21kgの魂〈3/6〉
三階にある図書館は冷え冷えとしている。周りを雪に埋め立てられた一階はかまくらの要領でそこまで寒くないが、ここに来るときは防寒具をしっかりと着けて、焼いた石に布を巻きつけたカイロを持ってこなければならない。
僕と彼女は面白そうな本を探して、迷路のような本棚を歩き回った。
この学校に住み始めてからもう三年半になる。日を追うごとに、本を探す時間は長くなった。
まさか図書館の本を全部読んだなんて言わないけど、それでも興味をかきたててくる本はあらかた読んでしまったのだ。今となって読みたい本を見つけるのは、宝探しに似ていた。
「ねえ、今日はちょっとゲームをしようか」
彼女は昨日まで読んでいた『銀河鉄道の夜』を棚に戻しながら、言った。
律儀な彼女は、読んだ本の図書カードにきちんと自分の名前を書き込んでいる。
「どんなゲーム?」
「私がある文章を言うの、それがどの本の一節なのか当てて」
「難しすぎる。どれだけ本があると思ってるの」
「大丈夫。有名な文章にするから」
そう言った彼女は何か企んでるような、いたずらな笑みを浮かべた。
「わかったよ。やるよ」
「じゃあ、日暮れまでに見つけられなかったら、罰ゲームね」
「そんなのずるい――」
「『他の子たちのところへ帰れ。あれは冗談だったんだ――気にすることはない。おまえは間違えた。それだけのことだ。頭痛のせいだろう。何か腐ったものを食べたのかもしれないな。さあ帰れ、子供、と豚の頭は沈黙したままいった』……はい、探してみせて」
豚の頭? どこかで読んだような気はしても、思い出すには至らない。凝った学術書にも思えるけど、たぶん小説だろう。僕はとりあえず国内小説のコーナーに向かった。
いつのまにか彼女の罰ゲームを受け入れている自分に気がついた。いつもそうだ。頑固な面のある彼女は一度こうと言ったら聞かなくて、いつも僕はあとを追いかけることになる。
「ねーえ、私さあ……」
本棚の森の向こうで彼女の声が聞こえる。僕は白い息を吐きながら、問い返した。
「なに?」
「やっぱりいい」
「気になるから言ってよ」
「……嫌な奴って思われる」
「そんなこと思わないよ」
そう言いながら、僕は背表紙の列から顔を上げた。
「私ね……こんな時間がずっと続けばいいのにって思ってる。時が止まったみたいなここで、ずっと二人で本が読めてたら……って」
僕は答えに詰まった。
彼女が言ってるのは、おそらく僕らが辿るであろう終末だった。そして言ってはならない予言だった。この学校に住んでいるみんなが、そのほとんど確定した末路を無視して、仲間を犠牲にしてまでもわずかな希望に縋って生きているのだ。
だけど、みんなが絶望の恐ろしさから目をそむけている未来に、彼女だけは希望を見出した。
その感性はきっと読書家としてすばらしいものなのだろうけど……でもそれは……
僕は言った。
「僕もそう思うよ。でも……もっと暖かいところだったらもっといい」
「そう……だよね」
「絶対叶うよ」
そのとき僕の頭が閃いた。海外文学のコーナーに足を向け、一冊の小説を抜き出して彼女のところに戻った。
「これでしょ。ゴールディング『蝿の王』」
「正解」
ちょっと不満そうに彼女は言った。
「早かったね」
「これを勧めたのは君だろ」
「そうだったっけ?」
くるりと渋顔をひるがえして、彼女は笑った。
『蝿の王』……五四年に書かれた小説だ。無人島に漂着したイギリス人の少年たちが、最初は協力して生活しようとするも、やがて生じた不和によって対立する。ついに片方の集団は獣性を剥き出しにし、仲間を手にかけ、主人公も命を狙われるという、子供の残酷さと閉鎖空間における人間の狂気を描いた小説だ。蝿の王とは聖書に登場する悪魔ベルゼブブのことで、斬り落とされた豚の頭として作中に現れる。
歯切れはいいが、陰鬱な小説だ。暗黒版『十五少年漂流記』と言ったのは誰だっけ。
「……私、無神経だったね、こんなときにこんな小説を選んで。ごめん」
「僕らはジャックのようにはならないよ。首藤さんだっているんだから……」
首藤は人望もあり、機転もきいた。巨大化薬で仲間を資源にすることを提案したのは彼だったし、そのくじ引きに自らも参加することで『蝿の王』みたいな不和が僕らのあいだに生じる可能性も取り除いた。
同僚だったという四季実さんが最初の躰になったあとはさすがにふさぎ込んでいたけれど、一ヶ月ほどすると、これまで以上のリーダーシップを発揮して集団を導いていった。
一番年下の僕と彼女は、ただそれについていけばよかった。
僕と彼女は極大寒波が来たときにはまだ中学生で、同じ学校に通っていた。だけど、僕が彼女の顔を見たのは、この学校になんとか避難した三年前が初めてだった。
それまでは名前しか知らなかった。二年生のときに別のクラスに転校してきた彼女は、最初はふつうに登校していたらしいけど、すぐに学校に来なくなった。教師も何も言わなかった。
一体何があったのか。いろんな噂が錯綜したけど、結局全部ただの噂に過ぎない。転校してきたばかりの彼女のことをきちんと知ってる生徒なんかいなかったし、家に押しかけて彼女の悩みを解決してやろうなんて殊勝な人間もいなかった。
それは僕も同じだった。別のクラスで顔も知らない転校生の出来事。友達と遊んだりテスト勉強で忙しい僕の頭から彼女のことは急速に忘れ去られていった。
だから、異常な吹雪が窓を叩く音の中の自己紹介で彼女が名乗ったとき、僕は一瞬誰のことだかわからなかった。そう。まるでさっき『蝿の王』の一節を暗唱されたように。
僕の自己紹介を聞いて、彼女は同じ中学の生徒だと気づいたはずだった。自分の不登校を知っている人間だということにも。だけど、これまで彼女は何も言ってこないし、僕も尋ねてこなかった。
「ちぇっ。じゃあ罰ゲームは私かぁ」
彼女は芝居がかった仕草で床を蹴ってみせた。
「えっ……いいよ。考えてなかったし」
自分が彼女の気まぐれに振り回される未来しか頭になかったのだ。彼女にも罰ゲームがある、対等な勝負だと思っていなかった。僕らしいといえば僕らしい。
「えー? そんなのフェアじゃないよ」
ずいっ、と彼女は僕に顔を突き出した。思わず僕はのけぞって、氷のように冷え切った背後の机に尻をぶつけた。
「なんでも私に好きなことしていいんだよ。なんでも」
彼女の顔がすぐ目の前にあった。長い睫毛の一本一本が数えられそうなほど。
寒さでピンク色に染まった頬。覗き込むとどこまでも落ちていきそうな黒い瞳。マシュマロみたいに柔らかそうな唇。
僕はあわてて目をそらした。
「僕の罰ゲームはなんだったの」
声が裏返らないように気をつけなければならなかった。心臓の音がうるさかった。顔が火照って、恥ずかしかった。
彼女は不服そうに口を尖らせて、僕から離れる。
その顔を伏せて、彼女はつぶやいた。
「……もうどこにも、私を置いて行かないで」
問い返す無粋をする暇は、なかった。
彼女の身体が僕に飛び込んできた。腕を両脇に回され、顔を胸に埋められた。冷たい彼女の防寒具が僕の手に触れた。僕は一瞬ためらったあと、手をそのまま背中に回して抱きしめ返した。
小さな身体だった。あの雪の中に置けば、頭も出せずに沈んでしまいそうなほど。
「こんなことしなくたって、どこにも行かないよ。約束する」
彼女の涙が、僕のダウンコートの上で凍っていくのがわかった。
その日は朝から何かが違った。みなで理科室の硫酸で勇吾さんの皮をなめし、削り取った皮膚から保健室のシーツで脂を濾しているときも、何か異様な直感がみんなのあいだに流れているのを肌で感じていた。それは空気の冷たさとも違う、圧力鍋の中に放り込まれたようなひりひりとした緊張だった。
今までもこんな日があったのを覚えている。だけど、一体これが何を意味しているのか、この空気になんと名前をつけたらいいのか僕はわからなかった。
昼ごはんにみんなで勇吾さんの肉を食べているとき、やっと閃いた。
共犯者。
今食べているこれが、勇吾さんの躰の最後だった。
くじ引きをするときが来た。
新たな家畜を決めるときが来た。
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