其の二
今から1か月ほど前というから、まだ2月の半ばといったところだった。
その日彼はパトロールの途中だった。
時間は午後1時過ぎ、幾分曇り空。彼は新宿御苑の西側をバイクに乗って走っていた。
ふと、歩道の脇を見ると、一人の女性が、真っ赤な洒落た自転車の側にかがみ込んで何やら手を動かしている。
(チェーンが外れたな)
一瞬で石上巡査部長は気づいた。
『どうしたんです?』
声をかけてみると、こちらを振り向いて、顔を上げた。
『一目会ったその日から』
という言葉があるが、正に彼にとってこの時がそれだった。
『全身に電気が
半ば興奮気味に喋りまくった。
黒い癖のない、長く伸ばした髪、草色のダウンコートに、チェックのフレアスカート、雪のように白い肌にぱっちりとした瞳・・・・正に
『天女って、本当にいたんですね』だという。
半ば呆れ、半ば苦笑しながら、俺は巡査部長君を眺めていた。
二度目に会ったのは、それから1週間ほどしてからだったという。
彼が勤務していたハコ(交番のこと)の前で立哨をしていると、
『あの・・・・』と、声をかける女性がいたので振り返ると、そこに立っていたのが『天女様』だったというわけだ。
『あの時はどうも有難うございました』彼女は深々と頭を下げ、
『これ、お礼です』と、見事にパッケージされてリボンで飾ったクッキー(銀座の有名店のものらしい)を渡された。
通常、警察官はこうした贈り物を受け取ってはならないことになってるらしいのだが、幾ら何でも無下に断る訳にも行かない。
彼は黙ってそれを受け取った。
そのことがきっかけで、何度か彼女とデートをし始めた。
とはいっても、俺を含め周囲が『期待するような』仲になったわけではない。
巡査部長君が非番になり、ちょうど彼女も学校帰りに暇が出来た時、喫茶店でお茶を飲むか、食事をするか、公園で話をするか、まあその程度のことである。
下心がなかったと言えばウソになるが、と妙にそこだけ強調しながら、彼女について分かったことは・・・・
名前は
29と言う齢になるまで『恋』というものを知らなかった彼にとっては、正しくこれが初恋という訳だ。
『それだけの仲になってりゃ、何も俺の手なんか借りる必要はないだろ?』
『確かにそうです。でも問題はそこから先なんです。彼女が教えてくれたのはそこまででした。』
あとはどこに住んでいるか、電話番号の交換を頼んだが、どういう訳か、
『それだけは勘弁してください』と、頑なに口をつぐんだ。
『お前さん、自分の職業を何だと思ってるんだ?お巡りの端くれだろ?調べるなんてさほど難しくもないだろうに』
俺が少しからかうような口調で言うと、
『自分は卑しくも警察官です!職権乱用など出来ません!』
『え?じゃ探偵ならストーカーの真似をしてもいいってのか?』
俺の返しに、巡査部長君は、はっとしたような顔をして、
『そ、そうでした・・・・』とうなだれた。
『ウソだよ。冗談だ』笑いながらいい、俺はデスクに手を回してホルダーから契約書を一枚取り上げた。
『まあ、ここのところ仕事もなかったしな。いいよ。受けてやろう。その代わり既定のギャラはきっちり頂くぜ』
彼は頭を上げ、何度も頷いた。
真面目人間をからかうのは、これだから止められない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます