21kgの魂〈6/6〉

 以前理科室で見つけたマッチを使って、二階の防寒バリケードに火を放った。ぱちぱちと燃え上がった四季実さんの爪は、つんと鼻にくる嫌な匂いを立てた。

 悪臭と熱は一階にいたみんなのもとにも届き、すぐに階下で蜂の巣をつついたような騒ぎが起きた。慌てて火の元を確認しようとみんなが二階へと殺到する。

 その隙をついて、空っぽになったエントランスホールに忍び込む。

 彼女は何度も僕の腕を引っ張って止めようとしたが、声を上げることはなかった。

 四季実さんの肌と骨でできた首藤のテントに潜る。

 教室から運んできた机と椅子、日記にしているノート、手遊びに吹くフルート、それに布団がきれいに整頓されていた。

 既成品の枕を引き裂くと、密封された小さなビニール袋がこぼれ落ちた。風邪薬となんら変わらない見た目の、十粒ほどの錠剤が入っていた。

 巨大化薬をポケットに突っ込み、彼女の手を引っ張って、僕は階段へ戻る。

 間一髪、二階と三階のあいだの踊り場に上がったところで、どたどたと足音がした。

 出火を確かめたみんなが、今度は一階へと降りていった。バケツでも取りに戻ったのだろう。雪をかけて消すつもりだ。

 僕はそのまま彼女と三階廊下に上がり、火を放ったのとは反対側の窓を開け放った。

 窓枠に足をかけ、雪原に飛び降りた。

 ぼすん、と身体は雪に柔らかく受け止められた。

 白塵が舞い上がる。ケーキ作りで最後にかける粉砂糖を連想した。

 やむことなく降り続けていることで、雪は踏み固められていない初雪のような状態を常に保っている。世界中がこの柔らかな綿で埋め尽くされている。

 雪のことを風花っていうんだよ――

 彼女がそう言っていたのを思い出した。風に吹かれてやってくる花びらみたいだから、風花。

 本当に花だったらどんなによかったか。この世界に降り続けるのが花で、子供を失った家族の屋敷や、将来に絶望する若者のアパートや、独裁者の宮殿や、おびただしい血の流れる戦場だろうが構わず、色どり豊かな花びらに埋め尽くされるのであればどんなによかったか。

 寒さや飢えなど感じることもなく、ただその美しさを愛でればいいだけだったのなら、どんなによかったか。

 雪を蹴散らしながら僕は走った。極寒で千切れそうになる彼女の手を引いて、何も見通すことのできない雪原の向こうへ。

 分厚い雲に覆われて、月も星の明かりも存在しない。吹雪は逆風だった。真っ暗闇の中から、山桜のような冷たい雪片が急に姿を現して僕らに襲いかかる。

 白い息を吐き、走り続ける。

 ごうごうと吹雪が耳元を通り過ぎていく音。積雪を蹴り飛ばすはしゃいだ音。あえぐ僕らの息の音。

 上気する身体、肌に帯びる熱とは裏腹に、下着をびっしょりと濡らす汗が確実に僕たちの体温を奪っていく。

「戻ろう、ね? 今ならまだ……」

「駄目だ。走るんだ!」

 真っ白い地獄の向こうへ。

 悪魔の冷たい息吹が吹きすさぶ、その先へ。

 どこまで行っても建物などないのは知っている。わかっている。この先には寒さをしのぐ場所も、食料もないのだ。あのとき凍死しかけるまで探し続けて、結局何も見つけられなかったのだから。

 未来など待っていない。

 だけど……でも……

 走らないといけない。逃げるんだ。逃げ切れない運命があるとわかっても。

 違う。逃げ切れないなんて認めない。彼女が死ぬなんて僕は絶対に許さない。

 逃げ切れない運命だと。そんなもの変えてやる。僕なら変えられるんだ。

 神様でもなんでもいい。僕はここで死んだっていい。彼女だけは……

「待て!」

 男の声が、僕の背中を斬りつけた。

 ごうごうという吹雪の中で声を聞きつけ、僕は止まる。立ちすくんだ足は膝まで雪に沈み込んだ。

 振り返る。吹雪と闇夜の入り混じったベールの向こうに、一つの人影があった。

 ぼんやりと、まるで夢に現れる何者でもないような人間の影。

 首藤だった。

「膨張剤を返せ」

「嫌だ」

「現実を見ろ」

 首藤の叫びが聞こえた。

「誰かがやらなきゃ生き残れないんだ。俺たちが最後の人間なのかもしれない。絶対に死んではならないんだ!」

「誰かを殺して生きて、それでも人間っていうのかよ!」

 僕は吹雪の向こうの人影に怒鳴り返した。

「戻ろう……もういいの。私は……もう充分楽しかったんだよ」

 袖を引っ張ってきた彼女を、振り払った。

「駄目だ! 君は死ぬんだぞ!」

「お願い! どうせ死ぬなら、私は最後に飛鳥君のためになりたい!」

「僕は君を殺してまで生きたくない!」

「――もういい。やめるんだ!」

 首藤の影がこちらに歩み寄ってきた。周りより少し濃い黒でしかなかった影が、徐々に輪郭を現し、やがて首藤の悲痛な顔が目に飛び込んでくる。

「現実を見ろ」

 首藤は繰り返した。

 何を……

 僕は絶句した。

 隣の彼女を見た。

 もう、そこには誰もいなかった。

 ただ猛然と吹きすさぶ雪の群れしかいなかった。

 ポケットに手を入れ、自分の靴紐を取り出す。

 その先端は黒く塗られていた。

「お前の番なんだ、みなと

 極大寒波がやってきて世界が雪に沈んだあの日、なんとか学校に逃げ延びた十七人の男女。すぐに雪もやんで外に出られるようになるだろう、という弛緩した空気の中、焚き火を中心に車座になって自己紹介をした。

 仲野なかの満奈みなです。奥長崎中学の二年生です――見知らぬ大人に囲まれて緊張した様子の彼女は、小さな肩を丸めてお辞儀した。

 あの、僕も奥長崎中の二年です――そう言って僕が手を上げたときの彼女の顔。一瞬何かに怯えたような表情で僕を見た。

 そのとき、学校に来なくなったあの転校生が仲野という名字だったことを思い出した。でも、彼女の表情を見て、僕はそのことについて何も言わず、また自分からは決して口に出さないと心に決めた。

 名前は、飛鳥あすかみなとっていいます――

 僕は膝から崩れ落ちた。

 空を見上げた。

 一欠片の月も、一点の星も存在しない暗黒の空。世界を覆う蓋のようでもあり、どこまでも行き果てぬ無限の奥行きにも見える。

 その視界の一片を、巨大な白いものが埋めていた。

 それは彼女の頭蓋骨だった。

 僕は彼女の躰の内側にいた。

 骨となった彼女は、僕に覆いかぶさるように身体を丸めていた。腰から下は雪に埋もり、外界にあらわになっている部分は壁や屋根のない建造物に似ていた。肋骨は柱であり、雪原に沿うように横たわった腕骨は敷居であり、頭蓋骨はチャペルでありステンドグラスであり祭壇だった。

 いたずらそうに細められる目も、アメリカの児童文学の歴史を滔々と語る唇も、絶望の中に希望を見出す彼女の脳も、もうそこには存在しない。ただ彼女の魂の抜け殻が白い巨大な聖堂となって吹雪に晒されていた。

 炭素が三五キロ、酸素が一四キロ、水素が七キロ、窒素が五・九五キロ、カルシウムが二・四キロ、リンが一・五キロ、カリウムが〇・七キロ。

 そして魂が〇・〇二一キロ。およそ四分の三オンス。

 彼女は巨人になり、彼女の二一キロの魂は天へと消えた。

「仲野満奈は二年前に当たりを引いた。それ以来お前は……」

 ミナ、ミナ、みんなが彼女のことをそう呼んでいた。

 でも、二年前彼女が当たりを引き、巨大で残酷な人身御供となってから、それは僕の呼び名となった。みんなが彼女のことを忘れようとそうした。僕を利用して、彼女の記憶ごと罪悪感を塗りつぶそうとそうした。

 僕にそれを責める資格はない。

 彼女の決意すら忘れていた僕には。

 彼女はここにいた。

 僕の隣ではなく、ずっとここにいたのに……

 皮を剥がれ、内臓を掻き出され、肉を切り分けられ、みんなのために己のすべてを差し出して、ずっとここで雪に晒されていたのに、僕は忘れていた。彼女の肉を喰い、骨を利用し、皮膚を肩に羽織っていたのに忘れていた。

 忘れていた。

 図書館で『蝿の王』を探したときのこと。あのとき交わした約束。

 あれは昨日の出来事じゃない。

 二年前、選ばれた彼女と過ごした、最後の思い出。

 置いて行かないで、って頼んだのは僕の方だった――

「僕は……僕は……」

 暖かいものが頬を伝うのを感じた。涙は一瞬にして凍り、僕の肌に張りついた。

 この世界では、涙を流すことすら許されない。

「湊」

 僕は首藤に助け起こされた。

 首藤は僕の腕を自分の肩に回したまま、言った。

「お前は……死ななくてはならない。みんなで決めたルールだ。四季実も勇吾も、満奈もそれに殉じた。お前だけ許すわけにはいかない。一度例外を作れば、私たちの結束は揺るぎ、いずれ崩壊するだろう」

 首藤の顔。苦しい決断をするのは、いつも首藤の役割だった。首藤はそれを忍んで受け入れた。みんなのために。

 首藤は僕の手に、小瓶を握らせた。

「薬と一緒に飲むんだ。痛みも苦しみもない。眠るようにとはいかないが、寒さも感じなくなる」

 受け取った小瓶には琥珀色の液体が波打っていた。彼女もこれを飲んだはずだ。

 彼女との思い出が、正しい思い出がやっと僕の脳裏に蘇る。

 彼女は暖かった。太陽さえ顔を出さない冷たく凍えきったこの世界で、唯一暖かい光を放つものだった。

 僕はポケットから巨大化薬の入ったビニール袋を取り出した。

 錠剤を一粒だけ手に出すと、残りの袋を首藤に渡した。

「ねえ、首藤さん……天国にも図書館はあるのかな」

「ある」

 首藤は袋を握りつぶした。食いしばった歯で唸るように繰り返した。

「きっとあるさ……」




 世界の中心に僕はいた。

 地上のすべてが雪原と化したこの世界では、どこにいようと世界の中心だった。

 手のひらにかかった雪が溶けていく。

 僕は溶けた雪ごと錠剤を口に運んだ。

 コルクの蓋を開けて、小瓶の中身でそれを飲み下した。

 首藤の言ったとおり、痛みも苦しみもなかった。

 ただ力が抜けて、僕は前のめりに倒れ込んだ。

 雪は優しく僕を受け止めた。

 寒さはなく、むしろじんわりとした熱を身体の内側に感じる。熱は、まるで一本ずつ蝋燭に火を灯すみたいに暖かさを増していった。

 着ていた服に圧迫感を覚える。

 でも、そんなダウンコートやシャツも、大きくなっていく僕の身体に耐えきれなくなってすぐに破けた。

 布の切れ端は風と雪に流されて、闇の向こうへ消えていった。

 炭素が三五トン、酸素が一四トン、水素が七トン、窒素が五・九五トン、カルシウムが二・四トン、リンが一・五トン、カリウムが〇・七トン。

 そして魂が二一キロ。

 重くなってしまった僕の魂はきちんと天国に昇ってゆけるだろうか、と思った。

 彼女の声が聞こえた。

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