Fly me to the moon

冷門 風之助 

其の一 

『天女って、本当にいるんですね』


 事務所に入って、ソファに腰かけるなり、その男は真面目腐った口調で言った。


 新宿1丁目、花園公園近くの裏通り・・・・こんなゴミゴミした場所にも、ようやく春の香りが訪れてきた。


 開けてある窓からは、午後の風に乗って、気の早い桜の花びらがどこかから舞い込んできた。


 俺の名は乾宗十郎いぬい・そうじゅうろう


 しがない私立探偵だ。


 俺の事務所には、実に色んな人間が依頼人としてやってくる。


 中にはあまり来て欲しくない人間までいる。


 今日来ているのもその一人、


 名前は石上文麿いしがみ・あやまろ


 まるでやんごとなきお公家様みたような名前だ。


 背が高く、痩せていて、一件強面の警官なんかには見えない。


 彼は警視庁さくらだもんの警ら課に勤務している。


 年齢は28歳。じきに29歳になるところ。独身である。


 階級はこの間昇任試験に合格して、巡査部長になったばかりだという。


 現在は、千駄ヶ谷駅近くの交番で班長をしていると、こっちが聞きもしないのに、勝手に話してくれた。


 今日はたまたま非番で、それで俺のところにやって来たのだそうだ。


 別に俺は警察に反感を持っている訳じゃないんだが、お巡りを相手にするのはどうも苦手だ。


 しかし、ある人物から、


『どうしても頼みを聞いてやってくれ』と拝み倒されてしまったのだから仕方がない。


 ある人物・・・・そう、


 警視庁外事課特殊捜査班第一班主任。通称『切れ者マリー』こと、


 五十嵐真理警視殿だ。

 

 ある日突然事務所に電話があり、

(私の後輩みたいなものよ・・・・お願いだから話だけでも聞いてやって欲しいの。真面目な子だから、あんまりいじめないでね)


 ときたもんだ。


 別に女の頼みだから、鼻の下を伸ばしたわけじゃない。


 頼みごとに無碍むげにも出来ない。俺の性格を見抜かれてしまったというわけだ。


 やれやれ・・・・。


 石上巡査部長君とマリーとは彼がまだ警察学校を出て卒配(卒業してすぐに地域課の交番に配属されること)した時に、たまたまある事件がきっかけで知り合いになり、それ以来の仲だという。


 ただのヒラ巡査とキャリア警官が、どんな『きっかけ』で知り合いになり、どの程度の『仲』なのか、気にはなったが、そこは敢えて聞かずにおいた。


 彼は本当に『堅物』を絵に描いて額に入れたような性格で、酒も煙草もギャンブルもまったくやらない。


 女遊びですらまったく無縁に過ごして、子供の頃からの夢、つまりは警官になった。


 そんな男が、恋をしたのだという。


『おい、ちょっと待ってくれ』

 

 ぱきっっと、シナモンスティックを噛んで、俺は言った。


『真理から聞いて知っているかもしれんが、俺は結婚に離婚、それに恋愛関係に関する依頼は、個人的信条として引き受けないことにしてるんだ。』


『勿論、聞いています。僕だって男ですから、好きになったらその後の事は自分で何とかします。だけど、その女性については分からないことが多すぎるんです。僕は警察官ですから、彼女を付け回して、ストーカーの真似をするわけにもゆかんでしょう?だから・・・・・』


 石上巡査部長はうつむいて、俺が出したコーヒーのカップを両手で抱えたまま言った。


『仕方ないな。まあ、兎に角話だけは聞いてやる。その彼女ってのは、一体何者なんだ?』


 俺の言葉にほっとしたのか、ちびりちびりとコーヒーを飲みながら、彼は『想い女(びと)』について語りはじめた。



 




 





 

 


 


 













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