(2)椎名、出会う

 ゲストハウス紺碧は、見晴海岸の近くの南銀座商店街の中にある。

 紺碧は白と青を基調とした南国を思わせるような外装をしている。昨今の昭和レトロブームのおかげで古き良き昭和の匂いが漂う有限町は観光客が増えている。ゲストハウス紺碧もそのブームに乗っかり、安く宿泊できてお洒落なインテリアで写真映えもする、かつ地元で取れた食材をメインにした料理も人気のひとつだと、静波県の観光情報誌に書いてあった。

 人気宿泊施設が星屑の拠点のひとつだなんて、誰も思っていないだろう。

 チェックアウト後のお昼過ぎの紺碧はとても静かだった。誰もいない、閑散としているロビーは少し居心地が悪い。

「すみません」と声をかけたら奥から「はーい」と返事が聞こえた。そしてしばらく待つと、若い女の子が来た。

「こんにちは、あっ、もしかして椎名さんですか。オーナーのお友達の!」

「そ、そうです……」

「お待ちしておりました、お部屋にご案内しますね」

「あ、はい、ありがとうございます」

 オーナーの友人という体で宿泊するからかとても良い待遇だ。僕はいい年の大人なのに、可愛い女の子に声を掛けられると緊張してしまう。持病の人見知りのせいでどもってしまった。今年で僕は齢いくつになるんだろうかと、考えだしたら絶望的な気分になってしまったので考えるのを辞めた。

 それから彼女は僕にゲストハウス紺碧のシステムを紹介してくれた。シャワーや洗面台、お手洗いは共同で洗濯機も有料で使用できる。勝手に使って良いらしい。だが有限町は温泉街なので近隣の温泉を使う人が多いらしい。食事は頼めば朝食は食べられる。

 紺碧はドミトリー式のゲストハウスなので、押し入れのような狭さの二階建ての個室が両端に五つずつ並んでいた。ここは隣同士が近いので声が響くため、静かに過ごさないといけないらしい。粗方の説明が終わると、三〇一と書かれている鍵を渡された。

「椎名さんのお部屋は三〇一号室です。ゲストハウスなのでご不便をおかけしてしまうかもしれませんが何かありましたら従業員にお声掛けくださいね。申し遅れましたが、私は三橋山ルカと言います、よろしくお願いします!」

「よ、よろしくお願いします、三橋山さん」

「ルカでいいですよ」

「……ルカちゃん、よろしくね」

 初対面の女の子を呼び捨てに出来るようなコミュニケーション能力はない。頑張って名前に「ちゃん」付けだ。

 それから僕は三〇一号室に入った。ここは一畳分ほどの空間しかなかった。折り畳まれた布団に倒れこみ、僕の背丈ではぶつかるほどの低い天井についている電灯を眺めた。談話室はとてもお洒落だが、持病の人見知りがある僕は使わないと思う。寝室が個室でよかったと心から思った。これで見知らぬ誰かとの相部屋だったらストレスで倒れてしまうだろう。

「――そろそろ行くかな」

 小さい声で呟いたつもりなのに、声が響いて驚いた。うるさい客人が来ないことを願う。

 フロントでルカちゃんに有限町観光の手書きの地図を貰った。観光情報誌には紺碧の手書きの地図には穴場の観光名所が書かれていて、これも紺碧の人気のひとつのようだ。

 ゲストハウス紺碧と海は近いが見晴海岸とは少し離れている。だが南銀座のバス停からバスの本数が多く出ているから交通に困ることはなさそうだ。

 丁度よく来たバスに揺られながら見晴海岸に着いた。


 僕は、着いたばかりなのに帰りたくて堪らなくなった。想像していた通りだが、僕は真夏の海辺が全く似合わない人種なのだ。

 僕の目の前には夏の海が似合う人々が楽しそうに海水浴をして楽しんでいる。

 みさきが死んでから『楽しむ』という感覚が分からなくなってしまった僕にとって、目の前の人々との間にはマリアナ海溝以上の深い溝に遮られていると思うくらい距離を感じる。

「困ったら、これを着ろよ」と出発の時に星乃に渡された包みがあることを思い出し、僕は縋る思いでその包みを開いた。でもその中にあったのは派手な赤いアロハシャツで。

「帰りたい……」

 僕にこの赤いアロハシャツは似合わなすぎるし、それは星乃にも目に見えて分かっていたことだろう。そもそも静波県有限町は南の国ではない。僕は今、浮いている。

 もしかしたらこの赤いアロハシャツを着ればマリアナ海溝以上の深い溝の超えられる、見晴し海岸にいる明るく楽しそうな人々に近づけるかもしれないと、一筋の希望が見えたのだ。

 しかし、その希望は幻だった。

 椎名春夫にアロハシャツは似合わない、その辛い現実が浮き彫りにされただけだった。

 そもそも友達もいなかった地味な男にアロハシャツは似合うはずはないのに、僕は何を血迷ってことをしてしまったのだろうと頭を抱える。

 これは絶対に嫌がらせだ。くたばれ、星乃。

 きっと今、どこかの監視カメラをハッキングしてアロハシャツに着られている僕を見て爆笑しているに違いない。見晴海岸にいる人々がアロハシャツを着ている僕をみて指をさして笑っているように見える。

 着なければよかった。脱ごうとも思った。

 けれどさっきまで着ていたには服は大きな汗染みが出来ていて、生理的に着替えたくはない。僕は今、フライデーを探すよりユニクロを探したい気分だ。

 星乃への怒りと羞恥で、目眩と頭痛がしてきた。頭を抱えてしゃがみ込む。今すぐみさきの元へと旅立ちたい……

 復讐すらどうでもよくなりかけていたその時、誰かに声をかけられた。

「――どうかされましたか」

「は、はい?」

 突然声をかけられて顔を上げる。

「しゃがみ込んでいたので体調が悪いのかなって思って。大丈夫ですか?」

 僕に声をかけてきたのはオレンジ色の派手な長い髪に、ビキニにデニムのショートパンツ姿の少女だった。ああ、きっとこの子が……

「大丈夫です、ちょっと夏バテしてしまって。それより君はもしかしてエビフライちゃん?」

 僕の問いに少女は太陽のような笑顔で答えた。

「はい! 私が正義の味方のエビフライちゃんです」

 厄介な人物に接触してしまった。ウェンズディから送られてきた情報が頭を駆ける。

 この子が、正義の少女エビフライちゃん。本名、海老野朱莉。可愛らしい外見に秘められた暴力的までの強い力、その危うさと正義を愛する心を持っていて、悪の秘密結社・星屑をたったひとりで壊滅させた人造人間。そして、僕の仇かもしれない子ども。

「今、有限町で夏バテ防止キャンペーンをやっていて、お水を配っているんです。よかったらどうぞ」

 海老野朱莉は善意しかない表情で僕に水を差しだす。困っている人を助けるという正義の優しさそのもので。きっと彼女は今も正義の味方として当然のことをしていると思っているのだろうか。

「……どうかされましたか?」

 黙っている僕に少女は心配そうな表情で僕を見るが、それを直視できないでいた。

 そして何故か頭の中がグルグル回り出し、喉の奥底から飲み込めきれない何かがせりあがってくる。本当に夏バテになってしまったのかもしれない。気持ちが悪くて吐きそうだ。

 息が荒くなりしゃがみ込んだ僕に海老野朱莉はビニール袋を差し出した。

「これを使ってください。今から休める所にお連れしますね」

 言葉を発せられない僕は頷いた。そして気づいたら海老野朱莉に抱えられ、宙に浮いていた。横目には広大な大空と大海原の境目を見た。海老野朱莉は空を飛べると、ウェンズディの情報にあった気がした。

 少女にお姫様抱っこをされる日が来るなんて……初めての浮遊感に揺られ、目の前の少女の胸元に邪な感情を抱く余裕もなく瞼が段々落ちていく。

 そして僕は夢を見た。忘れられない過去の記憶を何度も何度も夢の中で上映される。

 七海小学校の瓦礫の中に、無惨な姿で息絶えているみさき。その衝撃的な姿は網膜の焼きつき一生薄れることのない光景だ。

 夢の中の僕は決まって、花束と指輪を持っている。そして呆然と立ちつくしていると、星乃はひとりでみさきに乗る瓦礫を除けながら言うのだ。

「おい、知っているか。この女はお前の信じる正義に殺されたんだぜ」

 気づくと花束は枯れていて、指輪を僕は無くしているのだ。

 そして僕はいつの間にかみさきの墓前で喪服に仏花を持っているのだ。

 みさきと描いた幸せな夢はもう一生訪れないと言われているように。生者の僕と死者のみさきは二度と出会えない現実を夢の中で何度も何度も突きつけてくる。みさきが死んでからこの悪夢の上映がずっと続いているのだ。

 目が覚めたらベッドで横になっていた。起き上がると何かが転がった。タオルに包まれている保冷剤だった。アロハシャツの脇に保冷剤が挟まれていたらしい。

「気が付かれましたか」

 恰幅の良い優しそうな女性がいた。

「ここは……」

「ヒーロー組合の事務所ですよ。お兄さんのことをエビフライちゃんが運んでくれたんです」

「ご迷惑をおかけしました……」

「いいんですよ、気にしないで下さいね。困った時はお互い様ですから」

 悪の秘密結社・星屑の人間が仇のヒーローに助けられ、敵の本拠地で介抱されたなんて、隙がありすぎではないか、椎名春夫。海老野朱莉はまたヒーロー活動に戻ったらしい。

 僕は職員の女性に何度もお礼を言い、帰り際に不意に聞いてみた。

「もしかして、あなたも何か特殊能力があるんですか?」

 すると彼女は笑いながら、

「いいえ、私はただのパートです。特殊能力なんてエビフライちゃんにしかありませんよ」

「そうですよね、変なことを聞いてしまってすみません」

 そりゃそうだ。人造人間がそこら中にいるわけがない。

「お世話になりました……あの、すみません。この辺りにユニクロとかってありますか?」

「ええ、ありますよ」

 彼女はバカ丁寧にユニクロまでの道を教えてくれた。とても優しい良い人だ。良い人は都合のいいという意味だ。

 そして僕はユニクロでシンプルな服を買い、着替えた。

 アロハシャツはすぐに捨てた。

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