其の六
『しかし、それも今日が最後だと、これが言うのだ』
『「20になったら私は月に戻らねばなりません」ですか?』
俺は半ばからかいの意味もこめて、わざと皮肉っぽく二人に訊ねた。
志津子はNOとも、YESとも答えず、老婦人に向かって合図を送る。するといつの間にか俺の側にやってきて(この婆さんも、何故か音もなく移動するな)、
懐から『何か』を取り出し、志津子の手に渡した。
銀色の袋に包まれた、握りこぶし大の『何か』だった。
『これをあの方に渡して下さい。ここでの素晴らしい思い出を与えて下さったお礼に、と・・・・・』
『どうしても行ってしまうのか?』
老人の声が少しばかりかすれている。涙も混じっているようだ。
『お嬢様、そろそろお時間でございます』
後ろに控えていた老婦人の言葉に、志津子は深く頷き、懐から
『何か』を取り出し、それを己の額に当てた。
すると、まばゆいばかりの光が一瞬、彼女を包んだと思うと、いつの間にか彼女の衣装が、着物とも、宇宙服ともつかぬ銀色のコスチュームに変っていたのだ。
キィーン!
甲高い音がどこからか響き、俺の耳を打つ。
そればかりじゃない。
先ほどまで締め切ってあった、庭に面した硝子障子が全面あけ放たれ、襖も開いていた。
腕時計に目を落とすと、もう既に午後7時を回っていた。
外は暗がり・・・・の筈なのに、昼間以上の明るさが庭を包んでいるのに気付いた。
俺が庭に目を移すと、確かに外は夕闇の中だった。
明るいのは竜崎家の庭だけだった。
俺と老人が立ち上がるのとほぼ同時に、志津子と、そしてあの老婦人の二人が、まるで孫悟空が雲に乗って空を飛ぶように、まったく足を動かさず、移動してゆく。
廊下に出ると、庭には、天辺が尖った、丸い奇妙な形の物体が、地面からほんの僅か浮遊している状態で静止していた。
『志津子・・・・』老人が小さな声で呼びかけると、
志津子はちらりとこちらを向き、軽く頭を下げる。
それが、彼女とあの老婦人の姿を見た最後だった。
二人の身体は、やがてその乗り物に吸い込まれるように乗りこむと、そのまま小さな、甲高い音を響かせ、ゆっくりと空中に舞い上がり、そのまま夜の闇に一筋の光の帯だけを残して消えていった。
数日後、俺は見たままの出来事をレポートし、報告書に纏め、石上巡査部長君に手渡した。
あの小さな、握りこぶし大の『何か』と一緒に・・・・・
巡査部長君は、俺の話を聞き、報告書を読んでも、何だか狐につままれたような顔をしていたが、俺が、
『俺は私立探偵だ。見たままをありのままにレポートしたに過ぎん。』
と付け加えると、やっと納得したようだった。
手渡された『何か』は、丸い銀色の、ちょうど桃の実のような形をした石だった。
一見何の変哲もないものだったが、耳を近づけると、何とも言えぬよい香りと、そして心地よい音色が響いてくる。
それが何なのかは分からないが、彼の精神を落ち着かせるのに大いに役立っているらしい。
俺はある日、ねぐらの外、即ちビルの屋上に折り畳み椅子を出して、一杯やっていた。
春の夜風は心地いい。
ふと、空を見上げる。
折しも今日は満月だ。
俺も何だか、空を飛んでみたくなったな。
現実主義者の探偵だって、時にはロマンチックな夢想に浸りたい時もあるのさ。
終わり
*)この物語はフィクションです。登場人物その他は全て作者の想像の産物であります。
Fly me to the moon 冷門 風之助 @yamato2673nippon
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