鬼の錯乱
「実家のほうはどうだったの」
昼食の席で、
「家族で桐ねぇをちゃんと送ってきたよ」
俺はとりあえず無難な答えをした。だが、ここに遠慮のない人がいることを忘れてはいない。
「桜ちゃんだったかな。君のせいで傷ついたと言われている子だね。ちゃんと会えたかい?」
「桜とは会えました。話もしっかりしてきましたが、まだまだ昔のようにはいきません」
楓さんにとってつまらない答えだったのだろう。「そうかい」とだけ言ってパスタを口に放り込んだ。少し気まずい雰囲気になりかけたが、空気の読めない
「
柚葉と涼宮先生がちらりと俺の顔を見た。楓さんは相変わらずパスタを頬張っている。実家に帰りたくない事情がある限り、
「まだまだ、お前とバカなことをやり足りないよ。それに若者は学校へ行くのが一番なんでしょう」
かつての楓さんの言葉を言うと、楓さんはやっと俺の方を向いて、そのとおりというように親指をビシッと立てた。楽しい話題になったことに安心していた。そして、油断していたのである。
「ミズキ先生も心配してたんだよ」
柚葉の言葉に俺は固まった。そんな俺を涼宮先生が不思議そうな顔で見ている。学校の話題になった時点で
――だめだ。六条先生が犯人だとまだ決まったわけじゃない。みんなには気づかれないように情報を集めなくては。
「そうだな。六条先生にも心配かけたし。六条先生は何か言ってなかったか」
俺の質問に楓さん以外は何かあったかと考えているようだ。
「特に何も言ってなかったけど、最近、帰るのが早くなった気がするわね。何か用事で忙しいのかしら」
涼宮先生の話は少し気になるところである。用事があるとしたら、猟奇殺人事件がらみの可能性が高い。犯人を追っているのかもしくは……。
神島に戻った夜、その出来事は不意に起こった。夕食を食べ終わって、部屋でくつろいでいたとき、電話が鳴った。ディスプレイに表示された名前を見て、俺は息を呑んだ。
「もしもし……桜か」
「丞ちゃん? 良かった。出てくれて」
「書き置きを見ただろう。俺はもう神島にいるんだ」
「うん、わかってる。だから私も神島に来たの」
――なんだって。
「丞ちゃんと離れたくないっていうのもあったんだけど、やっぱり犯人は私が殺そうと思ったんだ。丞ちゃんは優しいもの。きっと殺せないよ」
俺が神島へ行くことは伝えてあった。桜が後を追ってくるという可能性を考えていなかったのはあまりにも甘いことだった。今の桜では何をするかわからない。
「犯人を殺すって言ったってどうやって。誰が犯人かもわかってないんだぞ」
とりあえず、なだめて会う必要があると思った。しかし――
「私、犯人の名前を聞いたの。六条ミズキ。丞ちゃんの担任の先生なんだって? 丞ちゃんまで騙して許せない!」
桜の静かな激情を聞いて、俺はひどく後悔した。あの男が桜を放っておくはずがない。
「待て、それを教えたのは
必死で訴えたが、桜は聞いているのかわからない。
「証拠を教えてくれたわ。間違いなく六条ミズキが犯人なの。だからこれから会いに行くことにする」
「やめろ! 桜、今どこにいるんだ。これからそっちへ行くから待っているんだ」
桜は今の状況に相応しくないように笑った。
「ふふふ、待てないよ。もうすぐお姉ちゃんの復讐を果たせるんだから。待っててね、丞ちゃん」
その言葉を最後に電話は切れた。
なんということだ。桜がこの街に来て、復讐を果たそうとしていたなんて考えもしなかった。いや、考えられることだったのに俺が逃げていただけだ。桜を置いてきた結果がこうなってしまうとは。とにかく、桜を止めなくてはならない。
俺の電話の声が大きかったからだろう。長親がドアをノックして部屋に入ってきた。
「こんな夜分にどうしたんだい。誰かから電話かかってきたみたいだけど、丞が大声だすなんて珍しいよね」
長親に説明している暇はない。俺は長親に出かけてくるとだけ伝えて、部屋を出た。背中から慌てる長親の声が聞こえたが無視して桜を探しに街を走った。
闇雲に街を探していていたが、桜は見つからない。焦ってきたところに、また電話がかかってきた。桜かと思ったが
「もしもし、丘山だが至急連絡したいことがある」
「なんですか? 今忙しいんですが。そうだ! 丘山さん、桜がこの街に来ているんです。事件の犯人に会うと言っていました。なんとか見つけることはできませんか?」
しばらく沈黙が続いた。何を考えているんだ。
「その桜さんだが……犯人にすでに会ったようだ。重傷で意識がない。危ない状態のようだ。至急神島病院に来てくれないか」
あまりの衝撃に電話を落としそうになった。間に合わなかったのか……。俺は力が抜けていくのを感じながら「わかりました」と答えて、病院への道を走った。
病院には警察の姿が見られた。集中治療室に向かうと丘山さんがこっちだというように手招きをした。
「桜さんは今手術中だが、助かるかどうかは微妙らしい」
――桜が死ぬ? たとえ桜が壊れているとしても、そんなことは耐えられない。本当の兄妹のように育ってきたのだ。あの優しい声を思い出す。
犯人に対する憎悪が満ちていく。
「犯人は見つかったんですか」
丘山さんは疲れた顔をしている。
「我々が現場に向かったとき、桜さんの傍らに一人いたのを確認している」
警察が踏み込んだとき犯人がまだそこにいたというのか。
「それが誰かわかっているんですか」
「この間、心を強く持ってほしいと言ったね。今回もそれを願うよ」
とても嫌な予感がした。何かを決定づけるような予感が。
「六条ミズキ。彼女だよ」
めまいがして、俺は椅子に座り込んだ。六条先生と直接話をしようと思った矢先である。爪崎が言ったことは本当だったのか。
「申し訳ないが逃げられてしまった。今、指名手配をしているが、まだ見つかっていない」
そうか、先生は逃げたのか。逃げてしまったのか。警察にまだ見つかっていないのは好都合だ。俺が先にみつけて……どうするんだ? 頭の中に芽生えた考えを必死で消そうとした。このままでは鬼である自分を抑えられそうにない。
「彼女は君たちに接触する可能性がある。しばらく警察のほうで警護を――」
丘山さんの言葉を聞かずに俺は走り出した。丘山さんが止めようとする声が聞こえるが構うものか。病院を出て、一直線にあの場所へ向かった。
学校は真っ暗で音ひとつしていなかった。そんな中、階段を登る俺の足音だけが響く。屋上へのドアを開けると、六条先生はいつもどおり手すりに体をあずけていた。
「きっと、君はここに来ると思ったわ」
見つけられたというのに六条先生に焦りはないようだった。ここから逃げる自信があるのかもしれない。それとも、俺のことも殺す予定なのだろうか。
「どうして桜をあんな目に合わせたんですか。桜は桐子の復讐をすると言っていた。やっぱり先生が犯人なんですね」
先生は顔を伏せているので、その表情はわからない。ただ、寂しそうだと思った。
「爪崎という男に言われたのね。状況から見て私が何を言っても信じてもらえないでしょうけど、私は桐子さんを殺してもいないし、桜さんを傷つけてもいないわ」
「そうですね。信じることはできない。だから俺が先生を殺します」
体が変化していくのがわかった。六条先生はコントロールしろと言ったが、今ばかりはできそうにない。ただ先生を殺すことだけを考えた。眼の前が赤で染まっていく。
先生は冷静さを保っているようで、一歩も動かない。
「今、わかったことがあるわ。あなたがどうして鬼の風貌になるかならないかという話をしたわね。それは傷つけられた対象と鬼の血が繋がっているかどうかということだわ。柚葉や涼宮先生の事件のときは見た目は普通だったらしいけれど、桜さんや桐子さんのことでは鬼と化しているわ。血脈を守ろうと本能がそうさせるのでしょう」
こんなときに六条先生は何を分析しているのだろうか。俺をなめきっているのかもしれない。さらに頭に血が登った俺は六条先生に向かって腕を振るった。しかし、その腕が六条先生に当たることはない。何度も何度も腕を振るった。しかし、すべて躱される。
「少し痛いけど我慢してちょうだい」
そう言って、先生は俺の脇腹に蹴りを入れた。俺は吹っ飛び痛みに苦悶した。
「私には経験があるわ。いくら強いからといっても素人のあなたでは私には敵わない」
俺はなんとか起き上がって、また殴りかかったが、ひらりひらりと躱されたうえ、またもや蹴りをくらって吹き飛んだ。次に起き上がったときには先生は屋上にいなかった。
――逃げられたか。そう思ったが、それは間違いだった。空を見上げると、六条先生はそこにいた。大きく黒い羽を広げて空に浮かんでいたのである。
「あなたでは私を殺すことはできないわ。冷静になりなさい。今から、あなたに今日あったことを話すから聞いてちょうだい。そうね、どこから話そうかしら。私はあなたが実家へ帰ってからも事件の犯人を追っていた。警察のネットワークも使って、すぐに爪崎という男が桐子さんと会っていたことを知ったわ。あの男はあなたたちにも頻繁に接触していたらしいわね。そして、爪崎が私のことを調べていたことも知っているわ」
――何を冷静に語っている。俺は頭に血が登って何がなんだか判断できない。そんな俺を見下ろしながら、六条先生はたんたんと続けた。
「今日、桜さんから私に連絡があったわ。夜に会って確認したいことがあると。桜さんが神島へ来ていることは驚いたけど、彼女は私をお姉さん殺しの犯人だと思っている。だから連絡してきたのだと思ったわ。そしてきっと爪崎に騙されている。誤解を解いて、爪崎から引き離さないと危険だと思って、約束した場所へ行ったわ。だけど、すでに桜さんは虫の息で倒れていて、そこに警察がタイミングよく踏み込んできた。騙されたと理解したのはそのときだったわ。これはきっと犯人の仕業。桜さんを利用して犯人はあなたに私を殺させるつもりなのよ」
――わけがわからない。爪崎は六条先生が犯人だと言った。桜もそう聞いたと言っていた。証拠もあると。そうだ、証拠だ。
「先生、その証拠はあるんですか……桜は先生が犯人だという証拠を知っていると言っていました。爪崎は先生が難病の少女を助けた話も知っていました」
先生は腕を組んで顎に指を当てた。先生が考えるときのクセだ。
「そう……なるほどね。どうしてこうなったのか繋がった。丞、もうひとつ大事な話をしておく必要があるわ。私が助けた少女のことだけど――逃げなさい丞!」
「撃て!」
先生が何かを言いかけたとき、屋上のドアに無数の光が見えた。そして、すぐに痛みとなって俺を襲った。苦痛に悶ながら屋上を見渡すと、自動小銃のようなものを持ち、見たこともない服装をした複数の人が俺を囲んでいた。その表情は俺を侮っているようでもあり、恐れているようでもある。
――あの銃で撃たれたのか?
本物の銃を初めて見た俺はすぐには理解できなかった。しばらく呆けていたが、ドアから入ってくる人に目が止まった。
「丘山さん……」
丘山さんはいつもの古びたコートではなく、他の人たちと同じように防弾チョッキのようなものを着ている。
「まさか、君が化物だとは思ってもいなかったよ。驚きだ。そこの女はずっとマークしていたのだけれどね」
そう言って丘山さんは地面に落ちた六条先生を睨んだ。六条先生も撃たれたようで、苦悶に満ちた表情で丘山さんたちを睨んでいる。なにが起こっているのかわからなかった。
――いったいなにが。
「私は警察局のしがない課長だがね、もう一つの役職を持っている。『警察局
特殊部隊。桐子の資料の中にその名前があった。本当に実在していたとは……。
「七幸丞君。君は非常に真面目でいい子だ。今だって私はそう思っている。だが異形である限り、放っておくわけにはいかない。ここで殺されるか、私たちと一緒に来てもらうか選んでくれ」
――殺される。なんでだ。俺はただ桐子と桜の復讐をしたかっただけなのに、なんで俺が殺されなくちゃいけないんだ。理不尽な通告に俺は怒りを覚えた。さきほど撃たれた痛みはすでにない。
「やめたまえ。次は生かしてはおけない。どうか投降してくれないか。投降してもらえれば、もちろん研究対象にはなるだろうが、苦しむことはない。私が保証しよう」
もう丘山さんは俺のことを人として見ていない。その表情からは何も読み取れないが、かつてのような温かいものは感じられない。心を強く持つように……。
俺は軽く笑って、丘山さんに向かって突進した。
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