雨が潤滑油になればいいのに
@moonbird1
雨が潤滑油になればいいのに
「今日も雨ですね」
午後0時。彼女は傘もささずにいつも通りバス停に佇んでいた。
「風邪引くぞ」
「引きに来てるんです。引きこもりですから」
彼女はふふ、と愛想笑いを浮かべ、私服のポケットからスマホを取り出して手慣れた操作を始める。
「誰かから連絡が来ることあんの?」
「野暮なことを聞かないでください。現代人の一番の友人は、かわいい子でも、頭のいい子でもなく、携帯それ自体なんです」
「なるほど」
自分の携帯を確認しようかと思いかけたが、何の連絡も来ていない時の落胆を恐れて動きを
「私思うんです」
「うん?」
「世界には75億人の人がいて、日本人は1億2千万人いる。それだけいれば、我々みたいな人もそりゃいるでしょう」
「でもそれを屁理屈だ、逃げだと言う人もいる。彼らは正しい」
「真人間さんにこそ、社会を動かしてもらえばいい。ドロップアウトした人間が社会に這いつくばる必要なんてあるんですか?」
「君はまだ若い。再起できる」
「お兄さんだって」
彼女はそこで声を落とした。気を遣った結果なのか、単に元気を失くしたのか判断がつかなかった。
「……まだ若い」
「そりゃどうも」
降り止む気配はなかった。周りには自分たち以外誰もおらず、これからも来る気配はなかった。彼女はそれを分かり切っているかのように話し続けた。
「……こっちには屋根もないしベンチもない。向こう側にはあるのに」
「市に文句言うか」
「言ったところで設置なんてしてくれませんよ」
「……ほんとに風邪引くぞ」
「どっちだっていいんです。どうせ体調が良くても悪くても学校には行かない」
「やさぐれんなよ」
「晴れても雨でも、曇りの日でも学校には行かない」
彼女の異変に早く気が付くべきだったのだ。彼女の嫌な汗は、雨に紛れて見えなかった。
「友達がいても、いなくても――学校、に、は――」
彼女の呼吸が徐々に、確実に乱れ始めた。小さな口から、はっ、はっ、と短い呼吸を繰り返した。濡れそぼった黒髪が騒めく。
「おい」
反射的に彼女に駆け寄り、抱き留めた。けれどそれで事態が改善するわけでもなかった。
「おい、大丈夫か」
「私、私――」
彼女は泣いていた。荒い呼吸をしながら、雨に濡れながら、涙を流していた。
「分かった、分かったって。落ち着け。深呼吸」
心臓が途轍もないスピードで脈打った。最終面接の時より速く。最悪の結果が脳裏をよぎった。
「私あっ、こんなんじゃ、こんなはずじゃ――」
救急車を呼ばなければならない、と思った。自分のポーチから携帯電話を取り出し、そして防水非対応だったことに思い至った。激しい雨は一瞬で外への通路を遮断した。
「携帯貸せ。離せ」
「あっ、あっ――」
もはや声にならない嗚咽で身体中を震わせている彼女はそれでもなお、唯一の友人を離そうとしない。俺は彼女を二の腕で支えたまま、反対の手で彼女の携帯を奪い取った。指が触れると、まるで「私は元気です」と言いたげに強い光を放った。
しかし彼女の友人は残酷にも、パスワードを要求した。気が動転した俺は、その下にある「緊急」アイコンに気が付かない。
「おい、パスワード――」
俺が彼女に視線を向けた時、荒い呼吸は収まっていた。もしかして意識を失ったのかと血の気が引いたが、少し症状がましになったようだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい――」
彼女は謝り続けていた。鼻水が俺のどうでもいい私服の上に試着した。今日が就活の日でなくて良かった、なんて場違いなことを考える。彼女の謝罪は俺の耳には届かなかった。俺に言ったのではないのだろうと思いたかった。誰に対する言葉でもないほうがいい。彼女は悪くない。そう思いたかった。
真人間たちは逃げだと糾弾するだろうが。
「……取り乱してすみませんでした」
「もう平気か」
「うん。……たまに……なるんです」
「もう学校のこと考えるな。少なくともしばらくの間は」
「ここに集まるようになって1か月くらい、ですか? 今までこんなことはなかったのにな。もう会ってくれませんか?」
彼女の潤んだ瞳と目が合った。引きこもりでも、ちゃんと助け船の出し方は分かっているのかもしれない。彼女の細い生命線なのかもしれない。
思い上がりかもしれないが。
「いや、仕事決まるまではたまに来る」
「よかった。今日のこと、誰にも言わないでくださいね」
「言わない」
「ご家族にも」
「言わない」
「面接でも」
「言わない」
「彼女さんにも」
「いない」
ふふ、と彼女は笑った。そしてかつてない速さで、友人を自分の元に奪い返した。
「今度会ったときに、パスワード教えてあげます」
「もうお前の携帯使わないよ。同じことが起きない限りは。起きないよう気をつけろ」
小降りになっていた。太陽が顔を出せば暑くなるだろう。
「じゃ、帰る」
遠くに大きな車体が見えた。バスがやってきたようだ。
「うん、また」
彼女は小さく手を振った。別れを惜しむように、止みかけの雨が額に当たる。
雨が潤滑油になればいいのに、と思った。俺たちは誰よりも雨に打たれている。油にまみれた身体で、汗をかきながら、涙を流しながら誰よりも機敏に働くのだ。
家に帰ったら携帯を拭いて、就活サイトのチェックをしなければ。
採用の連絡は来ていないように思えた。合格なら大抵電話がかかってくるからだ。それとも、水に濡れている間に着信があったのだろうか?
希望的観測ならいくらでもできる。けれど、天気予報だって一週間後の天気を当てるのは難しい。
雨が潤滑油になればいいのに @moonbird1
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