鬼の試練

 小さくてボロのアパートの一室。俺は耳を塞いで座り込んでいた。そうしろと母に言われていたからだ。それでも、母と知らない男の声が聞こえるのをどうしろと言うのだ。 

 声がしなくなったと思ったら、母と男が部屋に入ってきた。男はさげすむような目で俺を見ている。そして、力いっぱい俺を殴った。痛い。口の中が切れて気持ちが悪い。横たわった俺を男は蹴った。痛い。でも、この痛みにはもう慣れた。男が何か言っているが聞こえないし、聞く気もない。母の方を見た。その目は俺をゴミのように見ていたが、それも仕方のないことかもしれない。俺こそ母をゴミだと思っていたのだから。 


「はっ!」

 大きく息を吐いて跳ね起きた。

 初秋の光がカーテンの隙間から差しているが、肌寒い。それもそのはずで、俺はびっしょりと汗をかいていた。 

 ――夢か。 

 あまりに生々しい夢だった。本当に体験したような気分で、はっきりと覚えている。しかし、俺はさきほどのような経験をしたことはない。母は俺が生まれてまもなく亡くなったと聞いているし、そうでなくても、母について記憶に残っていることは何もなく、物心ついた頃には七幸なゆき家で暮らしていた。 

 ――最低な朝だ。

 そう思いながら、学校へ行く準備を始めた。学校へ通い始めて二週間が経っていた。新しい制服姿もやっと様になってきたところだ。


「変な夢を見た?」 

 通学路の途中で柚葉ゆずはに今朝見た夢の話をした。

「どんな夢だったの? 夢占いしてあげるよ」 

 夢はとても酷い内容だったので、柚葉に教えるのは躊躇ためらわれた。

「あ! エッチな夢でしょ!」 

 中々言い出さないでいると案の定、誤解された。ここ二週間の俺の言動を見てか、柚葉はどうも俺のことを変態だと思っている節がある。

「違うよ。ちょっと残酷な夢だったんだ。DVっていうのかな。そんな親子の夢が生々しくて怖かったんだ」 

 柚葉は俺の言葉に合わせて頷いている。

「それはつまり、ジョー君はマザコンだってことだね」 

 なぜ、その結論に達するのだろうと呆れ返ってしまった。たしかに、母のことを考えることは多かった。しかし、どんな人かもわからないし、祖母もあまり教えてくれなかった。

「母親のことはほとんど知らない」 

 俺がそう言うと柚葉は立ち止まり、「ごめんね」と謝った。俺は柚葉の元へ戻ってできるだけ優しい声で「大丈夫だ」と言った。一緒に過ごしてきた時間があるだけ、柚葉の方が母親への思いは強いだろう。 

 学校の話などをしながら、また歩き始めたが、夢の中のあの母親の暗い目が忘れられなかった。 

 

 学校に着き、教室に向かう途中、六条ろくじょう先生に声をかけられた。六条先生はパンツスタイルのスーツを着ていた。そのスタイルと顔は相変わらず綺麗で見とれてしまう。

「ミズキ先生、おはようございます」 

 柚葉は六条先生のことをミズキ先生と呼んでいる。六条先生と楓さんの付き合いが長いということは、柚葉も気の置けない仲なのかもしれない。俺は怖いので呼ばないが。

「おはよう。今日も仲が良さそうね」 

 否定しようと思ったが、それより先に六条先生が続けた。

「柚葉。涼宮すずみや先生から何か聞いてないかしら」 

 柚葉は意味がよくわからないという顔をしている。

「涼宮先生、ここ三日体調不良で休んでいるのよ。連絡はあるから、そこは安心なんだけど、病状がわからないから心配なの」 

 三日か。たしかに大人が休むにしては長い気もする。インフルエンザや肺炎などの重い病気じゃなければ良いのだが。柚葉も同じ心配をしているのか不安そうな顔をしている。

「私、放課後にすみれちゃんの家に行ってみます」

「助かるわ。私より柚葉のほうが、涼宮先生も喜ぶでしょう。でも、柚葉。先生のことを『ちゃん』付けで呼んじゃだめよ」 

 六条先生は少しいたずらっぽい顔をして言った。クールなイメージの先生だが、たまに見せる優しい表情が先生の魅力をより引き立たせる。

 俺が見とれていることに気がついたのか、六条先生の目は俺を捉えた。

「そうだ、じょうも一緒に行ってくれないかしら。放課後に柚葉一人では危ないかもしれない。君がいれば、私も安心だわ」 

 六条先生は俺のことを『丞』と下の名前で呼んでいる。柚葉と同じ名字だからという理由もあるだろうが、柚葉や楓さんの親類ということで、俺との壁も薄いのかもしれない。俺としては呼ばれ慣れた名前なので、助かっている。千早と呼ばれることに慣れなければならないが、まだ違和感を感じていた。

「ボディーガードの役目、仰せつかりました」 

 そう言ってお辞儀をすると、柚葉と六条先生は顔を見合わせて笑った。 


「文化祭の出し物を決めます」 

 ホームルームの時間にて、もうしばらくすると開催される文化祭について話し合っていた。長親ながちかによると、神島こうのしま学院の文化祭は田舎の学校出身の俺では想像できないほど大規模なものらしい。確かなのは、イケメンコンテストやミス・ミスターコンテストというものは前の学校には無かった。

「丞は何かやりたい出し物ある?」 

 長親が隣から話しかけてきた。何でもありだと伝えられているので、決めるのは結構難しい。

「そうだな。前の学校では食べ物は禁止だったから、喫茶店とか出店には憧れるよ」

「楽しそうだけど、ベタだなぁ」 

 長親がうんうん唸って考えていると、一人の女子が手をあげた。

「はい! 恋愛劇がいいと思います! ヒロインはもちろん加賀かが君で!」 

 唸っていた長親は椅子を倒すほどの勢いで立ち上がった。

「な、なんで僕がヒロインなのさ。ヒロインは女の子がすればいいじゃないか」 

 しどろもどろになっている長親に女子は自信を持って言った。

「加賀君ならどんな女子より魅力的なヒロインになるわ。なんなら、多数決をとってもいいわよ。加賀君がヒロインでいい人!」 

 女子全員が手をあげた。男子も面白がって半数以上が手を上げている。そういう俺もその一人である。

「長親、諦めろ。どうせ、ミス・ミスターコンテストにも出るんだ。同じようなものじゃないか」 

 泣きそうな顔で訴える長親に俺はトドメを刺した。長親がヒロインの劇。人が集まりそうだなと考えていた。

「じゃあ、主人公は千早君に決定ね!」

「きゃー!」と女子から歓声が上がった。 

 ――なんだと。 

 その流れは予想していなかった。俺はまともな劇などやったことがない。それがいきなり主役だなんて、たまったものではない。長親がにやにやしながらこっちを見ている。長親は自分がヒロインであることを忘れたのだろうか。思い出せ長親。

 「俺は転校したてだし、違う人がやったほうがいいに決まってる」 

 ささやかな抵抗を試みた。

 「いいえ。主人公は千早くん、あなたで決定。これは全会一致よ」 

 なぜだ。俺の場合は多数決もしてもらえないのか。魂が抜けたような顔をしていると、六条先生と目が合った。表情は変わっていないが、あれは笑っている。 

 そのとき、教室の扉が勢い良く開いた。

「恋の演劇とは興味津々だね。是非、私に脚本を任せたまえ!」 

 かえでさん、話を盗み聞きしていたのだろうが、何を急に言い出すのか。どうせ、いつもの冗談だろう。

「理事長が書いてくれるんですか! それなら、文化祭成功間違いなしよ!」 

 ――なんだこれ。

 クラスの雰囲気がおかしい。俺はこれ以上変なことにならないように、楓さんをたしなめた。

「楓さん、冗談はやめてください。どうせ、俺と長親のことを面白がっているだけでしょう。だいたい、楓さんに脚本なんて――」 

 くいくいっと長親が制服の袖を引っ張った。その表情は怪訝なものを見ているようだった。

「丞。親戚なのになんで知らないのさ。理事長は有名な小説家でもあるんだよ」 

 そのときの俺の驚き様は凄まじかっただろう。六条先生のほうを見ると、先生は頭を抱えていた。確かに楓さんは何かしているようで、徹夜になることも多かった。あの生活リズムの悪さは執筆活動をしているからか。楓さんも柚葉も教えてくれてもいいものを。俺があまりに読書をしてなかったのも原因か。しかし、ここは食い下がらなくてはならない。楓さんに脚本を任せたら、俺と長親の運命はどうなるか分からないのである。

「楓さん。文化祭は生徒のためにあるんですよ。生徒によって脚本から作られるのが普通でしょう」 

 楓さんは余裕の顔をしている。俺は何か間違ったことを言っただろうか。

「ジョウ君知らないのかい。神島学院の文化祭、神祭かみさいは教師も理事会も加わるのだよ。こんな楽しい行事に生徒だけが参加なんてずるいじゃないか」 

 嘘だと思って、周りを見たら全員首を縦に振っている。六条先生も本当だと言うように、コクリと頷いた。完敗だった。楓さんが理事長であることを忘れていたのだ。

「では三日ほど待っていてくれ給え。他の仕事は後回しにしちゃうからね」

 ――最悪だ。 

 イケメンコンテストに出るだけでも恥ずかしいと思っていたのに――長親がコンテストに出る分には何も思っていなかったが――劇の主人公までやらされるとは予想外だった。この学校は静かな生活を送らせてはくれないらしい。


「ジョー君、主役やるんだって?」 

放課後、長親と教室を出たところで、笑顔の柚葉に出会った。

「ジョー君たちが劇で主役をやるってこと、もう学校中で話題になってるよ。下級生から上級生にまでファンを作ってたなんて、知らなかったよ」 

 俺も知らなかったよと心の中で呟いた。

「これは手を抜くことはできなくなったね……」 

 長親はホームルームからずっとうなだれていた。 

 ――手を抜くか。

 どこかにサボってしまえという気持ちはあった。

 しかし、クラスの皆は転校生の俺をすぐに受け入れてくれた。俺がこの街で暮らしていきたいと思ったのも神島学院という存在があってこそだ。その学校で、そのクラスの皆が俺を主役に推薦してくれたのだ。手を抜くことはできない。

「そんなジョー君だけど、今日は私のボディーガードだからね」 

 柚葉が俺の肩を手のひらで叩きながら、自慢げに言った。ホームルームの衝撃で忘れそうだったが、今日は放課後に涼宮先生のお見舞いにいくのである。行くのは柚葉で俺はそのボディーガードという設定ではあるが、つまり一緒に行くことになっている。

「長親も行くか?」 

 そう言うと長親は慌てだした。

「いやー。きょ、今日はおばあちゃんの誕生日だった。早く帰らなきゃ」 

 長親は喋りながら、すでに帰りだしていた。おばあさん思いの優しいやつだなと思っていると、柚葉が俺の腕をとって、歩きだした。

「やっぱり、あの二人――」

 いつも通りのざわめきが通り過ぎていく。 


 学校を出て、柚葉について歩いていくと、綺麗だがそれほど高さのないマンションの前に着いた。

「ここが、すみれちゃんの家だよ」 

 初めはぼーっと見ていたが、女性の家の前にいると思うと、急に緊張してきた。これでは、また柚葉に変態だと思われてしまう。

「どうして、柚葉は涼宮先生の家を知っているんだ? 昔からの知り合いなのか?」 

 緊張がバレないように先手を打って疑問に思っていたことを聞いた。

「うん、昔、すみれちゃんは家に住んでたんだ。私達ととても仲良くしてくれて、今のジョー君みたいに一緒にご飯食べたりしてたの」 

 涼宮先生のことを『すみれちゃん』と呼ぶのも家族のように一緒に過ごしてきたからか。

「どうして、引っ越したんだろう」 

 そう言うと柚葉は寂しそうな顔になった。

「理由はよくわからないの。でも、家で暮らしてた頃が一番幸せだったって言ってた」 

 幸せな場所を失ってまでの引っ越しとは何か理由がありそうだが、詮索しすぎるのは先生に対して失礼にあたる。とにかく、入ろうと思ったら、玄関の自動ドアが開かなかった。

「ジョー君。ここだよー」 

 柚葉の前に番号のボタンが並んでいる。ここでコールして、本人に開けてもらうやつか。女性の住むマンションは違うなと思っていると、また緊張してきた。

 柚葉がボタンを押していく。しばらく待つが誰も出ない。

「おかしいなぁ。まさか出かけてないよね。電話してみよ」 

 柚葉が電話すると、先生に繋がったようだ。

「もしもし、すみれちゃん? うん、柚葉だよ。大丈夫かな、元気なさそうだけど――うん、それでね、今マンションの下まで来てるから玄関の鍵を開けて欲しいんだ」 

 そこまで言ってもう一度、ボタンを押し、しばらく待つと、自動ドアの鍵が外れる音がした。

「これから行くから待っててね。御見舞の品も用意してるから、ふふ」 

 御見舞の品なんて、どこで買ったんだと思いながらマンションの中を進んでいくと、柚葉はあるドアの前で止まった。柚葉がベルを押す。しばらく待つとドアが開いて、涼宮先生が出てきた。

「さ、入って」 

 先生は俺たちを促すとドアを閉めて深呼吸をした。

「やっぱり体調が悪いの?」 

 柚葉が心配して聞いた。

「ううん、違うの。急いで片付けしてたら息切れしちゃって。歳ね」 

 涼宮先生は首を傾けて、とても可愛らしい微笑を浮かべた。それを見た俺は軽く頭痛を覚えた。 

 先生の部屋は白とブルーの格好の良い基調をしていた。先生のイメージからピンクだらけだと思っていたが、さすがに大人の女性である。部屋の間取りは1LDKといったところだろうか。

「ジョー君も来てくれたのね。ありがとう」 

 そう言われると急に恥ずかしくなって頷くことしかできなかった。涼宮先生の声はとても柔らかくて、心に染み渡ってくるのである。

「今日のお見舞の品はジョー君です!」 

 柚葉は突然そう言うと、俺を涼宮先生の方へ押し出した。自然と先生は俺を抱きとめる。体温が急上昇したかのようだ。二人とも急いで離れて、顔を赤らめた。

「あはは。ジョー君、乙女チックね」 

 さすが、あの楓さんの妹だけある。やるときはヤるという事か。

「じょ、ジョー君がお見舞の品ってことは、えっと、あの、一緒に暮らすってことで、えっと――」

「すみれちゃん、冗談だよ! まったく子供みたいになっちゃって。お見舞の品はこれ。ミズキ先生から預かってきたの」 

 柚葉はそう言うと、鞄からケーキの箱を取り出した。

「六条先生が……心配かけてるよね」 

 どうも涼宮先生は重い病気のようには見えない。養護教諭は学校に一人だけである。疲労がたまったのかもしれない。

「すみれちゃん。体調が悪いなら、しっかり休んでね。もし、何か私達にできることがあったら、何でも相談してね」 

 柚葉がそう言うと、涼宮先生は少し考えているようだったが、ちらっと俺の方を見た。

「……大丈夫よ柚ちゃん。明日には学校に行けると思うわ」

「そっか、それなら良かった。じゃあ、今日は帰るね。元気が出るまで、しっかり休んでいいんだから。さっきも言ったけど、何かあったら気軽に連絡してね」 

 柚葉と俺は先生の家を後にすることにした。外は薄暗くなってきているし、先生を余計に疲れさせてもいけない。早めに帰った方が良いだろう。

「何もなくても遊びに来てちょうだいね。ジョー君も歓迎します」 

 涼宮先生は俺に笑顔の顔を向けた。桜に似ている。そう思った。桜が大人になったら、涼宮先生のようになるだろう。あんなことさえなければ。

「ジョー君。暗い顔してどうしたの? わかった! すみれちゃんとの別れが寂しいんでしょ!」 

 また、俺と涼宮先生はまた顔を赤らめることとなった。 


 涼宮先生のマンションを後にしようとしたとき、俺は何かを感じて、後ろを振り向いた。誰もいないし、何もなかったが、確かに視線を感じたのだ。

「ジョー君どうしたの?」 

 柚葉が不思議そうにしている。

「なんでもない――と思う。ちょっと気になったけど、俺の勘違いだったみたいだ」

「じゃあ、帰ろ――」 

 そう言いかけて柚葉は急に俺の背中に隠れた。 

 前から男が近づいてきていた。明らかに俺たちを見ている。知っている男だ。あのメガネにギラついた目。

「お兄さん。なんだ、幸せそうじゃないですか。あの後、どうしたのかと思いましたよ」

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