21kgの魂〈5/6〉


 僕は一階の、男子教員用の更衣室に閉じ込められた。

 火も月明かりもなくて、部屋の中は冷え切った暗闇で満ちていた。

 放り込まれたときにありったけの防寒具と毛布を渡されたけど、僕はダウンコートだけを着込んで、毛布をどこか遠くに離した。勇吾さんの薄皮を羽織る気にはなれなかった。

「はあ……はあ……」

 息を吐き、かじかんだ手を暖める。わずかに灯った温もりは、すぐに部屋の冷気に奪いとられる。じっとしていようにも、底冷えのするコンクリートの床に座ると、触れた尻から怖気がぶるぶると這い上がってくる。

 僕は震える膝で立ち、壁にもたれかかった。

 氷の手に撫でられたようなそぞろ寒さが走り、僕はあわてて身体を離した。金属製のロッカーだ。

 壁に手をついて部屋を歩き回り、ようやくましな壁を見つけると、そこにもたれかかった。少し壁が動く。木製のドアのようだった。

 どん、と背中でドアを押す。もう一度、今度は床に足を踏ん張り、全力でドアを押す。

「うっ……うっ……うっ…………うあああっ!」

 何度やってもドアがそれ以上動くことはなかった。外のドアノブに椅子でも噛ませているのかもしれない。

 諦めて、僕はドアにもたれかかった。

 彼女が当たりを引いた。

 選ばれた。

 これから彼女は巨大化薬と、同時に首藤が理科室で調合した劇薬を飲まされる。戸外に放り出された彼女は一晩かけて巨大化し、その効果が切れると同じ頃、薄められた毒と低体温症が彼女の命を奪い去る。そういうふうに首藤が調合するのだ。死体は大きくならないから。

 僕は勇吾さんのときを思い出す。

 夜、学校の外に自ら歩み出た勇吾さんは、暗い吹雪の中に消えていった。

 だが、数時間した頃だった。誰もが一睡もできず、かといって言葉を交わすはずもなく、陰鬱とした気分で焚き火を囲んでいたとき、勇吾さんの叫び声が聞こえた。

 助けてくれ、という声は僕らの耳にまではっきりと届くほど大きかったが、それはただ声を張り上げたという感じではなく、奇妙にエコーがかかり、建物全体を振動させていた。

 二階に駆け上がり、窓から雪原を覗くと、巨大な裸の人間がまるで晩冬の山脈のように長々と横たわり、こちらに顔を向けていた。

 助けてくれ、巨大な声帯で生み出されたそれは叫び声ですらなく、ただ口に出していただけだった。

 勇吾さんの声は一晩中続いた。助けを求める哀願は、やがて僕らへの恨み節に変わった。声が途絶えることはなく、むしろ身体が巨大化していくにつれて大きくなっていった。

 死に際の人間のかすれた呪詛は、校舎中に響くほど拡声された。

 もし、勇吾さんにもう少し力が残されていれば、巨大化した身体で這って、あの天文台のような手で僕らのいる校舎を破壊しようとしたに違いない。首藤はそんなことが起こる可能性も考えて、生かさず殺さずの絶妙な配分で劇薬を調合したのだ。

 悪夢のような夜に耳を塞ぎ、僕らは生きる糧を手に入れた。

 彼女も……

 彼女はきっと勇吾さんのようにはならない。申し訳なさそうに頭を下げて、雪原へと歩み去っていく。夜を過ごす僕らの耳に、劇薬に苦しむ彼女の声は一言も聞こえず、朝になり外に出ると、見上げるほど巨大な屍体となった彼女が雪に埋もれて横たわっている。

 もうその目がいたずらそうに細められることはない。その唇がアメリカの児童文学の歴史を滔々と語ることもない。絶望の中に希望を見出す彼女の脳が働くことも二度となく、生まれるはずだった美しい言い回しや心象風景の数々は、永遠にこの世界の記憶から消えてなくなる。

「嫌だ……嫌だ」

 想像したくない。巨大な彼女の頭を見上げると、吹雪の波の向こう側で、生気のない巨岩のような瞳が僕を冷たく見下ろす。唇はやがてひび割れ凍り、恐ろしい氷の破片となって崩れ落ちる。加工に邪魔な脳髄は、眼球を外して作った通り穴からまるで汚物のようにスコップで掻き出される。

 吐き気がこみ上げた。だが、吐いたのは酸っぱい胃酸だけだった。

 手にかかった胃液は暖かくて、思わずそれを両手にこすった自分を、僕は嘲笑った。

 そうまでして温もりを得たいか。

 ああ、そうだよ。寒い。冷たい。

 身体の芯から震えている。動き出した胃は空腹を訴える。

 心は冷気に当てられて、醜く折れ曲がろうとしている。

 ……彼女を差し出せば、火に当たることができる。暖かい毛布にくるまり、汁気たっぷりの焼いた肉にありつける……

「やめろ!」

 どん。僕の拳が背後のドアを叩いた音だった。

 かじかんだ手に、その痛みは何倍にもなって感じられた。

 でも、マシだった。自分の命のために、彼女を見捨てるような人間になるよりは。

「……大丈夫?」

 ドアの向こうから声がした。

 小さく消えそうな、彼女の声。でも聞き逃すことはない。

「ねえ、ずっとそんなところにいたら、風邪ひいちゃうよ」

「嫌だ。僕は認めない。ミナがそんな……」

「やめて。考え込まないで。私はずっと前から覚悟してたから」

「嘘だ。そんなの嘘だ。だって……だって、怖いなんてほんの少しも思ってないの?」

「思ってるよ」

「じゃあ!」

 僕は再び足を突っ張った。ドアに背中を打ちつける。

 何度も何度も。

「じゃあっ、逃げればっ、いいじゃないかっ!」

 背中がじんじんと痺れる。でも僕はぶつかり続ける。

「どうしてっ、どうして! 僕は絶対いやだっ!」

「逃げてどうするの? どこまで行っても雪しかないよ。他に人なんていないんだよ。今、この雪がどこまで積もってるのかわかる? あと何百年もしないと、この氷河期は終わらないんだよ」

「だったら一緒だ。こんな人たちのことなんか知るか!」

「私はみんなのためになりたい。飛鳥あすか君に生きてて欲しい……誰かのために頑張りたいって、初めて思ったの。だから――」

 彼女の言葉はかき消えた。

 僕の体当たりに耐えきれなくなって、破れたドアがものすごい音を立てたのだ。

 背中から外の廊下に転がりでた。割れたドアの板が散らばって、椅子ががらんと倒れた。

 彼女は驚いた顔で僕を見下ろした。瞳には不安と決意の残像が色濃く残っていた。

 僕は彼女の手をとり、走り出した。

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