鬼の狂気

 目の前に現れたのはかつて俺を痛めつけた男だった。

「なんの用だ。大人しくしているつもりだが、何か文句でも言いにきたのか?」 

 そう言うと、メガネの男はわざとらしく大きく手を広げた。

「いえいえ、特に用はございませんよ。ただ……あなたには興味がありましてね。もう一度会いたいと思っていたところでした」 

 何かとしゃくに障る男だった。

「俺はお前に興味はないし、話すこともない。もし、俺の周りで問題を起こすようなら、この前のようにはいかないからな」 

 メガネの男は静かに笑っている。

「そう言えば名乗っていませんでしたね。私は爪崎つめさきといいますので、お見知りおきを」 

 爪崎は自己紹介をしてきたが、こちらもやらなくてはいけない義理はない。爪崎を強く睨む。

「分かりましたよ。今度は私が大人しくする番ですかね。そちらのお嬢さんにも手出ししませんから、ご心配なく」 

 柚葉ゆずはが俺の腕をより強く掴んだ。柚葉をかばいながら爪崎の横を通り過ぎようとしたとき、爪崎は一言、俺にだけ聞こえるような小声で言った。 

 しばらく歩いて大通りに出たとき、柚葉はやっと力を抜いたようだ。

「あの人、家の前でジョー君に暴力を振るった人? 目つきがすごい怖かったけど、ジョー君が守ってくれたから大丈夫だったよ。本当にボディーガードだね」 

 柚葉は明るく話しかけてきたが、今の俺は爪崎の一言が気にかかっていた。いや、真に受けることはない。そう心で思いながら、柚葉をちらっと見た。

「すみれちゃんって可愛いし、気立てもいいのに、なんで男っ気がないんだろう?」 

 柚葉はまったく違うことに思いをせていたようだ。

「あれ? 涼宮すずみや先生って結婚するんじゃないのか?」 

 結婚についての会話が聞こえてきたのは、理事長室に呼ばれたときだった。

「それに保健室から後藤ごとう先生が出てくるのを見たって、長親ながちかが言ってたぞ」 

 柚葉は目をまんまるにしている。

「後藤先生と? ないない! 絶対ナイ! すみれちゃんから結婚なんて話聞いてないし、昔、後藤先生が苦手だって話を聞いたことがあるもん」 

 昔は昔、今は今だと言っても、女性の心には響かないだろう。だとすると、あの会話は何だったんだろう。相手は後藤先生じゃなかったという可能性もある。

「今度、恋バナでもしちゃおっかな」 

 柚葉は新しい楽しみを見つけたというようにご機嫌だった。

「そういう柚葉は恋バナがあるのか?」 

 柚葉はぽかんとした後、顔を真赤にした。

「な、ないこともないかなー。ほら、こんな歳にもなって恋もしてないなんて寂しいじゃない? ジョー君こそどうなのよ」 

 自分に返ってくるとは思わなかったが、自然と桜の顔が浮かび、少し懐かしい気持ちになっていたが、その顔がだんだんと涼宮先生の微笑に変わっていった。

「え! あるの? へー、あるんだ」 

 柚葉の歩幅が少し小さくなった。

「柚葉、何も言ってないだろ。どうしたんだ?」

「――なんでもないよ」 

そう言うと、前を駆けっていき、

「はやく帰ろう。今日はカレーだよ!」 

と、俺に笑顔を向けてくれた。 


 次の日、教室で、長親と昼飯を賭けて『もみあげ危機一髪』をやっていると、涼宮先生が教室の入口まで来ていた。

「涼宮先生、今日はこられたんですね。よかった」 

 涼宮先生に話しかけるのは、少し照れくさくて度胸がいる。

「ジョー君、ありがとう。昨日、来てくれたおかげで元気が出たの。是非、お礼をしたくて」 

 涼宮先生は昨日よりも声に張りがあり、表情も明るそうだ。やはり、それほど重い病気じゃなかったようだ。

「今日、柚ちゃんの家で料理を振る舞わさせて欲しいの。柚ちゃんはいいって言ってくれたんだけど、ジョー君は――」

「これは、涼宮先生、こんなところでどうしました?」 

 数学教諭の後藤先生だ。長親が言っていたようにスラッとした体型に綺麗な顔をしている。これなら女子生徒に人気なのも納得だ。

「い、いえ。なんでもありません。少し、千早君たちにお世話になったことがあってお礼を言っていただけです」 

 涼宮先生の表情は一気に曇っていった。柚葉が言ったとおり、涼宮先生は後藤先生が苦手なのだろうか。

「千早くん。ご苦労だったね。できるだけ僕も涼宮先生のお役に立てるといいんだけどね」

 そう言うと、後藤先生は階段の方へ歩いていった。

 あの話し方、俺も好きになれそうにないな。と思いながら、涼宮先生に向き直った。

「涼宮先生! 大丈夫ですか!」 

 涼宮先生は青くなって、今にも倒れそうだった。長親に保健室に行くことを伝え、柚葉を呼んでもらうように頼んだ。 

 保健室に着き、涼宮先生をベッドへ寝かせた。できるだけ見ないようにしながら、乱れた服を直し、柚葉を待っていた。

「ジョー君、ごめんなさい。もう大丈夫。授業に戻って」 

 涼宮先生の話し声はまだ、弱々しい。

「大丈夫じゃないですよ。やっぱりまだ体調が――」

「大丈夫なの!」 

 初めて聞いた涼宮先生の大きな声。

「先生。休んでいたのは体調不良のせいじゃないですね。後藤先生が関係あるんじゃないですか」 

 涼宮先生はびくっとして体を震わせている。今日、あれだけ元気だった先生が、後藤先生に話しかけられただけで、こうなってしまった。保健室の一件もある。関係ないとは言えないだろう。しばらく無言の時間が過ぎたが、涼宮先生がぽつぽつと喋り始めた。

「後藤先生はね、女性関係が多いので有名なの。きっとあの容姿からおモテになるのでしょうね。そんな後藤先生が私と付き合いたいと言ってきてね、私驚いちゃったけど、そういう派手な人ちょっと苦手で、お断りしたの」 

 柚葉があれだけ、涼宮先生と後藤先生の結婚があり得ないと言っていたのを思い出した

「後藤先生は振られた経験がないそうなの。だから、余計に私に執着したわ。毎日、付き合おうと話しかけてくるし、手紙を送られることも増えて、今では毎日何通も――」

「それってストーカーじゃ――」

「すみれちゃん! 大丈夫?」 

 柚葉が入ってきたので、口を閉じた。涼宮先生が言ったことが本当なら、危険なことだ。できれば、柚葉を巻き込みたくない。

「大丈夫よ、柚ちゃん。ちょっと目眩がしただけ。ずっと寝てたからかしらね」 

 ふふ、と軽く笑う涼宮先生を見ていられなかった。

「今日も無理せずに帰ったほうが――」

「ううん、柚ちゃん。もう大丈夫。それに今日はしっかりお礼をさせてもらうんだから」

 とりあえずは元気になったようだ。しかし、原因のほうを何とかしなくては、涼宮先生はこの苦しみをずっと味わうことになる。 


 放課後、涼宮先生と柚葉と俺はスーパーに買い出しに来ていた。涼宮先生は一人で大丈夫だと言っていたが、柚葉と俺が猛反対をした。荷物持ちが必要でしょという柚葉の一言により、涼宮先生は折れた。のは良いのだが、涼宮先生はどんどんカゴに食品を入れていく。

「な、何を作るんですか先生」 

 さすがに四人前の量ではないと思い、ついつい聞いてしまった。

「それは出来てからのお楽しみってやつなのかな」 

 先生は非常に楽しそうである。腕が千切れそうなほどの大荷物を持って、なんとか家に着いた。

「おかえりー、あーっ! 涼宮ちゃんじゃないか! これまた、おかえりだね!」 

 涼宮先生に気づいたかえでさんのテンションが一気に上がった。涼宮先生がこの家に住んでいた頃に家族のような付き合いだったというのは本当のようだ。

「楓ちゃん、お久しぶりね。学校でも中々会えないんだもの」 

 楓さんは神出鬼没である。学校の放送でもたびたび呼び出されている。

「今日は何が始まるのかね。こんなに食料を買って……」 

 楓さんが黙り込んだ。

「柚葉ちゃんと、ジョー君にお世話になったから、今日は私が料理を作ろうと思って」 

 楓さんはゆっくりと俺の方を向いた。

「ジョウ君、頑張りたまえよ」 

 その一言が何を意味するのか、わからないが、不吉な予感しかしない。 

 しばらくかかるということで、少し自分の部屋で寝転んでいた。

 涼宮先生は本当に優しい人だ。だからこそ、ストーカーの被害にあっても、相手を憎みきれずに、相談できないでいたのだろう。

 今、守れるのは俺しかいない。自惚うぬぼれた考えだったかもしれないが、強くそう思った。 

 そんなことを考えていると、柚葉が迎えにきた。

 柚葉たちの部屋に行くと、とても良い香りでいっぱいだった。

「美味しそうな香りですね」 

 ついつい言葉にしてしまうほどだ。

「ジョウ君。そうだろう!しっかりと食べ給え!」 

 楓さんはそう言って、俺を食卓へ誘った。 

 ――信じられない。 

 食卓には所狭しと料理が並んでいた。その量はは十人前を軽く超えている。

 楓さんの方を向くと、絶対に残すことなかれという顔をしている。柚葉はずっとニコニコしている。

「味はたぶん大丈夫だと思うわ。少し、作りすぎちゃったけど、若い男の子もいるし、大丈夫よね」 

 死の宣告は俺へとなされた。 

 料理は和洋折衷で、どれも美味しそうなものばかりだ。

 七幸なゆき家で料理担当は祖母と俺だったが、和食が多くて素朴だった。こんなに華やかな料理は初めてである。恐る恐る料理を口に運ぶ。

「うまい。美味しいです! 先生」

「本当? お口に合ってよかったわ」 

 先生は少し頬を染めて、笑った。

「まったく、涼宮ちゃんの料理は味だけは美味し――」

「ほんと、すみれちゃんの料理は最高だよ」

 机の下で足が行き来している。

「一人暮らしだと、少ししか作らないから、やっぱり寂しいの。今日はたくさん作れてよかったわ」 

 誰もが作り過ぎだろうとツッコミたかっただろうが、涼宮先生の穏やかな空気がそれを許さない。

「すみれちゃん、やっぱり家に帰ってこようよ。今はジョー君も住んでるし、もっと賑やかになるよ」

 涼宮先生は俺をちらっと見た。

「そうね。そうなると私も嬉しいな。でも、ちょっとだけ待っててね」 

 ちょっとしんみりした空気の中、それを破るのはやはり楓さんだった。

「ほら、まったく減ってないじゃないか。しっかり食べ給えよジョウ君」 

 男、じょう食べさせていただきます。量がなんだ。こんなに美味しいものを残すはずがない。

「そういえば、お姉ちゃん。ジョー君のクラスの演劇の脚本は書けたの?」

「うむ、もう少しだね。恋愛劇はそれほど得意ではないのでね」 

 文化祭の脚本、本当にまじめに書いてくれているのか。疑ってごめんなさいと心の中で謝っておいた。 

 なんとか十人前を胃袋に収め、片付けも済むと、涼宮先生は帰る用意をした。

「もう、遅いし、泊まっていったら? すみれちゃん」 

 柚葉が心配そうに声をかけた。

「大丈夫よ。それに家でやることもあるの。これでも先生ですから」 

 涼宮先生は少し胸を張った。その大きな胸を直視してしまった俺は本当に変態かもしれないと思った。

「じゃあ、ジョウ君。送ってあげ給え」 

 俺は初めからそのつもりだったので、迷うことなく頷いた。

「そ、その、よろしくお願いします」 

 涼宮先生は俺に頭を下げた。楓さんが意味ありげな顔で俺を見ている。柚葉は少し元気がない。涼宮先生が帰ってしまうからだろうか。


「お邪魔しました。また来ますね」 

 楓さんの「ご馳走さん」という言葉を背中に受けながら、俺と涼宮先生はゆったりと歩きだした。

「先生、今日は本当にご馳走様でした。美味しかったです」 

 そう言うと、涼宮先生は笑った。

「ふふ、本当は作りすぎたことはわかってたの。私、皆に料理を振る舞おうとすると、いっつもたくさん作っちゃってね。今日もやっちゃったなと思ってたけど、ジョー君が全部食べてくれた」 

 今日は本当に幸せそうな笑顔をしている。昨日、お見舞いにいったときの笑顔に軽い頭痛を感じた理由がわかった。涼宮先生は俺たちが来たことに安心しながらも、ストーカーに怯えていた。そんな笑顔に違和感を感じたのだ。

「先生はやっぱり笑顔が似合いますね」 

 そう言った後に、また軽はずみな言動をしたと悔やんだ。

「ありがとう、ジョー君。本当に嬉しい」 

 涼宮先生はその言葉を胸にしまうように胸の前でぎゅっと両手を握っていた。

 お互い照れながら歩いていると、あっという間に涼宮先生のマンションに着いた。

「送ってくれてありがとう。それから、学校では話も聞いてくれて安心した。また、明日ね」 

 そう言うと、先生はマンションへ入っていった。

 俺はしばらくマンションを見上げていた。どうやら向こうから声をかけてくるつもりはないらしい。

「いるんでしょう。後藤先生」 

 ずっと敵意を感じていた方向を向くと、後藤先生が道の角から出てきた。

「やあ、千早君と言ったっけ。涼宮先生との馴れあいは楽しかったかい」 

 いつもと同じ飄々とした喋り方だ。

「こんなところでも何です。学校へ行きましょう」 


 学校へ着くと、体育館のほうへ向かった。体育館では何も行われておらず、鍵も空いていた。不用心だなと思ったが、今日だけはありがたい。

「こんなとこに僕を連れてきて、どうするつもりだい? 暴力でも振るうかな? 理由もないのに殴られちゃ、僕もたまらないよ」 

 俺は細身だが、背は先生よりかなり高く、力ではおそらく負けることはないだろう。しかし、後藤先生には余裕が見られた。

「涼宮先生を追いかけ回すのはやめてください。あなたのやり方に先生はとても苦しめられている」

「涼宮先生から色々聞いたんだろうけど、僕は何も悪いことはしていないんだよ。僕はすみれさんを愛しているだけさ。彼女も僕のことを愛している」 

 なんて、勝手なやつだと拳を握りしめた。

「なのに……なのにだ! お前のような奴がなんで、彼女の横にいる! 彼女を選んだのは僕だし、選ばれるのも僕だ! お前だけは許さない!」 

 後藤の手にはナイフが握られていた。

 ――また、ナイフか。 

とはいえ、あのときのような力は自分に感じられない。刺されたらどうなるかわからない。

「お前を殺して、僕はすみれさんと幸せになるんだ!」 

 もう、この人は戻れない。

 俺はどうなってもいい。後藤が涼宮先生の近くに居られなくなれば。そう思ったときである。

「ジョー君に手を出さないで!」 

 涼宮先生が体育館の入り口に立っていた。そして、先生の手には光るものが見えた。

 ――だめだ。だめだ先生! 

 俺を刺しに来た後藤は慌てて涼宮先生に向かった。涼宮先生はまっすぐ後藤の方へ走る。

 ――ドスッ! 

 脇腹に鈍痛が走る。手を当ててみると波々と血が流れていた。結構深く刺さっているのかもしれない。

 刺さっている包丁を伝っていくと、涼宮先生の手に触れた。

 ――間に合った。 

 涼宮先生は信じられないという顔で目に涙を浮かべている。

 そして、その顔は苦痛へと変わっていった。先生の手から血が滴る。後藤のナイフは涼宮先生の腕を傷つけていた。

 その瞬間、俺の意識は飛びそうになり、怒りが頭を支配した。 

 脇腹から包丁を抜くと血が流れ落ちた。涼宮先生はショックのあまり、尻もちをついた。

 後藤のほうを向く。後藤はすでに綺麗な顔を保っていられないようだ。

「お、お前のせいで、すみれさんは傷ついたんだ! そうだ……お前さえいなければ!」 

 後藤はもう一度、ナイフを向けてきた。

 軽く横殴りに手を振るうと、後藤の腹に当たり、後藤は体育館の壁までふっとんでいった。涼宮先生が少し息を呑んだ音がする。

 ――吸っておかなければ。 

 そうすれば、涼宮先生に今後、被害が及ぶことはない。自然とそう思えた。 

 後藤の首を掴み、口から霧のようなものを吸い上げた。

 すると以前のように、自分の中にイメージが流れ込んできて意識を失いかける。

 終わったときには、やはり後藤は抜け殻のようになっていた。

 ――涼宮先生は! 

 怒りが冷めて、涼宮先生の方へ駆け寄ると、先生は泣いて、俺に抱きついてきた。心臓が高鳴った。

「ジョー君、ごめんなさい! ごめんなさい!」

 ――この人が愛おしい。

「大丈夫です、先生。男ってものは頑丈にできてるんですよ」 

 そう言って、傷口を涼宮先生に見せると、すでに血は止まっていた。それよりも、先生の腕の傷である。

「病院に行くと面倒なことになります。柚葉の家に行ってください。きっと何も聞かずに治療してくれます。それに、先生は保健の先生でしたね」

「ジョー君はどうするの」

「俺はここを少し片付けていきます。このままだと事件になりますからね」 

 体育館には血の跡が残っているし、後藤をそのままにしておくわけにもいかない。

「早く帰ってきて……」 

 心配そうな顔を何度も振り返って見せながら、先生は体育館を出ていった。そのとたん、俺は寂しさを感じた。

 ――また、イメージが。 

 後藤から意識を吸ったとき、前とは違ったイメージが流れてきた。この現象はいったいなんなのだろう。不安を拭えぬまま、俺は跡片付けを行った。

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