第二話 明暗
光あれば闇がある。それは、嫌なくらいに当たり前のこと。
哲生にとって、別段汀に対してのそれが初恋ではない。はじめては、優しく眼をした綺麗な幼稚園の先生に対して、であったことを彼はよく覚えている。そして、その次がお姉さんのお友達の美人さん。
全てが、打ち明けられずに萎んだ、しかし今思えばどこか輝かしいものだった。
これで三度目。けれども今回の恋が、特別でないかといえば違うだろう。
そういう好みなのか哲生が年上らしき鬼の女の子に抱いた今の恋は、異常なまでに茹だっていた。
一目惚れして直ぐに告白なんて、頭でっかちの哲生では普通ならば考えられないことだ。つまり、それほどまでの熱情が彼を動かしたということである。
小学生になってしばらくしてからお利口さんだからと貰えた一人部屋にて、恋する少年は煩悶した。ベッドの上でごろごろ右に左に。しばらくしてからぽつりと彼は呟く。
「名前、聞けなかったなあ……」
十しか重ねていない年齢故に未だ中性的な顔を朱に染めて、にへりとしながら残念そうに哲生は中空に零した。
好きと関わり深めることが出来なくて、彼は今の一人をつまらないと想う。
あの後告白に照れたのだろう鬼の少女は真っ赤な顔を抱えながらひとっ跳びに消え去った。その際に白襦袢がぺろんと捲れていたことで見えた白く丸いお尻を哲生は思い出す。そうしてぼっと顔を深紅に染めることになった。
「ああ、何だか恥ずかしい……あの人、どうして履いてなかったんだよお……」
裸はいやらしいもの。そういう知識だけでなく、日常に挟まれた肌色はどうにも心をざわつかせる。目に焼き付いた柔肌を無駄に良い記憶力で覚えてしまった哲生は、なんだか自分がいやらしくなってしまったようでむずがしかった。
告白には照れていたというのに、どうして裸身の披露を恥ずかしがらないのか。ひとっ跳びで空に消えたその身体能力といい、嘘のような角といい、変態。そういう言葉が沸いて出る。
「でも僕、そんな人に恋したんだなあ……」
呟き、そうして哲生はようやく実感を腑に落とした。
気になって、彼女の顔が離れずに、思わずその姿を走って探しに向かいたくなってしまうような心地。先のように相手に瑕疵を見つけたところで、それがどうしたと思ってしまう、大きな感情。
苛められて落ち込んでいた気持ちが、随分と上向いてきたものだと、感じた。
「ああ、そういえば明日、どうなるんだろう……」
そして、ついでに自分が同い年の彼らによって苛められていたことも、思い出す。
今日のように、明日も似たような目にあってしまうのだろうか。辛かった。それは間違いない。けれども今なら。もう、どうでも良くなってしまった彼らに対してならば。
「怒れる、かな?」
大人しくあって喜ばれていたことでそれを癖にしてしまった哲生の性質上、激するのは難しい。けれども、何事にも我慢の限界というものがあり、そして苛められてされるがままの情けない自分であの人とは釣り合えないだろうとも彼は考えた。
「明日は、ちょっと大変かもなあ」
出来ることならあの自称鬼の女の人を探しに出かけたいが、きっとその前に我が身を整えるのに時間を使ってしまう事だろう。頑張る。ふんすと哲生は鼻息荒くした。身動いで、彼はベッドから毛布を落とす。
それを気にして足下へと振り向いた時、奇しくもほぼ同じタイミングにてガチャリとドアが開いた。そっと自分と大して身長差がない小柄が現れ、哲生は彼女を認める。
「お姉ちゃん?」
「うん! おねーちゃんだよ、てっちゃん! ただいまー。ぎゅー」
「わ。おかえりなさい」
「えへへ。今日は遅くなっちゃった。すてっきーが離してくれなくって。てっちゃんはどうだった?」
「ん……今日は……」
愛らしいが、そのまま形になったように小ぶりな女子中学生。巷で噂の魔法少女らしき存在。哲生の姉、嵐山心は抱きついて、にこやかに弟とスキンシップを取る。姉の長いふわふわ髪が頬に触れ、どうにもくすぐったい。
精一杯でも弱めな抱擁の中にて初恋を軽く口外しても良い物か少し悩んでから、哲生は口にした。大好きなお姉さんに黙っていることなんて、出来なくて。
「好きな人が、出来た、かな?」
「え、ほんとー? すっごい!」
弟の恋愛告白に、心は跳びはねきゃっきゃした。自分の異性愛にあまりに興味の無い彼女はしかし、人の物だと面白がる。好奇心を満足させるために年相応に女の子らしく、矢継ぎ早に弟に問いただした。
「どんな人? 年齢は? 名前は? 性別は?」
「そんなに質問しないでよ……って、とりあえず性別は女の人だよ、多分」
「たぶんー?」
「よく、分からないんだ」
そっと、天井パネルを見上げて、哲生はその白さに心を寄せる。それのごとくに相手の事がまるで分からず、でも好き。そんな自分はおかしいなと、はにかんで大ぶりなクルミと見紛う鳶色瞳を向けてくる姉のために、続ける。
「一目惚れして、告白したら逃げられちゃったから」
「わあ、わあ! なんかまろんだよー」
「うん? マロンって栗じゃあ……」
「そうなんだ! てっちゃん、賢いねー。えらいえらい」
「くすぐったいよ、お姉ちゃん……」
急に撫で始める心。彼女は、自分の覚え間違いなんて気にしない。それくらいに自分の弟の賢さをとても気に入っていたから。
だから、ことあるごとに褒めそやす。髪越しに受ける何時もの柔らかい感触を恥ずかしながら、でも哲生はまんざらでもなさそうだった。
しばらくして離れてから、仕切り直して心は質問をする。
「見た目は、見た目はー! かわいい系? きれい系?」
「んと。何となく、格好良い感じかな……」
「きゃ、それだと可愛いてっちゃんと並んだとき対照的になっちゃうねー。きっとてっちゃんの好み的にその人って年上のお姉さんなんだろうけれど……逆にお似合いなのかなあ」
「うむむ……」
哲生は眉をひそめる。彼は可愛い、と褒められて嬉しく思う男子ではなかった。それに、姉に年上好きと――いくらそれが正しくても――思われていたこともまた、面白くはない。
ほっぺをぷくりと愛らしく歪んだ弟に、心は笑顔で問う。
「他に、特徴はー?」
「そうだね……その人は、角が生えていたかな」
「えっと、しょうゆじゃなく?」
「比喩のこと?」
「たぶんそー。え、それってまさか、もしかして……」
しょっぱい間違いを訂正されてから、額に手を当て少しの間心は悩む。
彼女は秘されていた。それを気軽に言って良いものか悪いものか。少しの間。やがてそんな判断よりも弟のためという大義名分が勝ち、首を傾げる哲生の前で、とうとう心はその正体を口にした。
「……それって。汀ちゃん、じゃないかな? こーんな角が二つ、あったでしょ」
「え」
そして、汀は小さな人差し指二つで、彼女の衝角を真似てみる。よくよく、知っているからそこそこ角度似せて。哲生の目は、大きく見開かれた。
謎の鬼と魔法少女らしき子。その二点は繋がっていた。妖かしに、魔。確かにそれは似ているのかもしれないけれど。けれども身内と彼女が既知での間柄であるとはびっくりだった。それに驚き口を開ける哲生に、心はにへりと笑うのである。
「あは。あの子かあ……」
似合いの柔らか笑顔の奥に、弟の恋路にあるだろう多難を思った。
心は、隔絶したその他の不可思議を、よく知っているから。
「ま、頑張ってねー。ぎゅ」
「わ、きついよー」
そして、弟のためにそんな未来の恐れを忘れて、むしろ安心させるために温かみを教える。
やがて、蛍光灯の輝きの下に姉弟愛は重なり合い、くすぐったいくらいに温もった。
【ははは。惚れられたって? 十くらいの子に、汀が。いやそれは、どうにも……】
【年の差が、ありすぎるわよねえ……】
彼らにそれがなくても問題ないからとはいえ夜に電灯一つも点いていない部屋の一角。
暗がりが覆う屋敷の中で、真っ暗な影が三つ。その内の確かな一つ、二つの尖った先端を揺らし、汀は不機嫌に二人分の会話に返した。
「……なあに。別にあの子と付き合う気はないよ」
【でも、そんなに紅くなるまでに気にしている、と。全く汀ときたら、どうにも相応に初心だなあ】
黒い大柄は、汀を揶揄する。その低い声色に向けて、彼女は舌を出した。
そうしてから、相手が見えていないことを思い出して、紅いそれを引っ込めてから、鼻を鳴らす。
「ふん。それはそうじゃないかな。人間関係なんて、殆ど初めてでとんだ衝突事故を起こしてしまったのだからねえ……」
【本当に、事故だと思っているのかい?】
「楠の鬼に、恋愛なんて……」
【その結果が、君なのに?】
「だから、だよ」
星の光も届かない夜。父の愛ある視線に、汀は闇に暗くなる。思い重く、それに捻た少女は呟きのように言う。
「私は、貴方たちのマイナスだった」
そして、暗闇の中の黒を、見るのだ。
父親と母親の、暗がりの中にしか顕れることのない、染みの影を。
【なあに。生きるとは、そういうことだよ?】
【私達は、気にしていないのに……】
「気に、するよ」
楠の鬼は、常にこの世に一定数。十三。それを超してしまえば、この世は耐えられない。
そして、尖った汀は、二人分は深くこの世に突き刺さっていて。だから、埋蔵したところで足りず、彼女が生まれた頃より父母二人は全てと何より娘のためにこの世から去らざるを得なかった。ただ、多くの意識が眠った宵闇にのみ、彼らは幽霊のごとくに影ばかり現れることが出来る。けれども、それだけ。
自分のために両親がこの世で生きられないということ。そんなの、子供が気にせずに、いられるだろうか。汀は鋭い表情を歪める。
「私は……酷い存在だよ」
【それでも、愛しているよ。心から】
父の言は、どこまでも真摯。それが分かって、愛が沁みて、悼む。
冷えた身体を抱き胸を押さえ、汀は吐き出さざるを得なかった。
「でも、冷たいんだ」
【汀……】
二つの影は震える少女を暖めたいがために、近寄る。しかし、触れ合わんとしたその手はすり抜け、重なり合うことはない。
実体決して交じり合えない、それが彼女ら家族の関係。故に、どこまでも少女が感じる温かみはないのだ。
「だから、私は……」
しかし、そこで口は動くのを止める。これ以上失くしてしまうくらいならば、大切な物なんていらない。そこまでは、父母の前で言うことは出来なかった。
「はぁ」
胸に秘めて、彼女は空に長く息を吐き出す。そうして、何時の間に、楠の誰かの意識の覚醒によるためか、唐突にも影は消えていた。慰めの言葉はもう、響かない。
そうして、少女は暗黒の中で、冷たいままに孤独になった。
翌の日。そんな明暗分かれた二人が再会する前。
再び縁は絡まり、哲生は再びつまずく。そして、永遠の少女を見つけるのだった。
「いや、そんなの誰だって分かるというか……」
「ふふふ。分かってもそれと認められるって、特別なことですよ? えらいえらい、です!」
「わっ」
やがて、更に後に、少年は彼を拾い上げてしまう。
天から落ちて地獄にまで下がった、そんなありきたりな中年男性を。
「おじさん、何している人なの?」
「僕はね、上位に高度情報をすっかり接収された結果、何者でもなくなってしまったおっさんだよ」
「えっと……」
「つまり、無職さ」
光と闇が混じり合い、真に物語の幕が上がるまで、あと少し。
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