちょうどになっていたのを。

 骨が砕けて肉から飛び出し、爪が勢いよくはじけ飛ぶのを。



「ぐぇあ」














「うぐっ」



 目を覚ますとボクはベッドの上で、そこは保健室だった。


 かたわらの椅子いすにはユキが腰かけ、iPodからイヤホンで音楽を聴いている。他には誰もいないようだった。


「何の曲?」


 ボクが声をかけると彼女は驚いた様子も無く、イヤホンの片割れを貸してくれる。




   春は名のみの 風の寒さや

   谷のうぐいす  歌は思えど

   時にあらずと 声も立てず ……



 童謡どうようだ。

 保育園の頃からこういう曲ばかり聞いている。落ち着くって。


「先生とか、マナちゃんは?」


「知らない」


 ユキはボクからイヤホンを受け取ると、ベッドのカーテンを開け窓を指さす。

 もう日が沈みかけていた。


 早く帰ろう。


 すぐ起き上って体は何ともないのを示すと、彼女もベッドに立てかけてあったで立ち上がり、帰宅の準備を始めた。





   氷解け去り あしつのぐむ

   さては時ぞと 思うあやにく

   今日も昨日も 雪の空 ……





 人気ひとけのない校舎を出て、白い息を吐きながら二人で少し歌った。 


 校舎の裏手の坂を上ると住宅地の間から地の果てにのっぽな山脈が垣間見かいまみえる。その八ヶ岳やつがたけはほとんど闇にまれ、頭だけが煌々こうこうと真っ白。

 雪解けはまだ遠く、積雪も年明けからが本番だ。


 パタパタ、と微かな異音を聞いたボクは振り返り、南校舎の端の方を見る。


 それは地面に張られたブルーシートが風にはためく音だった。

 シートは今年の春先に跡を隠している。


 西校舎から人が降った後、ボクやユキ、マナちゃんのいたテニス部は廃部になった。


 今日も昨日も雪の空。



 マナちゃんは今日が一回目と言っていた。



 来年も誰かが降るのかもしれない。



 ボクが止めなくちゃ。



 となりで足を引きずり歩くユキを眺めながら、そう決めた。

 

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