取り返しのつかないラブコメ(5)

「大人になっても幽霊は恐いか」

 幽霊話を聞いた途端、大神教諭は早々と校舎に戻っていった。

 僕は軋む板張りの廊下を歩きながらコロコロと笑った。しかし徐々に薄気味悪く思えてきた。七瀬ちゃんから購入した数珠を握りながら、苦々しく笑う。


「幽霊、本当にいるのかな」

 僕は特定の宗教に帰依していない無神論者だが、かといって彼岸や盆に菩提寺に参り、初詣や観光地で神社に柏手を打つ程度の信心はある。だから神様もほどほどに信じるし、祖霊もほどほどに奉る。だからまあ、幽霊譚というのも話半分に聞きつつも、人知れない夜道に視線を覚えたりすることもある。


 幽霊は恐い。

 だが、今回の恐怖はそういうのとは趣がやや異なる。


「本当にいるのか。部室に」

 言ってみれば口から出任せだったのだ。本校に入学して一ヶ月余り。旧校舎に纏わる恐い噂など一度も聞いたことなく、むしろ興味本位で聞き回って徒労に終わった過去がある。だから大神教諭に冗談で言ってみたものの、あの反応を見る限り、自殺者のひとりやふたり居そうな気がする。

 

 部室棟は入り組む形ではなく、渡り廊下と接地している箇所から角部屋の社会調査研究部の部室まで真っ直ぐ一直線で結ばれている。虫食い防止で塗り込まれたステイン塗料は廊下だけではなく、二階に降りる手摺りや壁面まで光沢のある黒で染めこまれ、薄暗い雨天もあいまって、陰翳だけが古色蒼然とした部室棟を支配していた。

 

 部室が近づいてくる。切妻屋根を叩く雨音なか、僕の足音だけがひどく際だって響く。部室棟の部室扉はすべて掛け金と南京錠で施錠され、鈍いメッキの金色が垂れ下がっている。その全てに鍵は掛かっている。


 僕はぞわぞわと背筋が戦慄き始めた。

 角部屋に近づいていくと、次第に扉から細いカードが飛び出しているのが見て取れた。掛け金だ。角部屋を施錠している筈の掛け金が飛び出し、そこに分銅のような南京錠が垂れ下がっている。

「まじかあ」

 おかしげに苦笑してみるも、口端は恐怖にひきつった。

 自分が吐いた冗談が、まことしやかに立ち現れている。嘘から出た誠。虚構が放言者に仇なす類いの説話はいくつか聞いたこともある。


 微かに衣擦れが聞こえてくる。

 無論、それは解錠された角部屋からだ。

 逃げることもできた。とんずらしても誰も僕を指弾しないだろう。そもそも僕一人しかいないのだから。僕はホラー映画やサイコサスペンスであからさまに怪しい場所に入っていく登場人物をせせら笑うタイプの皮肉屋であるし、かの孔子も「偉い人ってのは危ないのに近づかない人のことだよ」って常々言っている。


 ただ当事者だからこそ分かる。

 ここで逃げても良いけれど、もしも背を向けて歩き出した途端、衣擦れがパタリと止んで、部室の扉がぎぎぎと音を立ててひらき、そこから蓬髪の髪を垂らした女の幽霊が這いつくばって迫ってこようものなら失禁ものである。またそれを想定しつつ、恐怖の根源に背を向けることもまた、かなりのストレスなのだ。

「よし」

 僕はついに意を決した。


 扉を開けよう。案外、部室のカーテンの先端が床にこすれているだけかもしれない。『幽霊見たり枯れ尾花』は現代でも使える標語なのだ。

 むしろ、怖がっているのがおかしい。ここはおどおどせず、胸を張って扉を開けるべきではなかろうか。そして僕の小さな冒険譚として七瀬ちゃんに語り聞かせようじゃないか。

 そうと決まれば勇気も湧く。

 僕はとっておきの呪文と共に、社会調査研究部の扉をひらいた。

 

「ひらけ、ゴマ!」

 

 

 ・・・・・・まず、僕の目に広がった光景を克明に描写する前に、ひとつだけ弁解させて欲しい。このご時世、好奇心は褒めそやされる要素だろう。何事にも関心をもって行動を起こし、成功を掴む。とても素晴らしいことだ。


 だが一方で世の中、慎重さも必要だ。

 古典を紐解くこともなく、『石橋を叩いて渡る』『好奇心猫を殺す』とあるように、物事においては熟慮が求められることがある。それを踏まえずに、好奇心だけを褒めそやすと、このような失敗が生まれるのだ。


 故にこれは日本教育の責任であって、決して僕が罪に問われるものではなく。

 たとえラブコメで使い古されたテンプレートでありながら王道ゆえに欠くことのできないシーンに直面しまっても、一切の責任は僕に依らない。

「──そう! つまり諸悪の根源は義務教育なんですよ、先輩」

 僕は堂々と胸を張った。


 半裸姿で硬直する先輩の前で。

 悪名たかいコロウ先輩の前で。


 おそらく雨に打たれて、びしょびしょになった制服を脱いで居たのだろう。彼女のプライバシーのために、制服の上着はおろか下着までぬいだ彼女の、その露わになった身体の秘密については委細を省こうではないか。

 僕はこうみえても紳士なので。


「・・・・・・・・・・・・へえ」

「お分かり戴けないのは重々承知です。ですが我々は声をあげるべきだ。遍く伝播してしまった日本教育の誤謬を、いま、これをもって打破せねばならない!」


「そうかも知れない。でも物事には順序があると思わない?」

「聞きましょう。聞いてあげましょう。僕はとても良識ある男なので」


「ありがとう。それじゃあ」

 先輩はニコリと笑い。

 部室の扉を閉めると。


 どこからともなく、アーミーナイフを突きつけた。

 

 さて諸君。アーミーナイフとはなんぞや。

 アーミーナイフは直訳すれば軍隊用のナイフである。だがなにも殺傷目的のナイフではない。いわゆる十徳ナイフであり、戦闘用途以外で使うナイフを指すらしい。刃渡りも一般的に想像されるコンバットナイフより短い。

 短い、のだけれど、銃刀法違反に照らし合わせれば、これも歴とした危険物である。

 そもそも銃刀法違反で規定されている刃渡り六センチ以上の刃物というのは、胸に突き刺した時に心臓まで到る距離と言われている。


 で、彼女が所持するアーミーナイフは刃渡り何センチほどあるかというと。

 目算十センチ。一般的なアーミーナイフの二倍ぐらいある。

 勿論、心臓になんなく届く。


「見たわね?」

「とぼけたほうが良いですか」

「とぼけたら殺す。弁解しても殺す。正直に言えば」

「言えば?」

「お前をぶち殺して、私も死ぬ」


 傍から聞けば、熱烈な愛の告白かもしれない。

 だけれども、全力で先輩の右手を制している渦中にあって、それほどまで楽観的で居られるほど、僕という人種はタフじゃない。

「手を、離しなさい」

「離したら離れてくれますか!」

「離れるわ」

「本当ですか?」

「ええ。貴方の身体と霊魂が離れて、ハッピーエンド」

「それハッピーなの先輩だけでしょ。お互いに幸せになりましょう、よ」

「大丈夫。天井のシミでも数えてれば、すぐよ」

「結構です!」

「先っぽ、先っぽだけだから!」

「嘘。絶対、嘘」

「大丈夫、否認するから」

「ちゃんと認知しろ!」

「分かった。責任は取る。責任取って、殺す」

「分かった。あんた莫迦だろう。バーカ、バーカ」


 などとすったもんだしていると、どこからか足音と共に声がした。

「おーい。カササギ。君、部室棟に行くと言っても、部室の鍵もってないだろう」

「七瀬ちゃん!?」

 僕が声をあげた途端、先輩は不意に手を止めた。そのチャンスを、みすみす見逃す僕じゃない。直ぐさま、扉をあけ、廊下に転がりでると、廊下の半ばで立ち尽くしている七瀬ちゃんのもとへ全力で駆け寄る。


「な!? どうしたカササギ」

 まろびつつ、どさくさ紛れに抱きついた僕に七瀬ちゃんは呆れ顔であるが、そんなことなど意に返す暇はない。僕はすぐに後ろを振り返る。

 だが、先輩はどうやら僕を追うことはやめ、息を潜めていた。

「面妖な。あの部室でなんかあったのか?」

「何でも無いよ。なんでもないから、とっととここを出よう。さあ教室まで競争だ。むはははははは」


 僕は七瀬ちゃんを渡り廊下まで強引に引っ張った。

 先輩は僕が渡り廊下につくまで、警戒した獣のように部室という巣穴から出てこなかった。

 しかし部室棟の扉をしめる間際。

 その隙間から垣間見れた部室棟の突き当たりから。

 ぞろり、と。

 先輩が顔を出していた。


 顔をだした先輩は、じっと僕を見つめ、見据え、睨み見据えていた。


 こうして僕は先輩から逃げるように立ち去り。

 先輩は尋常ならぬ殺意を向けるようになり。


 取り返しのつかないラブコメが始まりを告げた。

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