往時渺茫としてすべて胡蝶の夢なり

采火

往時渺茫としてすべて胡蝶の夢なり

 とても高くて、赤くて、尖っている塔に君は立っている。

 眼前に広がるのは、濃淡がある黒色の街並みを色づける人工の光。

 誰も見たことのない、君すらも見たこともない、時代遅れの電波塔の最上階の景色は、君が今いる時間を特別だと思うのには充分だった。


 赤い鉄骨を伝ってぐるりと一周する。細くて不安定な足場だけど、君は落ちる気が全くしない。

 だってもしかしたら、君は鳥かもしれないから。赤い鉄骨を歩く二本の足とバランスを取る二本の腕は無くて、代わりに木の枝のような三つ足とふさふさな翼が生えているかもしれない。

 鳥だと思えば歩くのが億劫になった。

 君は歩くのを辞めて飛んでみた。

 その場で垂直に跳ねてみるけど、うまく飛べない。滞空できない。でも、頭上にある鉄骨に危うくぶつけそうなぐらいに跳び上がった。


 もしかしたら君は兎だったのかもしれない。羽を休めるための三つ足と優美な翼の代わりに、ピンと立った長い耳と高く跳躍できるバネのような足があるのかもしれない。

 兎だと思えば色んな音が聞こえる気がした。

 君は跳ぶのをやめて耳を済ませてみた。

 ごうごう叫ぶ風の音に紛れて誰かの声が聞こえる気がする。「起きなさい」「遅刻するわよ」と聞こえるけれど、君は電波塔の兎だ。電波塔の兎がどこに遅刻するというのだろう? 各ご家庭のテレビチャンネルに影響を与えてしまって、楽しみにしていたテレビ番組が遅刻してしまったのだろうか? それなら申し訳ないことをしてしまったかもしれない。

 各ご家庭に謝りに行こうと思った。

 でも君は兎だ。さすがの兎も、こんな高い電波塔から落ちてしまえば死んでしまう。


 君は赤い鉄骨の上で膝を抱えて座った。

 膝を抱えて落ち込んで、ふと自分が人間だったことを思い出す。

 人間だったことを思い出せば後は簡単だった。


「おーい、誰か助けてー!」


 そう、君は言葉を話せるのだから助けを呼べばいいのだ。

 でも赤い電波塔の上には誰もいない。

 誰も知らない、君さえも知らない場所を誰が知っているというの?


 ここが特別な場所、特別な時間だということを思い出して、君は焦りだす。


「助けてー! 助けてー!」


 助けを呼ぶけど、夜の街はみんな眠っているから君に気づかない。

 君は身を乗り出して叫んだ。

 身を乗り出した拍子に、つるりと足が滑る。赤い鉄骨ではなく、空気を踏んだ。


 君はくらりと視界が回る。大きな満月を背景に、赤い電波塔のシルエットが見えた。

 思考だけがその場に取り残されるような無重力感に、ぞっとする。命綱もなにもない落下運動の結末に体が震える。


 君は助けを求めて電波塔に手を伸ばす。

 伸ばした手に肉球が見えた。

 これでは何も掴めない。


 絶望に顔を歪めようとして、ふと気づく。

 もしかしなくとも君は猫だったのかもしれない。

 猫だったら高いところからも余裕で飛び降りることができる。

 さぁ、肉球を構えて、背中を反らして、勢いをつけて体をくるりと宙返り。


 びゅうびゅううるさかった風がふと止まる。

 あれ? と思ったときには、肉球ではなくて君の頭が地面と衝突してしまった。



 ◇



「いったい!」

「ようやく起きた! 早く支度しないと遅刻しちゃうわよ!」


 ベッドから落ちて頭をぶつけた君に、お母さんが小言を言いながら布団を捲っている。

 君が寝ぼけ眼をしぱしぱさせていると、お母さんは呆れた様子で部屋を出ていった。


 君はぐるりと視界を巡らせる。

 そこは電波塔の天辺なんかじゃない、雑然とした君の部屋だ。


 君はのっそりと立ち上がると、よれよれのパジャマのまま顔を洗いに洗面所へ行く。

 洗面所に立つと、鏡に君の姿が映っている。

 二本の足と二本の腕を持つ、眠たそうな顔をした君。


 やっぱり君は人間だった。

 安心した君は、しゃこしゃこと歯を磨いて、ざばざばと顔を洗って、お母さんが待つ朝食の席へと移動する。


 でも本当はちょっとだけ疑っているかもしれない。

 君は本当に人間なのだろうかって。


 鳥だったような君も、兎だったような君も、猫だったような君も。

 全部君だっただろう?


 往時渺茫としてすべて夢に似たり。

 荘子が見たのは胡蝶の夢。


 君が見た夢は過去の事かもしれないし、別の君の一面なのかもしれない。

 そして今目覚めたばかりの君は、昨日の自分と本当に同じだろうか。


 昨日の自分を脱ぎ捨てて、夢で色々な自分を見た君は、意外な自分の一面にも気づけるはず。

 そうして朝を迎えれば、心機一転、今日を精一杯生きることだろう。


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往時渺茫としてすべて胡蝶の夢なり 采火 @unebi

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