鬼の余興
温泉旅行当日、
桐子は俺にお気楽だねと言っていたが、留守番を快く引き受けた。
温泉宿までは片道二時間ほどらしい。道中、車内では色々と話が盛り上がっていたが、一番興奮していたのは俺かもしれない。なんといっても初めての温泉である。
そんな俺を涼宮先生は微笑ましく見ている。
「ジョー君、加賀君、誘ってくれてありがとう。温泉なんて久しぶりだわ」
「いえいえ、
「本当、長親君が倒れたときは大変だったんだから」
柚葉の言葉に
「長親君のせいじゃないよ。全部お姉ちゃんのせいなんだから気にしないでね」
「おいおい、柚が旅行に来られるのは加賀君が倒れたおかげじゃないか。私にお礼を言ってもらいたいもんだ」
だいぶ山道に入ってきたところで、風情のある和風建築の建物が見えてきた。
「ついたわよ」
六条先生が車を停めると、それぞれ荷物を持って外に出た。標高が高いからか、神島市より少し肌寒く感じる。
「すごいわ。紅葉がとっても綺麗」
涼宮先生がそう言うと、みんな山の景色を眺めて息を吐いた。目前に広がる壮大なパノラマの風景は赤や黄色に染められ、まさに晩秋を感じさせた。
しばらく、紅葉に目を奪われていた。ただ、楓さんを除いて。
「さ、温泉、温泉。身も心も温まろうじゃないか」
楓さんはすでに宿に向かって歩いていた。その足取りは非常に軽く、本当に温泉を楽しみにしているようだ。
六条先生が仕方ないというように後に続き、俺たちも名残惜しいながらも宿へ歩いていった。
「ようこそいらっしゃいました。千早様、六名様ですね。ご案内いたします」
温泉宿は外見と同じように純和風建築で、俺が思っていた宿というものよりよほど広く、木の香が心地よい。
丁寧に対応していただいた仲居さんに付いていくと、二名ずつの部屋に案内された。
「柚、涼宮ちゃん。ジョウ君と加賀君、どっちと同じ部屋がいいかね」
そんな提案をしてきた楓さんに四人は驚き、おそらく涼宮先生は照れて顔を赤くし、柚葉は怒りで顔を赤くしていた。
「お姉ちゃん、そんなわけないでしょう。私とすみれちゃん。ジョー君と長親君。それで決まり!」
少しばかり残念だと思ったが、当然の結果に安心もしていた。
部屋もとても広く、俺は畳の上に大の字に寝てみたが、長親がさっそく温泉へ行こうと誘ってきた。もう少しゆっくりしていたかったが、初めての温泉の魅力に負けて、長親の提案に乗ることにした。
温泉は一階にあり、案内があったので迷うことなくたどり着いた。男とかかれた青い暖簾をくぐる。
脱衣所で服を脱ぎ――長親は大変恥ずかしがっていた――扉を開けると、そこには大きな露天風呂があり、外から眺めたときと同じ綺麗な風景が広がっていた。これが温泉というものかと感心しながらかけ湯をして湯につかってみると、少し熱めだが、たいそう気持ちいい。
「すごく気持ちいいねぇ」
長親も同じように、ゆったりとお湯に浸かっていたら、隣の女風呂から柚葉や涼宮先生らしき声が聞こえてきた。みんな温泉に入りにきたのだなと思っていると、長親が急に真面目な顔をして周囲を確認した後、小さな声で驚くべきことを言った。
「丞、女風呂を覗きに行こう」
女より女っぽい長親がその言葉を発したことにしばらく呆けていたが、俺は平静を取り戻すと長親を睨んだ。
「……ラジャ」
長親は俺の答えに満足したのか、さきほどまで恥ずかしがっていた態度はどこへいったのか、堂々と女風呂との垣根を調べ始めた。普通なら変態なのだが、小柄な長親は子供がいたずらをしているかのように見えた。
「丞、やったよ。ここに穴を見つけた。きっと女風呂が見えるよ」
その言葉に俺はごくりと喉を鳴らした。
真っ先にに浮かんだのは涼宮先生の裸である。涼宮先生は性格はおとなしいが、その清らかな胸は六条先生や楓さんよりもよっぽど大きく、目を奪われる。
妄想にふけっていると、長親が俺の肩を叩いた。
「丞から先に見ていいよ。僕は周りを見張っておくから、存分に目の保養をしてきてよ」
わかったと長親に向かって親指を立てると穴を覗いた。どんな桃源郷が待っているのだろうと思っていたが、何も見えない。いや、かすかに何かが見えるのだが、何かはわからない。そのとき、柚葉の声が聞こえた。
「お姉ちゃん! 男風呂を覗こうだなんて何を考えてるのよ!」
俺は驚愕して、後ろに倒れ込んだ。周りを見ると、長親はもういない。
「ははは、見えるかと思ったけれど、何も見えなかったよ。残念、残念」
楓さんの声が遠ざかっていく。俺は長親を追って、逃げるように温泉を後にした。
動悸が止まらないまま、部屋へ帰って長親に散々愚痴を言っていると、仲居さんが部屋を訪れて、夕食の準備ができたことを伝えてくれた。
夕食は少し広い部屋で皆で食べることとなり、楓さんはにやにやとこっちを見ていたが、極力無視をして豪華な料理を堪能することができた。
食事が終わり、談話室で話をしていたが、尿意を感じたので席をはずしてトイレへ向かった。
「
後ろを振り返ると、六条先生が廊下の真ん中にモデルのように立って、こちらを見ている。浴衣姿の先生は普段のキリッとしたスーツ姿とはまた違って扇情的でみとれてしまう。
先生は俺が一人になるところを待っていたようだ。
「先生、どうしたんですか?」
「少し、外で話をしないかしら」
これは断るという選択肢はないのだろう。
宿の外へ出ると夜の冷えを感じ、尿意が強くなって、ぶるっと震えた。もう秋も暮れてきた頃である。
「何の話ですか。と言っても決まってますよね」
「そうね。文化祭の話の続きよ。あれから、あなたに何か変化はあったかしら」
「いえ、何も。ただ、実家から姉が訪ねてきて、俺の父親について調べているようです。父親が俺の能力と関係があるかはわかりませんが、姉は薄々、俺が普通の人間じゃないことに気づいている様子があります」
「それは困ったわね。世の中に人間ではない異能のモノがいると知られたら、私達は安全に暮らしていけないわ」
「その点は大丈夫だと思います。姉は鬼といった類について興味は持っているようですが、俺のことを誰かに言うつもりはないでしょう。変人ではありますが、姉は信じられます」
六条先生は腕を組んで考えるような仕草をした。
「私はお姉さんとは会ったことがないから、簡単には信用できないけれど、どうこう言ったって、現状が変わるわけではないものね。お姉さんについてはそれだけかしら」
俺は桐子が来た日の食事中の会話を思い出した。
「姉は猟奇殺人事件についても調べると言っていました。あと、気になるのは姉が鬼の伝説について言っていたことです。俺の地元には鬼の一族が住んでいて、その鬼の一族は心を操る能力を持っていると言われているそうです」
「鬼が一族で住んでいるというのは本当だと思うわ。私の故郷にも力こそ弱いけれども吸血鬼たちが住んでいると言われているもの。それにしても、心を操る能力ね。本当だとしたら、とても珍しい力じゃないかしら。私は聞いたことはないわ。具体的にあなたは今までどんな能力を使ってきたの」
俺は数ヶ月前の出来事を思い出しながら、ぼつぼつと話し始めた。
「最初は妹が暴漢に襲われているときでした。眼の前が真っ赤になって、気がついたら暴漢たちは血だらけで倒れていました。彼らが俺を見て、怯えていたのを覚えています。一人、相手から霧のようなものを吸い上げて、意識を失わせてしまいました」
六条先生は顎に指を当てて俺の話を聞いている。黙っているので続きを話すことにした。
「神島に来てから柚葉や涼宮先生を助けたときは意識がはっきりしていましたが、力が沸くような感覚がありました。そのときも意識を奪うことをしました。後藤先生が意識不明になったのも俺の能力のためだと思います。それから、文化祭のときの先生との出来事です。記憶を覗いたりする能力も俺にはあるのでしょうか。自分で意識してやったわけじゃないので、はっきりとしなくて……」
「力や感情をコントロールできないのは確かに重要なことかもしれないわ。突発的に力を使っているのに今まで私にしか見つかっていないというのも運がいいのかしらね。ただひとつ疑問があるの。あなたが妹さんを助けようとしたとき、意識もなかったし、暴漢たちは怯えていたと言ったわね。それは体に大きな変化が現れていたと考えられるわ。異形の中には体の形が変わってしまうものも少なくはないし」
自分の体が変化したというイメージが浮かばず、俺は首をひねっていたが、先生は続けた。
「おかしいと思ったのは柚葉や涼宮先生を助けたときね。同じように怒りを感じているのに、体型に変化は現れなかった。何か違いがあるように思えるわね」
自分の能力にばかり気を取られていたが、六条先生の言うことも確かである。考えてみるが、これと言った理由が見つからない。
「怒りの程度とかでしょうか。妹とは長いこと暮らしていましたが、柚葉や涼宮先生とはこの街にきてから出会ったわけですし」
俺の言葉を聞いて、六条先生は笑った。嘲笑したと言ってもよい。
「おやおや、それは情けない話ね。付き合いの長さ程度で、困っている人を差別するような生徒は私のクラスにはいないと思っていたのだけれど」
俺は恥ずかしくて黙り込んだ。柚葉や涼宮先生は俺にとても良くしてくれている。そんな二人を軽く見てしまった自分を戒めた。
「とにかく、力をコントロールすることは必要ね。特に暴力や意識を吸い上げる? なんてことは極力避けたほうがいいわ。あなたの周りで重傷者や意識不明者が多発するようじゃ、公僕もさすがに疑い出すかもしれない」
「コントロールすると言われても、どうすればいいんだか……意識できないんだから、元々無理なことなんじゃないですか?」
「そうかもしれないわね。でも、安心しなさい。ちゃんと用意はしてあげるわ。旅行から帰ったらさっそく試してみましょう」
そう言うと、六条先生は踵を返した。
「長話をしてしまったわね。私は戻るけれど、あなたはゆっくりとトイレに行ってきなさい」
尿意が急激に戻ってきた俺は情けない走り方でトイレに向かった。
部屋に戻ると、布団がひいてあり、長親が眠っていた。
外に出て冷えてしまったので長親と温泉にもう一度入ろうと思っていたが、とても気持ちよさそうに眠っているところを起こすのも悪いので一人で温泉に入ることにした。
温泉には誰もおらず、独り占めだった。
「あー、温まる。露天風呂を独り占めだなんて贅沢だなぁ」
気持ちよくて、ついつい声に出してしまうと、女風呂からささやかな笑い声が聞こえた。
「ふふふ、ジョー君、おじさんみたいね。そっちも独りなの?」
涼宮先生の声が聞こえた瞬間、俺の頭は沸騰しそうになった。垣根一つ向こうに涼宮先生がいると思うと、襲いたいほどの邪な心が抑えられなくなる。
「そっちもということは、涼宮先生もですか」
長親が覗き穴を見つけていたことを思い出した俺は垣根に近づいていた。
「そう、露天風呂を独り占め。とっても気持ちがいい。こんな時間もジョー君が助けてくれたから過ごすことができるのよね。改めて、ありがとう」
涼宮先生の柔らかい言葉を聞いた俺は足を止めた。
さっき、六条先生に感情をコントロールしろと言われたばかりじゃないか。涼宮先生を辱めることなんてしてはいけない。
なんとか、踏みとどまった俺は気付かれないように温泉へ戻り、そういえばと思っていたことを聞いてみた。
「先生、まだ引っ越しは考えられていないんですか?」
垣根の向こうから、明るい声が返ってくる。
「そうね。この旅行から戻ったら準備しようかしら。また、あの温かい家で過ごせると思うと、楽しくなってきちゃうな。今度はジョー君もいるしね」
涼宮先生が引っ越してくるなんて、嬉しくて、嬉しくて仕方がなかったが、その感情もなんとかコントロールしようと努力した。
俺は涼宮先生のことが好きなのだろうか。ストーカー事件があって以来、涼宮先生と話をするだけで、幸せな気持ちが溢れ出す。
「私は先に上がるね。ジョー君も湯あたりしないように気をつけてね」
それは無理な相談であった。涼宮先生の声を聞いて、俺はもうすでにのぼせそうであった。
温泉旅行から帰った俺たちを桐子は大変喜んで出迎えた。俺たちというか柚葉を。また、妹成分とやらが足りなくなったのだろう。
休みが終わり、学校へ行くと六条先生から生徒指導室へ来るように言われた。
「旅行のときに話した件だけれど、さっそく力と感情の安定を試してみようと思ってね。これを飲んでみなさい」
そう言って、六条先生は赤い液体の入った小瓶を俺に渡した。言われるまま飲んでみると、とても濃い粘度のある液体が喉を通っていく。
「これ、なんですか?」
飲んだことを確認した先生は小瓶を手で揺らしながら、にんまりと笑った。
「私の血よ」
驚いた俺は激しく咳き込んだが、すでに液体は胃の中である。俺は青くなりながら六条先生に詰め寄った。
「先生の血と能力のコントロールに何の関係があるんですか!」
「私も君と同じ異形。私の血を飲むことで、君の不安定な能力をちゃんと引き出せるんじゃないかと考えたのよ。どう? 効果はないかしら」
先生の説明を聞いているうちに体が熱くなってきた。
「体に力がみなぎってくる感覚があります」
「そう、感情のほうはどうかしら。怒りを感じたりすることはない?」
「はい、頭はとても冷静です。自分の力をコントロールできている感覚があります。すごいですね! こんなにすぐ効果が出るなんて」
「とりあえずは成功かしらね」
成果が出たことに喜んでいたが、ふとした疑問に青ざめた。
「先生、先生の血を飲んだということは、俺は吸血鬼になってしまったんですかね……」
六条先生は俺の青ざめた顔を見ながら笑った。
「安心しなさい。吸血鬼が仲間を増やすときは特別な血を与えなければならないわ。ただ抜き取った血では普通の人間には何の効果もないと思うわね」
先生の言葉に安心しながら、俺は自分の能力を知る第一歩を踏んだことに喜びを感じていた。ところだったが。
「なんか、体がぞわぞわしてきたんですが……」
「まぁ、突然違う種族の血が入ってきたら副作用ぐらいあるわよね。長くは続かないでしょうから、我慢しなさい」
そうして、俺は丸一日、体の違和感に耐えることとなったのである。
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