鬼の困惑
桜は確実に壊れている。
桜の口から「殺して」などという言葉が出てくることは考えられなかった。俺はこの家にいることに恐怖を感じだしていた。
しかし、桜はそんな俺を逃してはくれなかった。桜は俺が村を出ると言ったあの日から俺に異常な好意を持つようになっていた。荷造りがもう少しで済むかという頃、桜は俺の首に手を回してきた。背中にあたる膨らみを意識せざるを得ない。桜はきっとわかってこうしているのだろう。そして、甘い声で言うのである。
「
俺は戸惑って「そうだな」としか答えられない。
「それにお姉ちゃんのかたきが殺されるところを私も見てみたいな」
背筋が凍った。さきほどまで感じていた膨らみなど、もうどうでもよくなっていた。とにかく桜から離れなければならない。そのことが頭を支配した。
荷造りができ次第、俺は書き置きを残して早朝に逃げるように家を出た。桜はまた独り置いていく俺を恨むだろう。だが、これ以上一緒にいても、良い方向に進むとは思えなかった。
神島に着いたのは午後を回ったときだった。村に帰ったときとは逆で、狭く低い冬の空が広がっていた。そういえば、
「やっと見つけましたよ、お兄さん。警察の目をかいくぐって探していたっていうのに、まったく見つからないから焦ってしまいましたよ」
今、最も会いたい相手の声が俺の耳を刺激する。だが、これはあまりの不意打ちであり、俺はすぐに言葉を発することができなかった。
「どうやら、びっくりしているようですね。私の方から接触するとは思いませんでしたか」
爪崎のギラつく目を睨み、わからないように深呼吸をして心を落ち着けようとした。
「被疑者として警察に追われているお前が俺に何のようだ」
そう言うと爪崎は大げさに腕を広げた。小馬鹿にされているようで、腹が立つ。やはりこいつのことは好きになれそうにない。
「用があるのはお兄さんのほうじゃないですかね。まったく容疑なんてかけられて困っちゃいましたよ。運が悪いったらありゃしない」
しばらく睨み合いが続いているうちに――爪崎は睨んでいるつもりはなかったかもしれない――聞きたいことを整理した。
「お前は
俺たちを除いて桐子と会っていたのは今わかっているのは爪崎だけである。最も怪しむべき存在といえるだろう。だが、爪崎はそれを笑い飛ばした。
「まさかっ! 私はしがない情報屋ですよ。殺しなんて小便ちびってしまいますよ」
「じゃあ、桐子について知っていることを全部話せ。桐子はお前に何を依頼した」
爪崎はそれにはすぐ答えず、通りにある喫茶店を指さして、「お茶でも飲みながら話しましょう」と提案してきた。長い話になるということだろう。
喫茶店は外から見るよりも広く感じ、カウンターにはいくつものサイフォンが置かれていて洒落た雰囲気だった。薄暗い照明で木を基調とした内装をより良く感じられる。爪崎はそんな店の一番奥の席を指した。席に座るとクッションのほどよい柔らかさを感じた。
「いい店でしょう。私もたまに使っていましてね。まあ、常連とまではいきません。何か飲みますか?」
友人か、仕事の取引先を相手にするようなことを言いながら、爪崎はコーヒーを頼んでいた。俺もコーヒーを頼みながら爪崎のペースに乗せられないように注意を払った。
「もう一度聞く。桐子はお前に何を依頼したんだ」
爪崎は両肘をテーブルについて、手を組んだ。
「まあ、コーヒーがくるまで待ちましょう。そう単純な話じゃありませんしね」
この男はいつも余裕ぶっている。対話に長けているだけではないだろう。相手のことを調べたうえで、相手を挑発しながら、ときに相手にとって必要な情報をちらつかせる。そうしていつも会話のペースを掴むのかもしれない。
コーヒーが机に置かれ、爪崎は砂糖を数杯入れた後、ミルクを入れている。その表情からは何を考えているかわからない。
「お姉さんが私のところへ依頼に来たのは、あなたの学校の文化祭が終わった頃でしたね。お姉さんがこの街に来てまもなくといったところでしょう」
爪崎はコーヒーを混ぜながら話しだした。
「お姉さんは不思議な依頼をされましてね。最初はどうしたものかと思いましたよ」
依頼の内容はだいたいわかっているが、こちらは何も知らない体で話を進めたほうが良いと判断した。
「不思議とは……」
「それがですね……
桐子は猟奇殺人が異形の仕業ではないかと考察していた。爪崎に異形の調査を頼んだということは犯人を見つけるように頼んだということと同様である。桐子の部屋から出てきた資料を見ても、桐子が猟奇殺人の加害者に惹かれていたことが伺えた。桐子のことだ。会って確かめたいぐらいに思っていてもおかしくない。
俺はわざと驚いたふりをした。
「異形? お前は異形なんてものを信じているのか」
爪崎は首を振った。
「いやあ、信じていませんでしたよ。そんなもの見たこともないし、聞いたことはまあ噂程度でしかありませんしね」
それが普通の人の返答であろう。爪崎のような曲者であっても、考え方は変わらないらしい。だが、爪崎は話を続けた。
「――ただ、最近になって信じるようになりましたよ」
最近ということは調査を続けるうちに、何かしらの証拠を見つけたのか。爪崎が信じるようになった理由を知りたいと思った。それが犯人に繋がっているかもしれない。
「なぜかって顔ですね。一番簡単な方法ですよ……
――なんだと。本物を見たと言ったのか。
長親と同じように犯行現場を見たのだろうか。どういう経緯で見ることになったのか問い詰めたいと気持ちが逸る。
「どこで見たんだ。猟奇殺人の犯行現場か? 異形というのはどんなやつなんだ」
俺の質問を聞いて、爪崎は含み笑いをした。
「まあまあ、落ち着いてください。異形の調査はしましたがね、実は最初から当てはあったんですよ」
爪崎の言っている意味がいまいちわからない。爪崎は調査する前から異形を見つけていたということだろうか。
爪先はゆっくりと俺のことを指さした。
「その当てとはですね、お兄さんのことですよ。
心臓が跳ね上がったように動悸が激しくなった。気持ちを落ち着けることができない。冬だというのに汗が流れ落ちていく。爪崎はこの瞬間を待っていたのだろう。その表情に愉悦のようなものが伺える。
「何を言っているんだ。俺が異形だって?」
俺は精一杯の平常心を装って、とぼけてみせたが爪崎は確信しているのか、含み笑いを止めない。完全に爪崎のペースだった。
「初めて会ったときから気づいていたんですよ。あなたにやられた部下から聞いた話で普通のやつではないと思っていました。そして、自分の目で見て確信しました。あなたは人ではないってね。私は特別鼻が効く方でして、この手のことには自信がありましてね。それにあなた、凄惨な暴力事件を起こしているでしょう。あれを一人でやったなんて人間
馬鹿馬鹿しいと突っぱねたかった。しかし、爪崎はどこで調べたのか故郷での出来事まで知っている。情報屋というのは本当だったらしい。俺は答えに窮した。
「お姉さんから依頼がきたときは傑作でした。心の中では笑いが止まりませんでしたよ。何度も言ってしまおうかと悩んだもんです。『あなたの弟が異形ですよ』と」
爪崎は完全に勝ち誇ったかのような顔で俺の目を見つめていた。眼鏡の奥のギラつきが今はとても怖い。しかし、爪崎はふいに表情を緩めた。
「なに、お兄さんが異形だとしても、猟奇殺人の犯人だとは思っていませんよ。さすがに居場所が見つかったからといって、お姉さんを殺すほどあなたは残酷ではないですしね」
――この男は。
「猟奇殺人の犯人は異形だと考えているのか」
長親が見たという狼男のような異形が確かにいるとしたら、爪崎はそちらも嗅ぎつけている可能性がある。俺が異形だということを伝えたいだけなら、とっくの昔にしているだろう。
「お姉さんに頼まれた内容は犯人探しのようなものです。結構苦労したんですがね、見つけることができましたよ。あなたじゃない異形はまだこの街にいる」
やはり、爪崎は犯人を見つけているらしい。たとえこの男の情報だとしても、桐子を殺した犯人のことは知りたい。少し休憩だというようにコーヒーを飲んでいる爪崎の次の言葉を待った。
「異形は他にもいる。あなたはそれを知っているんじゃありませんか? 知っているのに犯人から除外している。なぜでしょうかね」
肌が泡立つのを感じた。そうだ。この街には俺以外にもう一人異形がいる。だが、そのことを俺は考えもしなかった。
「
爪崎はその名を口にした。文化祭の夜、吸血鬼であると俺に打ち明けた担任教師の名前を。俺は強く机を叩いた。周りの客が俺たちの方を驚いたように見ている。
「六条先生が犯人のわけがない」
俺は絞り出すように爪崎に訴えた。だが、爪崎は驚くこともなく飄々としている。
「彼女以外に異形がまだいるなら別ですけどね。彼女はお姉さんが猟奇殺人を調査していることを知っていたんじゃないですか?」
知っていたどころか、六条先生にそのことを伝えたのは俺である。桐子が帰郷《きすることも桐子が殺された日の昼休みに伝えている。俺の周りの情報は六条先生に筒抜けだった。桐子の生首を俺に送りつけたのも警告の意味があったのではないか。そう考えると状況が整っていく。しかし、なぜ爪崎は六条先生が異形であることを嗅ぎつけたのだろうか。
「六条先生が異形だという証拠はあるのか」
この男は証拠を用意しているだろう。それでも確認せざるを得ない。
「そのへんは企業秘密といいたいところですがね。昔、神島病院で難病の子供が急に治ったということがあったんですよ。その関係で知ったとだけ伝えておきましょう」
それは桐子が調べていた資料に載っていた内容であろう。そして、六条先生が話してくれた事でもある。
『身内には気をつけたほうがいい』
以前、爪崎が俺に囁いた言葉が思い出される。それが六条先生のことを言っていたのかはわからないが、六条先生が犯人ならば結果としてそうなってしまっている。
――だめだ、信じるな。まだわからないじゃないか。
そう言い聞かせても、六条先生への不信感は募るばかりであった。
「直接聞いてみてはどうです? 私は怖くてとてもできないですが、あなた相手ならすんなり自供するかもしれませんよ」
そう言って、爪崎はいくらかの金を机の上に置くと、「また、会いましょう」と言い残して、店を出ていった。俺は椅子から立ち上がることができない。
――そうだ。直接先生に聞くしかない。きっと六条先生はばかばかしいと笑ってくれる。今までずっと俺の味方をしてくれていたのだから。
喫茶店を出て、考え事をしていたからか、あっという間に柚葉たちの家についた。上の空で家のドアを開けると思わぬ人と鉢合わせた。
「ジョー君! 帰ってきたのね」
廊下に立っていた
「涼宮先生、どうしてここに?」
別に涼宮先生が柚葉の家を訪れていても不思議ではないのだが、どうもそういう雰囲気ではない。
「ジョー君が実家に帰っている間に引っ越してきたの。入れ違いになっちゃってとても残念に思っていたんだけど、帰ってきてくれて良かった」
――そうだ。温泉旅行のときに引っ越しの準備をすると先生は言っていた。
「俺も先生とちゃんとお別れをせずに実家に帰ってしまって心残りでした。そうか、先生もここに住むんだ……」
俺は心が浮ついて仕方がなかった。さきほどまで沈んでいた気持ちが嘘のように晴れていく。相変わらず、涼宮先生と話していると幸せな気分になる。俺たちの声を聞いてか柚葉、
「ただいま帰りました。また、しばらく厄介になります」
と言って、俺はお辞儀をした。
「やめ
楓さんの声が心に染み渡って、涙が溢れた。桐子のこと、桜のこと、六条先生のこと、いろんなことが心を乱していたが、この瞬間は忘れることができた。
「相変わらず、ジョー君は涙もろいんだから。ちょうど良かった、お昼ご飯を作るところなの。食べるでしょ」
いつもどおりの柚葉の言葉に笑顔を取り戻すことができた。そして「おかえり会いたかったよ」と抱きついて離れない長親を見てみんな笑っていた。
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