最終章 ラブコメを破る者とラブコメを装う者
ラブコメを破る者とラブコメを装う者(1)
気づけば、見知った天井だった。
泥にもぐっている小蟹の呼吸孔のように、ぶつぶつとした模様のある天井。
すうっと息を吸う。無臭ながら、メチルアルコールを嗅いだ時のようにつんと鼻に通るような匂いは、一ヶ月前にも嗅いだ覚えがある。
黒門付病院。どうやら僕はまだ生きているらしい。
ただ先に嗅いだ匂いのなかで、少しだけ爽やかなシャボンの匂いがした。
僕はベッドから身体を起こそうとして、左腹部に凄まじい激痛を覚えた。
「──ッツ!?」
凄まじい痛みに、頭が混乱する。
まさか今動いた途端に、鋭い鉄片が腹部に刺さったのかとすら思った。
倒れ込むようにベッドに背を預けて、荒い息をする。
酸素と二酸化炭素が何度か交換されると、ようやく記憶が鮮明になってきた。
ああ、そうだ。
僕は彼女を脅迫するために自分で腹部を刺したのだ、と。
「起きられましたか」
個室で一人と思っていた僕の耳に、ふと聞き慣れない声がした。
「え、──つううッ」
「ああ、動かないほうが良いですよ。奇跡的に臓器に刺さらなかったとはいえ、腹部の肉を綺麗に貫通していましたからね」
「どちら様で?」
僕は見知らぬスーツの女性に尋ねた。彼女は読んでいた文庫本に紫色をした紫陽花の押し花の栞をさしながら、にこりと微笑む。
小柄で童顔ながら、どこか張り詰めたような緊張感を与える人だ。
「ナースを呼ぶべきでしょうね。・・・・・・ですが、呼んでしまえば、私がカササギさんに訊きたい幾つかのことを知るまで、つまり多くの検査と問診が終わるまで、ふたたび待たなければならない。それは困るんです。お分かりで?」
「・・・・・・刑事さんですか」
「正解」
刑事さんは指を鳴らす。
「今回の件について、ひとつ、ふたつ気になることがありまして。それを訊きたいんですが、まずは結果からお知らせしたほうが良いでしょう」
「・・・・・・」
僕は黙りこむ。
いや、黙らせられたというべきか。
「そうでは早速。──貴方の先輩、大神匡子さんですが、無事保護しました。彼女の両親は傷害罪で起訴、彼女は警察と養護施設が連携してケアに努めます」
「・・・・・・そうですか」
「驚かないんですね」
僕は黙秘をする。
「驚かないでしょうね」
刑事さんはいう。
「いつ頃、気づかれたんですか?」
「刑事さんは」
「はい?」
「知っていることを態々訊くのが業務なんですか」
すると刑事さんは破顔した。
「勿論です。イエスやノーではなく、当事者の証言が必要なんです。・・・・・・でも今回ばかりはあまり必要もないですが。じゃあ今回ばかりは特別に、私が大神さんの供述を訊いた上で、貴方が起こしたアクションの意図を詳らかにしましょう」
刑事さんは文庫本を窓の桟に立て掛け、居住まいを正した。
「まずカササギさんが彼女の虐待を知る切っ掛けは、ゲリラ豪雨があった朝、社会調査研究部に始めて訪れた日、奇しくも彼女の着替えを見てしまったときですよね。貴方は彼女の身体に釘付けになったはずだ」
「そりゃあ思春期ですから」
「そう? 思春期を過ぎた私でも釘付けになったわよ。──あの生傷は」
僕があの日、社会調査研究部で見たもの。
それは〝ころう〟先輩と呼ばれていた大神匡子のあられもない姿と。
背中や腕、およそ服に隠れる至る所で鬱血し、歪んだ生々しい暴行の痕だった。
その中には酷く腫れて膨らんだ生傷も散見できた。
あの日の朝も、先輩は虐待を受けていた。
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