(5)椎名、決断する
次の日、僕はゲストハウス紺碧の自室から一歩も出ることはなかった。スマートフォンの電源も消した。身体が怠く食欲もない。頓服を飲む気も起きない。
僕は息をひそめて死んだように倒れていた。
生きているけど限りなく死んでいた。
その次の日も僕は引きこもっていた。
そしてその次の日、扉を叩く音が聴こえた。
「椎名さん、大丈夫ですか?」
三橋山ルカが僕に声をかけている。
「大丈夫です……」
「どこが大丈夫何ですか、このところ部屋から出ていませんよね、ご飯作ったので一緒に食べましょう」
僕は無理矢理引きずられる形で紺碧の談話室で座る。
そういうとルカちゃんはホカホカのご飯と具沢山のお味噌汁、アジの干物や煮物や和え物などの沢山の小鉢を用意してくれた。
「さあ、食べてください。私、料理は自信あるんですよ」
僕はお味噌汁を飲んだ。温かい。ずっと冷たいままだった身体と心に温かさが染みていく。
ルカちゃんの強引さに救われた。料理を美味しいと感じたのは久しぶりな気がした。
「ルカちゃん、ありがとう」
「いえいえ。オーナーから連絡があったんですよ。椎名が生きているか確認してくれって。心配していましたよ」
「……なんか、ごめんね」
僕は何と言っていいか分からなかった。やっと絞り出した「なんか」という言葉で濁すことしか出来なかった。
「困った時はお互い様って言うじゃないですか。それに椎名さんは私とオーナーの恋のキューピットになってくれる約束をしてくれたでしょう? だから椎名さんに倒れられたら私は困っちゃうんですよ」
冗談めかしにルカちゃんは言うが僕を心配してくれているのは染み入るほど分かった。
「――ありがとう」
しがらみのない優しさに僕は泣きそうだ。
ルカちゃんはそんな僕を見て「お茶を持ってきますね」と静かに席を外してくれた。
優しさのテンプレートを嫌うのに誰よりも優しさを求めていたのは僕だった。
それから僕は数日ぶりにシャワーを浴びた。身体を清潔にしたら思考もクリアになっていくのを感じる。食事を摂り清潔を保つことが、精神を良好にしてくれる。
無力な僕は権力に利用されるしかない存在かも知れないけれど、そんなのを関係なしに、僕はやるべきことを終わらせるだけだ。
そう考えれば少し気分が明るくなった。
それから僕は星乃に連絡をせず、ヒーロー組合へ向かった。
「こんにちは」
「あら、こんにちは。椎名さんこの間より顔色が良くなっていて安心したわ」
もう顔見知りになっているパートのおばさんが出てきた。
「何度もご迷惑をおかけしてすみません」
「いえいえ、元気になられてよかったわ。今日はどんな要件かしら」
「黒川さんにお話ししたいことがありまして。連絡なしに来てしまったのですがお話しすることはできますか?」
「はい、少々お待ちくださいね」
パートのおばさんは内線をかけ始めた。ヒーロー組合の窓口にはパートのおばさん以外に細身の色黒の男性がパソコンで何やら作業をしている。
見た目で人を判断してはいけないけれど、軽薄そうな今時の若者のような彼が真面目にヒーロー組合で働いているのは新鮮に写った。
彼みたいな学生時代にスクールカースト上位に居たような人種とは関わったことがない。人を見下し差別していた嫌な存在を彷彿させるそんな彼が、どんな思いを抱いてヒーロー組合で働いているのだろう。
黒川が来た。
「椎名さんお待たせしてすみません。来ると思っていました。ではこちらへどうぞ――ここでは話せないお話でしょうから」
「――はい」
僕は素直に黒川についていき、この前と同じ部屋に通された。嫌な記憶が蘇るが、気にしないことにする。僕が嫌だから何なのだ。
「椎名さん、この前よりお元気そうで安心しました」
「――ええ、おかげさまで目が覚めました」
「それは何よりです。それで椎名さん、この前のお返事をして下さる為にここに来て下さったのですよね」
胡散臭い笑みを浮かべる黒川はヒーロー組合の人間には見えない。別の意味で人を見た目で判断してはいけないという道徳教育は間違えではいことが分かる。それでも僕は決めたのだ。
「酒井兼続を探すのに協力をします、ですがひとつ条件があります」
「何ですか」
挑発的に黒川は僕を見る。
「正義の子どもの詳細な情報を僕に教えてください」
「――椎名さん、正義の子どもの情報は国家機密なので教えることは出来ません。貴方はそれを分かっているはずです」
「ええ、それを知った上でお願いしています」
「……いくらあなたが可哀そうな一般市民でも、立場の違いを理解してお話をすることをオススメしますよ」
「では、それがダメなら、僕と木下桃子と面会をさせて下さい。」
黒川は笑みを絶やさない。僕も微笑んでみることにした。
「ははは、分かりました椎名さん。国家機密はお話しできませんが、木下桃子と面会出来るようにしましょう。それには条件があります。私の立ち合いの元、十五分だけ面会を許可しましょう」
「立ち合いは警察官ではないのですね」
「ええ、木下桃子容疑者の件はヒーロー組合の管轄ですから。――椎名さんは分かっているでしょう」
黒川は僕を見る。何を考えているのか分からない表情だ。掴み所のない雰囲気が星乃と似ている。
「――もちろん」
この男は星乃と同様に油断できない。長いものに巻かれた方が楽に生きることが出来る時もあるけれど今は抗う時だ。
翌日紺碧に黒川から電話があった。木下桃子と面会の手筈が整ったから今から迎えに来てくれるらしい。今は一般人の扱いなので特別待遇だ。
星乃から支給されたスマートフォンは使いたくないので連絡先に紺碧の番号を伝えたのだ。僕がヒーロー組合と連絡を取っているのを星乃はとっくに知っているだろうが、スマートフォンを使わないのはせめてもの抵抗だ。
黒川が車から出てきた。
「お待たせしてすみません、椎名さんどうぞお乗りください」
後部座席の窓から海老野朱莉が僕に手を振っている。
「椎名さんこんにちは!」
「……どうも」
僕は車に乗り込んだ。
観光客で混んでいる海沿いの道を走る。海老野朱莉が申し訳なさそうに言う。
「あの椎名さん、木下桃子がいる場所は機密事項なので今から目隠しをして貰ってもいいですか? あと電子機器も預からせて頂きたいのですが」
「大丈夫ですよ、僕はただの一般人なので」
僕の嫌味に黒川は笑った。海老野朱莉は意味が分からないという表情でいる。僕は自ら目隠しをして、電源の入っていないスマートフォンを海老野朱莉に渡した。
それから僕は長い時間、車の振動や踏切の音などを聞いていた。目隠しのせいでどこを走っているかも分からない。
「目が見えなくて不安かもしれませんが、私が隣にいるので安心してくださいね」
海老野朱莉はそう言って僕の手を包む。きっと海老野朱莉は善意の気持ちで優しく接してくれている。その原液のような濃い優しさに僕の掌は火傷しそうだ。
海老野朱莉は正義を守り維持する為に生まれた女の子だ。彼女の身体の半分には生きていない無機質な物質が身体を覆っている。その現実を海老野朱莉はどう思っているのだろう。彼女はこれからずっと正義の為に人々の期待と悪の組織からの憎悪に挟まれ続けて生きることになる。
誰のことも特別視せずに公平に皆を守ることが運命づけられた哀れな少女だ。彼女には世界平和と何かを天秤でかけることすら許されていない。不自由な正義に縛り続けられて彼女の優しさや慈愛を消費し続けるだろう未来が僕には想像がついた。
悪の秘密結社・星屑の総統、星乃王玖が復活するのは時間の問題だ。星乃のことだから僕の見えない所で用意周到に世界を絶望へ陥れる準備を着々に進めているに違いない。
この状況を見てみさきだったら海老野朱莉に何て声をかけるだろう、みさきが僕の立場だったら、どうしていたのだろう。
みさきは僕の為に復讐しようとするだろうか。
考え込んでいたら車が止まった。目隠しをしたまま歩かされ、僕は建物の中に通されているのが分かった。車の熱気が籠っている臭いがするから、何となく地下駐車場にいることが分かった。
海老野朱莉は目隠しをしている僕が転ばないように僕の手を取り、とても丁寧に案内をしてくれたおかげで転ばずに進むことが出来ている。
「朱莉、椎名さんのアイマスクを外してあげて下さい」
「はい」
黒川の一言でアイマスクが外された。視界が一気に明るくなり目が眩み、前が良く見えない。ここはどこなのだろうか。
近代的な鉄格子の檻の前に筋骨隆々の看守の男二人が見張りに立っている部屋にいた。
海老野朱莉は扉の外にいる。
木下桃子は檻の中で気だるげに座っていた。
「ご苦労様です」
黒川が声をかけると看守たちは会釈をした。
「木下さん、あなたに面会をしたいという人をお連れしました」
「……珍しい、私に面会だなんて」
「面会は許可していますから」
「へぇ、初めて知りました。そんなことより、今回私はどれくらい拘ここにいるの」
「――さあ。力を椎名さんに向けたので、以前よりは長いかと」
「はっきりしないな。で、私の面会人はこの男ですか?」
「ええ」
木下桃子は僕を指さした。僕の心臓は、拳銃を向けられた時と同じように震えた。
僕をまじまじと見る。値踏みをされている気分だ。
例えば、お前に東みさきの死の真相を受け止められるのかを問われているように。これは僕の妄想に過ぎないのだけれど。
「では椎名さん、ここにお座りください。我々は外にいますから、何かあったら大声を出してくださいね。エビフライちゃんが飛んできますから」
黒川と看守たちは部屋から出ていった。部屋の隅には監視カメラがあるが形だけは一応二人きりにしてくれるらしい。これは一般人故の扱いなのか、悪の秘密結社の端くれへの特別扱いなのか判断が付かない。
僕は木下桃子と対面する。
「……あなたに聞きたいことがあります」
僕はやかましい鼓動を無視して言葉を発した。木下桃子は僕を見て汚らしく笑っている。その表情でこの女は絶対何かを知っているのを確信した。
「あんたさ、私を待ち伏せしていた男だよね。あんたのせいで私はまたここに拘束されるハメになったんだけどどうしてくれるの?」
「そんなの知りませんよ。あなたが酒井兼続の情報を言わないのが悪いんじゃあないですか」
「こんなとこまで追いかけて来るなんて、あんたは星屑の人間?」
「名目上はそうなっています」
「名目上? 意味わかんない」
「ですよね、僕もよく分からないんです」
素直にそう言うと木下桃子は笑い出した。表情がころころ変わる人だ。みさきと少し似ている。
「それで、僕に酒井兼続の情報を教えて貰えませんか」
「じゃあ天地神明にかけて私と約束をしてくれるなら教えてあげる」
「天地神明?」
「そ、どこの神様でもいいから、神さまに誓って私との約束を守るって言って」
「……約束って何ですか」
木下桃子は何を言っているのだろう。
「私のことを殺してほしいの」
「えっ」
驚いた僕に木下桃子は恍惚とした表情で語り出した。
「私はね、酒井さんの恋人だったの。一緒にいて幸せだった。でも私は身体が弱くて酒井さんは心配性だから私のことを健康な体に改造したいって言ってくれて、私は人造人間になったの。ロマンティックでしょう? 生きた人間をサイボーグ化することができたのは酒井さんだけ。酒井さんは星屑よりヒーロー組合で研究した方が、私の命が尽きる前にサイボーグに出来るって言うから、一緒に星屑を裏切ったの。その後、私は酒井さんの子どもを産んだの」
「まさか……」
「そう、外にいる海老野朱莉は私と酒井さんの子どもなの。酒井さんはね、正義とか悪とかはどうでもよくて、大好きな研究が出来て、私と居られれば幸せだって言うの。真っすぐで素敵でしょう。だからね、娘が酒井さんの研究に協力するのは当然でしょ」
「そのことを彼女は知っているんですか……」
「知らないわよ。海老野朱莉は人造人間になってから私たち両親の情報は全て消した。その方が幸せだって、黒川が言うから」
木下桃子の言っていることが何も理解出来なかった。自分の子どもを人造人間に改造するなんて。そんなひどい話があるのか。
「……酒井兼続は今どこにいるんですか」
「もうこの世にはいない」
「どうして、」
「エビフライちゃんに殺されちゃったの」
僕は何も言えなかった。
「……そうなんですね」
「そう、だからさ、私はこんな世界に未練なんてないのよ。いつ死んでもいい。でも私は改造人間だから死ねないの。自殺しようとしたら海老野朱莉に見つかって止められる。私たち二人は唯一の人造人間だから。誰かを殺したら罪で裁かれるかなあって思ったのに、私は希少な被検体だから簡単に殺しても貰えないし、罪を犯す前に海老野朱莉に止められる。ねぇあなたは私に殺されそうになったか分かる?」
「……酒井兼続に近づこうとしたからじゃないんですか」
「そうよ。死んでしまったけど、私よりあの人に近づくのは誰でも許せないから、酒井さんに近づく人間は殺すって決めていたの。正義とか悪とか関係なくね。……まあ、いつもエビフライちゃんに止められて誰も殺せないんだけど」
「……あなたは何を言っているんですか、おかしい。狂っている」
死者と生者の間の距離感なんて誰にも測れるものではない。それに近づいた人間を殺してしまったら死者と死者で近づいてしまうのではないかとも思った。何より平然とそんなことを話す木下桃子は狂っているとしか思えなかった。
「それの何が悪いの?」
僕の理解の及ばないことを考える木下桃子の存在が恐怖でしかなかった。
「でも天地神明に誓って私を殺すって約束してくれたから、貴方の欲しい情報をあげる」
僕が黙っていると、木下桃子は苛立つように言葉を投げる。
「ねぇ、あなたは復讐しに来たんでしょう? 東みさきの死の真相を知りたくてここまで来たんでしょう。しっかりしなさいよ、死者は復讐なんてせず幸せに生きて欲しいっていう他人からの慰めの言葉を拒絶してきたから、ここまで来られたんでしょう?」
「……何であなたが知っているんですか」
「――ここにいる人たちはみんな知っているわ、もちろん黒川も。この意味が分かるでしょ」
意地悪な笑みを浮かべる木下桃子に少しでもみさきの面影を重ねたことが嫌になった。みさきとこいつは全く似ていない。
「天地神明に誓ってあなたを殺します、だから早く真相を教えてください」
僕の言葉に安心したような表情をし木下桃子は、真相を話し出した。
僕はそれで全てを理解した。
それから僕は行きと同じように目隠しをされ黒川に送られて紺碧まで帰ってきた。
何も言わない僕に黒川も何も言わない。海老野朱莉は変わらず僕に優しくしてくれたが、真相を知ってからはその優しさをひどく悲しく感じた。
君はどうして、と言いかけたが音が出なく喉が静かになるだけだった。
その晩は紺碧で夕食をお願いした。ルカちゃんが作ってくれた料理はとても美味しくて、他の宿泊客もルカちゃんのご飯を美味しく食べていた光景が幸せそのものに見えて、その隅で参加できている僕は幸せだと久しぶりに感じた。
幸せなん久しぶりの感覚はこそばゆく、憑き物が落ちたような穏やかな気持ちになった。
「椎名さん、電話ですよ」
ルカちゃんに呼ばれ電話を受ける。
黒川から連絡が来ることは分かっていた。この電話が合図のように僕を現実へ引き戻す。これから選ぶ道がどんな道でも、みさきは僕を許してくれるだろうか。
復讐なんて望んでいなくても、僕は木下桃子の言うように他人からの慰めを拒絶してここに来た。今さらもう後には戻れないのだ。
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