鬼の鎮魂
「いやいやいや、いい見せ物でしたよ、お兄さん。ずいぶん派手にやったもんだ」
コツコツと靴の音が響く。振り向くと、
「お兄さんのおかげで、あのクソ女からもおさらばできましたよ。まったく
爪崎は楓さんの死を心底喜んでいる。収まりかけていた怒りがまた沸き起こるのを感じた。だが、まだこの男からは聞き出さなければならないことがある。
「警察を呼んだのはお前か」
警察は俺が家にいることを知らなかったはずである。なぜなら、長親に俺が神島を出たと伝えるよう頼んだからだ。楓さんは俺が家にいることに純粋に驚いていた。警察も俺の動きに気づいていたとは思えない。この行動は爪崎の単独なものに違いない。楓さんを裏切る機会を探っていたのだろう。
爪崎はそのとおりだというように手を広げた。
「そうです。
俺がうかつだったのか、爪崎の尾行能力が高かったのかはわからない。だが、爪崎の存在を一瞬忘れていたのは確かである。
「
「それもそのとおり。だが、お姉さんのことはあの女が命じたことです。私だって被害者みたいなもんですよ」
爪崎はそう言って苦笑した。確かに楓さんの命令には従わざるをえなかったのだろう。それが主と眷属というものだと六条先生も言っていた。ただ、たとえそうであっても、この男を許せない理由はまだあった。
「お前は桐子を……食っただろう」
爪崎は笑うのを止めた。俺は爪崎のギラついた目をじっと睨んだ。
しばらく沈黙の時間が続いた。
爪崎は降参だとでもいうように両手をあげた。
「それぐらいの役得があってもいいでしょう。あんなに美味しそうなものをただ殺すだけなんてもったいない」
そう言って、爪崎は舌なめずりをした。嫌悪感を隠せずに俺は顔を背けた。
「
「あの子については少しイレギュラーでした。まさかこの街まで追いかけてくるとはお兄さんも愛されたものですね。私は楓に連絡を入れて言われたとおりに行動しました。六条ミズキを呼び出すタイミングも慎重にね。あの子がまだ死んでいなかったのは意外でしたが、まあ何とか上手くいきましたよ」
――殺してやる。
「おや怖い目だ。ですがね、楓がいなくなった今、目障りなのはお兄さんだけなんですよ。――だから死んでください」
爪崎の体が変形していく。体は大きく膨張し、顔は犬のようになり、大きな牙が突き出ている。手足の爪が鎌のように光り、そして全身を毛が覆った。
――長親が言ってたとおり狼男だな。
静かな怒りと悲しみの感情が俺を鬼へと変えていく。俺は自ら鬼と化すことを選んだ。これで最後にしなければならない。
俺と爪崎は距離をあけて睨み合った。
「こうしてやり合うのはなんだかんだ言って初めてですね。最高のシチュエーションです。手を出さずにおいてよかった」
爪崎の声は非常に楽しげだった。よほど自分の力に自信があるのか。本当に楽しんでいるだけなのか……。
そんな事を考えていると爪崎の姿が消えた。
――後ろか!
そう思ったときには背中に激痛が走った。背中を爪でざっくりとやられたようだ。生温かいものが背中を流れていくのがわかる。本能で動いていなかったらすでに死んでいたかもしれない。振り向くと爪崎は追い打ちをかけてきた。
――そうはいくか。
俺は爪崎に殴りかかった。そのスピードは人間離れしていたが、爪崎は簡単に避けた。
「遅い、遅いですよ! こんなものですか!」
爪崎の刃が俺の胸をかする。血しぶきがあがった。
何度殴りかかっても爪崎に届くことがない。逆に到るところを切り刻まれていく。
俺と爪崎には圧倒的にスピードの差があった。治癒能力がなければ、俺はとっくに倒れているだろう。
このままではジリ貧である。
――何か、何か手はないか。
俺は部屋の中を隅々まで見回した。
そのとき足に何かが当たった。爪崎は再び姿を消した。俺は足元にあった銃を手にとり、全方位に撃ち込んだ。弾が無くなるまで撃ち続けると、その中の何発かが当たったようだ。苦しそうな声が聞こえた。
「さすがに、銃弾までは避けることはできませんよ。まったくしぶとい人だ」
爪崎は血を吐いている。勝負はここからだ。俺は爪崎が動くより先に攻撃に転じた。大きく咆哮をあげる。
「があああああああああああああああ!」
爪崎は避けてはいるが、先ほどまでの余裕はない。それでも、その刃が俺を襲う。手足から血を流しながらも俺は腕を振り続けた。
どれぐらいの時間が経っただろう。お互い疲れを隠せなくなった頃に、俺の拳が爪崎の胴に当たり、爪崎は壁をぶち破って吹き飛んで行った。
――やったか。
たしかな感触はあった。俺は確かめるために壊れた壁の向こうを伺った。ごそごそと音がする。まだ、くたばっていないようだ。俺は気を引き締めた。
「
思わぬ声に俺は焦りを覚えた。
爪崎は血だらけになりながら、
――まだ逃げていなかったのか。
「くはは、まだツキは私にあったようです。どうやら、力では私はあなたに敵わないらしい。なので、頭を使うことにしました。卑怯とでもなんとでも言ってください。どうせ、あなたは死ぬのですから。さあ、こいつらを殺されたくなければ、そこの銃で自殺してくださいよ」
悪人らしい言葉を吐く爪崎を俺は歯ぎしりをして睨んだ。俺が自殺したとしても、二人は助からないだろう。どうするべきか。焦る俺を見て、爪崎は心底嬉しそうだ。
「早くしてください。あと十秒で決めてもらわないと、この女から死んでもらいますよ」
涼宮先生が怯んだのがわかった。だが、その目は俺をしっかりと見つめている。
「ジョー君、私のことはどうなってもいいわ。
爪崎は涼宮先生の顔を舐め上げた。涼宮先生は歯を食いしばっている。
「十、九、八、七、六、五、ほらほらどうしたんですか」
――どうすればいいんだ。
「四、三、二、一、時間切れです」
涼宮先生が食われるところを想像して恐ろしくなった。
「やめ――」
俺は何とか手を伸ばそうとした。
「時間切れはあなたのほうよ、この変態」
その声に俺も爪崎も唖然とした。どこから聞こえたのかわからない。だが、聞き慣れた声だった。
爪崎は動けないでいた。その胸から手が突き出ている。手が抜かれると胸にぽっかりと穴が空き、爪崎は糸が切れたように倒れ込んだ。
「馬鹿な……お前は死にかけていたんじゃなかったのか……」
爪崎は信じられないというように、自分を貫いた相手を見ていたが、頭を潰されて目玉と脳症を飛び散らせると何も言わなくなった。爪崎が倒れた後ろに血に濡れた美しい鬼がいた。鬼はじっと俺のことを見ていた。俺はこの美しき鬼を知っている。
「
名前を呼ぶと、鬼はゆっくりと人の形に戻っていった。
「丞ちゃんのおかげだよ」
「俺のおかげ?」
俺は身に覚えがなかったので、唖然としてしまった。
「丞ちゃんが私に血をくれたんでしょ。病院のベッドで目を覚ましたら傷は治ってた。そして、自分が鬼になったことがわかったんだ。だから病院を抜け出してきたの。この家を探すのに時間がかかっちゃったけど、間に合って良かった」
桜を病院に運んだとき、桜は出血が激しかった。すぐに輸血が始まったが、血液が足りなかったため、同じ血液型の俺の血も輸血して欲しいと頼んだ。それが、まさか桜を鬼にしてしまうとは思いもよらなかった。
「桜、無事で良かった。でも、俺のせいで鬼になんてなってしまって……」
桜は近づいてくると俺の胸に抱きついた。
「前にも言ったでしょ。私、丞ちゃんと同じ血が流れていて嬉しいの。だから謝ることなんてないんだから」
なんと心地よい声だろうか。俺は桜の声を聞くたびにどんどん惹かれていくのがわかった。このまま桜と抱き合っていたい、そう思っていたときだった。
「ジョー君! 柚ちゃんが息をしてないわ!」
――え?
涼宮先生の悲痛な声に我を取り戻した俺は桜の手から逃れて、
「その女はもう助からないよ」
桜の言う通り、たしかに柚葉の命は消えかかっていた。
「そんな女放っておいて、一緒に村に帰ろう。村で静かに暮らそうよ」
桜の提案が魅力的に聞こえた。だがそれに答えることはできない。返事をしない俺に桜は苛立ちだしたようだ。
「どうして……どうしてそんな女に固執するの。丞ちゃんを一番愛しているのは私なのよ」
俺は桜の言葉に首を振った。
「自分が鬼だと知ったあの日、俺は絶望したよ。幽霊のようにこの街を歩いていた。そんなときに柚葉に出会ったんだ。柚葉はもう一度俺に人の温もりをくれたんだ」
俺の話がつまらないというように桜は鼻で笑った。
「でも、その女はただの人だよ」
「そうだな。なのに、俺の姿を見てもいつもどおりだった。化物の俺を愛してくれた」
その言葉は桜を傷つけるものであることは承知だった。桜は黙った。
俺は柚葉を助ける方法を必死で考えた。考えた末に一つの可能性を見つけた。
「俺は心を操る鬼。心を吸い取ることができるなら、与えることもできるはずだ。かつて母さんが俺にしてくれたように」
俺の言葉の意味を理解したのか、桜が悲痛な声をあげた。
「だめだよ! そんなことしたら丞ちゃんが消えちゃう!」
俺は柚葉を抱き上げた。そして、いつかの劇のようにゆっくりと唇を合わせた。
「やだ! 丞ちゃん! いかないで!」
桜の声が遠くなっていく気がした。体が何かに包まれているように温かい。
気がついたとき、俺は白い世界にいた。そこはとても美しく優しかった。だが、果てしなく広く、俺はどちらへ向かえば良いかわからなかった。とにかく走り続けた。走らなければならなかったのだ。
もう、時間がわからなくなった頃、誰かに呼ばれた気がして、後ろを振り向いた。
――柚葉。
「ジョー君はバカだなあ。助けて欲しいだなんて頼んでないのに」
柚葉は困ったような顔で足元を見ていた。俺は周りを見渡した。柚葉と俺以外なにもない。でも、ここがどこかはわかっていた。柚葉の心の中だ。柚葉らしい白くて優しい世界。
「どうしても、もう一度柚葉に会いたかったんだよ」
俺は柚葉に近づこうと歩きだしたが、柚葉との距離が縮まることはなかった。どれだけ手を伸ばしても柚葉に触れることができない。
――どうして。
「ここは私の心の世界。私が望まないことはできないの」
柚葉は寂しそうな声でそう言った。俺はそれでも柚葉との距離を縮めようと走った。
「柚葉、君は俺のことを好きだと言ってくれた。こんな化物の俺のことをだ」
柚葉は俺の顔を気に入らないというように睨んだ。
「ジョー君はばけものなんかじゃないよ。誰よりも素敵で優しい心を持った人。だから私は好きになったのよ」
「俺はその返事をしていない。俺も柚葉のことが――」
「もう、いいの。私はジョー君に気持ちを伝えられただけで十分。もう何も思い残すことはないよ」
柚葉は満面の笑みを俺に向けた。
「嘘だ。だって君は泣いているじゃないか」
柚葉は目元に手をやった。その手に涙が落ちる。
「え、どうして……私、本当に満足してるんだよ。ジョー君に会えて、ジョー君と過ごせて、ジョー君を愛することができたんだもの。これ以上望んだらバチが当たっちゃう」
そう言いながらも、柚葉の涙は止まらなかった。
「柚葉、俺は君にもう一度触れたい。そして俺の気持ちを伝えたいんだ。覚えているかい。傷だらけになって柚葉の家に運ばれたとき、柚葉はすごく驚いていたな。俺はとても嬉しかった。あのハンカチだけは返そうと思っていたからさ」
柚葉は覚えているというようにこくこくと頷いた。白かった世界に様々な映像が流れていく。
「あのときのジョー君、ひどい顔してた。でも、もう一度会えて私も嬉しかったよ」
「それに一緒に学校に行くことになってさ、学校のやつらにどういう関係なんだって問い詰められたよな」
「そうだね。私は構わなかったのに、ジョー君はすごく気にしてた」
「涼宮先生の料理を一緒に食べたな。あれはさすがに多すぎたと思うぞ。あんなことになるなんて教えてくれたらよかったのに」
「すみれちゃんはとても楽しそうだったんだもの。それにジョー君の驚く顔が見てみたかったの」
「文化祭は大変だった。お互いコンテストになんか出ちゃってさ、長親なんて倒れちゃったし」
「私のメイド姿を褒めてくれたよね。本当に嬉しかったなあ」
「それから一緒に劇をやって、その、キスまでしちゃったよな」
「あのとき、お姉ちゃんからジョー君とキスができるかもって言われて真っ赤になっちゃった。本当にすることになるとは私も思ってなかったけど、今はしてよかったと思ってる」
「桐子が突然来て迷惑かけたよな」
「お姉ちゃんが二人もいるような気がして不思議だった」
「みんなで温泉にも行ったよな。俺は温泉なんて初めてだったからはしゃいじゃったよ」
「ジョー君、本当に楽しそうだった。また、みんなで行きたかったな」
「それから……」
「悲しいこともたくさんあったね。ジョー君のそばにいてあげたかった」
「村に帰ったときはもう二度とこの街に帰ってこられないんじゃないかって思ってた」
「そのときが一番苦しかったよ。離れ離れになりたくなかった」
「神島に戻ってきて最初に思ったのは、柚葉の料理が食べたいってことだったよ」
「本当なら嬉しいな。ジョー君が美味しそうに私の料理を食べてくれるのが一番幸せだった」
「でも、それから辛いことばかりだった。六条先生も楓さんも消えてしまった……」
「ジョー君のせいじゃないよ」
しばらく無言が続いた。思い出話はここまでというように目を閉じた。柚葉と出会ってからの記憶が鮮明に思い出される。次に目を開けたとき、世界は光り輝いていた。柚葉の涙は止まり、笑顔が浮かんでいた。
俺は覚悟を決めた。
「それでも、俺は柚葉だけは助けたい」
「ジョー君……」
「柚葉、俺は君のことが好きだ。だから君を助ける」
「本当、バカなんだから……」
伸ばした手が柚葉の手を掴んだ。そして俺たちは二度目のキスをした。
俺の意識は消えた。
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