第17話 愛
第17章 愛
あれから30年の時間がたった。
あの汽車に乗った日から、くどくど僕の身の上話を書くのは、迷惑だろう。
「要はいろいろあった」と書けばそれで十分だ。
なぜ僕が天国で筆を走らせているかというと、あの夏の「記憶」を描いておきたい、と始めに書いた。それだけだ。
いろんな色の水彩絵の具で。
伝える、なんて恩着せがましいものでもない。
語る、なんて値しないほどの話だから。
(娘たちは元気かな?
天国に行っちゃった訳くらいは書き留めてもいいかな。)
*
もうあの病院には戻りたくない。
僕は精神病棟のガッチャン部屋(特別処置室)で手足をベルトで結ばれて夢を見ていた。
(沙(さ)穂(ほ)美(み)じゃないか。
あのころのまま高校の制服の15歳なんだね。
淡い淡いピンクやグリーンの水彩色が僕らを包んでいる。
一緒に学校から帰ろう。手をつないで。
君の手は湿っていて暖かい。
ありったけの話をしよう、学校のこと、将来のこと。
全身全霊でおしゃべりをした。
沙穂美の栗毛色の長い髪、首もとに見える小さなほくろ。
カバンに吊りさげた小さなテディベア。
ローファーのつま先についた傷。
小さなやけどをかくすために伸ばした紺のハイソックス。
唇を重ねた後の君のうるんだ瞳。
僕は、そのすべてが好きだった。
消えないで。どうしよう。僕はもう46歳にもなってるんだから。
こんなことになって君には嫌われるだろうな、待って!
理由があるんだ。
行かないで!)
*
僕は沙穂美とあの夏のあとに、付き合い始めた。
初めて告白した時には、振られた。
たしかアイルランド出身のU2が絶頂期だった頃。U2のノンフィクション映画のチケットを、偶然2枚手に入れた、とか何とか嘘を言って誘った。
「ごめんなさい」そう言われて、見事に撤退した。
本当はポリスが好きだったんだよね。好きでもないU2を2時間も見るなんて、そりゃ気が進まないだろうね、僕は後悔している。
(今はポリスのアルバムを聞いてEvery Breath You Take .でなんとか光明を見出しているよ。他の曲はどうしようもなく哀しくて切なくて、耳に残らないけど。スティングのベースを真似するのは、やめといた。なんかレゲエ調のベースラインは苦手だ。)
振られて1週間後に、沙穂美が家へ来た。
「このまえはその・・・いいよ、つきあって」紅潮した顔で沙穂美は言った。
生まれて初めて彼女ができた。濱田沙穂美。
僕は忘れない。人生の運の半分を持ってかれた。
今でもそう思う。
学年1位の美少女・・・。
それは淡い淡い恋だった。付き合うといったって、学校を一緒に帰る、公園で話す、いっしょに買い物に行く、そんなものだった。
それでも何もかもが初めてのことなのだから幸せだった。
「清水君、いつから私のことが好きだった?」
「ん、前から」そんな程度の返事しか返せなかった。
初めて手をつないだ日。1月23日。語呂がいいから忘れない。その日歩道橋の上で唇と唇を重ねてみた。
君の瞳が涙でいっぱいだった。
不思議とそのくらいのことしか思い出せない。きっと何時間も夢中になって全身全霊で彼女といろんな話をしたはずなのに。
水彩絵の具のような淡い恋は、色が薄すぎたまま僕の記憶のなかで消えることは無い。どんなにぼやけてもかすかな色になって僕の中にあやふやに染み込んでいる。
いつ離れ離れになったんだろう?
高校を出て沙穂美はスコットランドに渡ってしまった。それさえあとから聞いた話で、僕はその時は芸能活動で忙しかったんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます